第1回 有職覚え書き

コラム|2021.7.27
文=八條忠基

季節の有職ばなし

●ラーメン 

7月11日は「ラーメンの日」。
なぜラーメンの日かと申しますと、日本で最初にラーメンを食べたとされる徳川光圀(水戸黄門)の誕生日だからなのだそうです。そして「7」を「レンゲ」に、「11」を「箸」に見立てたことから本日なのだそうです。
水戸黄門ラーメン説の根拠がこの文献です。

『日乗上人日記』(皆如院日乗)
「(元禄十年(1697)6月16日)晩課前、日周師ニカケトイフ物振舞ニテ御所ニテ参ル。ウンドンノゴトクニテ汁ヲイロイロノ子ヲカケタル物ナリ。」

黄門様が水戸藩に招いた明の学者・朱舜水から伝授されたラーメン的な何かを、知人・家臣に振る舞った、という記録です。長年これが記録上、日本最初のラーメンとされていました。しかし2017年7月、これを覆す新説が登場。蕎麦屋専門の食材商社・イナサワ商店の会長である稲澤敏行氏が文献を調査した結果、約200年ほど日本におけるラーメンの歴史がさかのぼることになりました。

『蔭涼軒日録』
「文明十七年(1485)五月十七日、(中略)予撿居家必用。長春酒、黄耆酒、神仙酒、地黄酒、天台紅酒、鷄鳴酒、満殿香酒、菊花酒、煮酒等有之。麺食品有、水滑麺、素麺、経帯麺、托掌麺、紅糸麺、翠縷麵等。又乾麵品。」

『蔭涼軒日録』は、京都相国寺鹿苑院内・蔭涼軒主の日記。そのお坊さんが中国・元の時代の日用類書『居家必用』に当たってお酒や麺食品を調べています。そしてその3年後、麺食品の中から「経帯麺」を作って宴席に出しているのです。

「長享二年(1488)二月 朔<丙申>。不参。天半陰半晴。(中略)永徳院春陽対面。勝定桃源老亦来有宴。経帯麪也。」

さて、この「経帯麺」とはどのようなものであったのでしょう。元ネタ本である『居家必用』を見てみましょう。

『居家必用』
「経帯麪  頭白麵二斤、减一両、塩二両、研細新汲水、破開和捜比、捍麵剤微軟。以抝棒抝百余下。停一時許。再抝百余下。捍至極薄。切如経帯様。滾湯下、候熟入凉水抜。汁任意。」
(上質の白麺[小麦粉]二斤当たり、「碱」一両を細かに研って新しく汲んだ水でとき、麪に和わせて、麵剤よりやや柔らかめに捏ねる。それを拗棒で百余回拗し、二時間ほどねかせて、また百余回拗す。そしてごく薄くなるまで捍べる。それを「経帯」のように切り、煮えたぎった湯に入れる。火が通ったら冷水に入れてしめ、水切りを行う。汁はどのようなものでも良い。)

「碱」は炭酸ソーダで、中華麺を作る時に用いる「鹹水」の原料。そして「経帯」はお経の巻物の帯紐のこと。製法を見ますとこれは幅広中華麺ですね。「滾湯下、候熟入凉水抜」などという表現は、まさに有名ラーメン店の店長がチャッチャッと湯切りをする様子を彷彿とさせます。冷水でしめていますので、「つけ麺」なのでしょうか。

ラーメンの定義は定まっていません。ここでは「鹹水を用いた麺」を中華麺とし、中華麺を使った麺料理をラーメンと位置づけているわけです。黄門様のラーメンは「汁ヲイロイロノ子ヲカケタル物」と、熱い汁をかけたもののようなので、現在のラーメンにより近いとも言え、どちらが先かは何とも言えないかなと思います。

江戸中期以降になりますと、長崎で清国人から麺料理をふるまわれた記録が見られます。

『塩尻』(天野信景/江戸中期)
「異邦の饗応、日本の膳部に同じからず。(中略)臘味<臘鴨風雨塩引等>、海味<諸魚麦厥腸等多し>、湯麺<歟>。」

『八僊卓燕式記』(山西金右衛門/1761年)
「清人呉成充船中饗金右衛門式。(中略)中食(シヨンジツ)揀麵(ケンメン)。此方ノ温飩ノ如キモノナリ。小麦ノ粉ヲ鷄蛋汁(キイダンヂツ)ニテノバシ、長サ二寸ホドニ剪リテ、猪(ブタ)ノ細腸(スイチヤン)、木耳(モルウ)ヲツマニシ、淡醬油ニテ烹テ出ス。」

