錬金術師列伝

カルチャー|2022.7.15
澤井繁男

第1回 錬金術とは何か

「錬金術師列伝」を書いていくが、読者にはまず、錬金術の何たるかを知っていただきたい。この知識がなければ、術師になっていく人物の思想的・知的傾向もつかめないからだ。「神学」のように学問ではなく「術」の世界にあることをも字面から理解してほしい。簡単にいうと合理的ではないという意味で非合理の世界を念頭に置いて、こうした非合理の世界にも一定の「体系化」が存在しており、それがかなり複雑に錯綜している。
 原理を知ることから始めて、その歴史を簡潔に述べてみたい。

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 いちばん重要なことは、「反キリスト教」の立ち位置を取ることだろう。というよりもキリスト教誕生以前から存在の萌芽があったので、完成された「術」が反キリスト教の立場になった、と表現した方がよいだろう。つまり「東方の知」、もっと具体的にいえば、ヘレニズムの知の一環として生まれた。「ヘレ」とは「ギリシア(風)の」という意味で、古代ギリシアの知が何らかの形で影響をおよぼすことになる。これは歴史の節であらためて語ろう。

教義では「反キリスト教」という観点を押さえると把握しやすいが、その前に大切な点は、錬金術の対象が「鉱物」にある、ということだ。占星術の対象が天上界にあるように(ちなみに占星術=星占いがいまだに盛行をきわめているのはなぜだろう? 「天文学」として宇宙空間、星辰間の物理的計算が存在しているのに……。答は簡単だ。「学」となった天文学という合理的知では、「術」である占星術のように、人間や国家などの「運命」を予測できないからだ。「運命」など合理の世界では全く計れないから)。

となると、鉱物を対象とする錬金術の役割・真意とは何か。キリスト教と比較をすると、錬金術師は、物質(鉱物)のなかにキリスト教とは異なるヘレニズム文化の神を求めて、鉱物の裡の霊魂(魂・いのち)を救うことを第一義とし、その次に術者の救いがあった。他方キリスト教は、人間とは神によって救われるべき存在で、人間が何かを救済する術の存在など論外だった。

このような仕儀にいたるとおのずとみえてくるのは、錬金術師が救う対象には、鉱物(物質)が介在していて、その裡の霊魂を救済するのだから、鉱物のなかに霊魂の存在を認めるアニミズム(多神教)の世界観が現出するということだ(鉱物のような無機物も生きている、ということになる)。一神教のキリスト教とは違うので、キリスト教隆盛時には「異教」として弾圧を受けたことくらい想像がつくだろう。

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 それから錬金術(師)の作業の絵図をみれば一目瞭然なのだが、竈(かまど)が前面に表示されている。これは「火」を用いる術の証である。ダンテ・アリギエリ(1265-1321年)著『神曲』中の「煉獄編(浄罪界)」は、現世での罪が火で浄化される場として設定されているが、ここでも水でなく火が用いられている。日本でも「~の火祭り」という祭りがそこかしこにみられる。「水」も清浄の方途とされるが火も同様で、錬金術では火が重んじられる。

ハンス・フレーデマン・ド・フリースAmphitheatrum sapientiae aeternaeに描かれている錬金術師の研究室
ダンテ・アリギエリ

さて、3番目の特徴として、きわめて理念的な術だ、ということを挙げておこう。今回の最後の方で、まとめて錬金術の歴史を述べるが、そこでこの理念性の件がわかるだろう。
 近代自然科学(いわゆる科学)の発祥の源は、具体性ではなく抽象性にあって、事例を出せば、アリストテレス哲学ではなくプラトン哲学にこそ出発点があった。この件は、いずれ扱うパラケルスス(1493-1541年)のとき詳細に論じよう。

この傾向を継承したのかどうか、その実証的・実験的民族性のためか、アラブ世界で、錬金術の二大要素となる、「硫黄・水銀の理論」が考案される。この2つ、実際の硫黄や水銀を指さず、それらは「卑俗な硫黄」「卑俗な水銀」と呼び、錬金術の方は、高尚にも「哲学の硫黄」「哲学の水銀」と称する。「哲学」が冠せられた時点で、すでに観念化され、その実在が危ぶまれる。

非存在らしきこの2つ+火(火力・加熱)が相互に作用し合って術が行なわれる、ということになる。いかがわしい印象がぬぐい切れないのだが、もとより、鉄、錫、鉛などの卑金属から術を用いて金銀(貴金属)を得ようとするのが錬金術の本義である。しかしこうした実在が危惧される哲学の硫黄と哲学の水銀などで金銀を得られるのか。ここは一歩立ち止まって考えなければなるまい。

整理してみると、卑金属を竈のなかに入れて、哲学の硫黄と哲学の水銀を混ぜ、火を焚く。そうすれば金銀になる。でもこれは実現可能なのか。どう考えても無理なような気がする。現代科学でも金は人工では造れないのだから。

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 そこで私が思うのは、どうして竈のなかで「無理強いして」金銀を造る必要があるのか、という、単純だが根本的な問いである。鉱物を生きているとみなしていたら、土中で成長して、やがて、鉱物の種類に差異があっても、金銀になり得るものが出現するのではないか。
自然の理(ことわり)に任せず、人為的に操作して短時間で金銀を得る―それが錬金術ではないか。早く金銀を得たいという人間の欲がみえてくる。錬金術の「金」が、ゴールドでなくマネーと勘違いされるのもわかるというものだ。

そうすると竈が置かれている場は錬金術師の「工房bottega」あるいは、「実験室 laboratorio」となろう。「工房 ボッテーガ」はそれでよいが、「実験室 ラボラトーリオ」が曲者(くせもの)である。この単語が、lab(o) と oratorio の組み合わせであることが見抜けるだろうか。前者は英語でいうlabor「労働」に相当し、後者は、イタリア語で「祈禱室」の意味である。「労働(作業)」と「祈禱室(祈り)」が重なって意味するところは、錬金術師の作業の場では、作業と祈りが共存していることで、作業は錬金作業であろうが、祈りは卑金属の、金銀に向けての成長を、それも無理な成育を祈念している、と取れる。と言おうか、無理無体だからこそ祈りを捧げる、と解した方がよいだろう。

「祈り、祈禱」は精神的営為であって、ここに物的意味はない。もちろん卑金属の金銀化達成のための祈りであるのは間違いないが、精神性・理念性が加味されて、鉱物(物質)性から乖離する。

祈る術者にしてみれば、不可能を可能にするための必死な祈禱であって、ここに精神の浄化がうかがえる。錬金術とは、火と哲学的理論を介した精神の浄化・清浄化といえよう。少し飛躍するが、金銀を得るために術者(自分)の方が祈る。これは相手に変わってほしいときには自分の方が(祈って精神を浄化して)変わらなくてはならない、という人生・社会訓にもつながる。学では得られない術の徳性である。

第1回(1)、了

次回は、7月29日です。

澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。

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