この「揀麺」はウドンのようなもので、玉子麺。腸詰めのようなものとキクラゲを具に、薄い醤油で仕立ててある。はて、どのようなものなのでしょうかね? それにしましても現代のラーメンは、日本の食文化のひとつのジャンルを形成するまでになっています。これには黄門様もビックリしていることでしょう。

ラーメン

●蒲鉾

7月21日は、「カマボコが食べられた最古の記録がある日」です。

『類聚雑要抄』
「永久三年(1115)七月廿一日戊子 関白右大臣殿東三条移御 御前物台三本足
 焼鮹 楚割 分坏 蒸鮑 干鳥
 台三進 鱸鱠 鯛鱠 蒲鉾 炒熟汁 鯛平焼 鯉鱠 寒汁鯉 汁鱠 零余子焼
 台一進 醤 酢 酒 塩 (後略)」

関白右大臣・藤原忠実が、摂家当主の邸宅である「東三條殿」に引っ越した祝いの饗膳です。『類聚雑要抄』は編纂が鎌倉時代初期と思われる古文書で、東三条殿における装束の仕様について詳しく記してあり、非常に貴重なものです。そこに「蒲鉾」が絵付きで登場。語源である「蒲の穂」に似た形状で、今で言えば「竹輪」のような姿で描かれています。

平安・鎌倉の文献で「蒲鉾」に相当する単語はあまり出てきませんが、室町時代になるとポピュラーな御馳走になっていたようです。

蒲の穂
『類聚雑要抄』(写本:国立国会図書館蔵)

『宗五大草紙』(伊勢貞頼/1528年)
「料理の事  一かまぼこはなまづ本也、蒲のほをにせたる物なり。」

ナマズの肉で作るのが本式だと言っております。この本のタイトルは偶然の一致ですが、「大草家」というのは室町幕府の将軍料理番で、格式の高い料理を作り、今に伝わる会席料理の基本を定めた家、と言って過言ではないでしょう。

『大草殿より相伝之聞書』(室町後期)
「一かまぼこのしべ、長さ五寸、さきの広さ二寸、本の広さ一寸六分ばかり。一かまぼこは、五ツ又三ツももり候。うをを能すりて、すりたる時いり塩に水を少しくはへ、一ツにすり合、板に付る也。付やうは、かさをたかく本うらおなじ様に付べし。又五ツの時はかさをひきく付てよく候。あぶりやうは板の方よりすこしあぶり、能酒に鰹をけづり煮びたし候て、魚の上になんべんも付あぶるなり。総じて針をさす事わろし。」

蒲鉾の製法が詳しく書かれています。『宗五大草紙』には「蒲の穂に似せた」とありますが、『相伝之聞書』では「板に付る」とあって、現在のような板蒲鉾に進化しているようです。しかし蒸すのではなく、焼き蒲鉾のようです。下鴨神社の納涼イベントでも、糺の森で「みたらし団子」を食べた後、おみやげに蒲鉾を買って帰った、とあります。

『日次紀事』(黒川道祐/1676年)
「十九日下鴨社 (中略)諸人参詣為納凉之遊、林間仮設茶店、而売酒食及和多加鮓等、鯉刺身、鰻樺焼、真桑瓜、桃、林檎、太凝菜(コヽロブト)、或以竹串貫小団子数箇、焼而売之、是称御手洗団子(ミタラシダンゴ)。社司盛此 団子於台而献高貴家。参詣人亦求之。或蒲鉾、金灯籠(ホウヅキ)草買之賺児女。」

魚肉練り製品の焼物は、『類聚雑要抄』に書かれた以前からあったとも考えられますが、文献上の最古はこのときの記録です。そして永久三年が西暦1115年にあたることにより、数字を採って「11月15日」が「かまぼこの日」になっています。ふつうに考えれば「7月21日」が蒲鉾の日になりそうですね。西暦の数字を月日に当てるのは、ちと強引に思いますが、全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会としては、夏場は避けたかったのかもしれません。「かまぼこの日=11月15日」は、七五三祝いで蒲鉾を食べてもらおうという意図もあるのかな?

古式の蒲鉾

●西瓜

7月27日は「西瓜(すいか)の日」だそうです。
夏休みでスイカを食べるシーズンでもありますが、その縞模様が「綱」のように見えるので、「27」を「つな」を読むのだそうです。

スイカ(西瓜、学名: Citrullus lanatus。縞模様のスイカは、昭和時代から普及したものだそうで、それ以前のスイカは深緑一色だったとか。そもそもスイカが日本に伝来したのは、明確ではありませんが室町時代頃だそうです。『扇面古写経』や『鳥獣人物戯画』には縞模様のある球形の瓜が描かれていますが、これはスイカとは別の瓜、ということでしょうか。日本在来のマクワウリでも縞模様はありますから。また江戸後期の『江戸名所道化尽 十九 大橋の三ツ股』(歌川広景)の挿絵では、深緑の皮に縞模様のあるスイカが描かれています。このようにスイカは江戸時代には庶民にも普及していました。

『本朝食鑑』(人見必大/1697年)
「水瓜 釈名 即西瓜也。俗以瓜中多水而名之。華音西読為須伊扵是又称之歟。
集解觧 処処多有江東最美。二月下種蔓生滋茂。花葉略。如熟瓜団長而大。七月熟。色深青或緑或青黄斑。肉碧瓤紅或白。(中略)今公侯士民倶果食。或穿瓤入沙糖数椀経半時許而食之。或用熟水瓜去皮及外肉取瓤肉去核子、煮燗于沙糖湯令如膏餳待冷蔵于磁壺中。此号水瓜膏。」

穴を開けて砂糖を入れ、しばらくなじませてから食べる。当時のスイカはあまり甘くなかったのでしょうね。

『臨時客応接』(和田信定筆授/1819年)
「水菓子は五六寸位の皿へ盛、(中略)西瓜は皮を剥、長一寸位宛に切て、小皿に砂糖を添る。但砂糖なくば添ずともよし。」

丸かじりではなく、皮をむいて切って供されたとのこと。やはり砂糖を添えることもあったようですね。今のように塩はかけなかった? ところで、むかしからスイカを食べすぎるとお腹を壊すと言われました。

『本朝食鑑』
「京師俗言水瓜有毒不可多食。江都俗言熟瓜有毒不可多食、水瓜無毒多食無害。此皆民俗賤夫之語也。京師水瓜不多、若有之則味短偶食之、動患胃冷洞泄是所以為有毒也。江都熟瓜最多而民俗所食者尤粗悪者故急有害。其水瓜最多価亦賤而上下不相隔故民俗所食亦不悪加<ノミナラズ>熟瓜為害者邇水瓜為害者遠。是以可知有毒無毒之言耳<トモ>熟瓜水瓜倶性寒不可多食之。」

京都では「スイカは有毒」、江戸では「マクワウリは有毒でスイカは無毒」と言われていますが、食べる頻度によっての差であって、これが正確とは言えませんが、瓜は体を冷やす特徴があるので食べすぎはダメだとされています。暑い季節には冷やした西瓜は大変おいしいですが、何ごとも過ぎたるは及ばざるが如し。

『扇面古写経』(下絵模写・部分)縞模様の瓜。
『江戸名所道化尽 十九 大橋の三ツ股』部分(歌川広景、江戸後期、国立国会図書館)

季節の有職植物

●梨

7月4日は「7、4(なし)」で「梨の日」です。梨は古代から栽培された果樹でした。

『日本書紀』
「持統七(693)年三月丙午《十七》。詔。令天下勧殖、桑・紵、梨・栗。蕪菁等草木。以助五穀。」

この「梨」がどういうものであったかですが……。

『和名類聚抄』(源順・平安中期)
「梨子 唐韻云梨<力脂反。和名奈之>。果名。兼名苑云梨子、一名含消。」
「檎子 陸詞切韻云檎<音離。和名夜末奈之>。山梨也。」

現在栽培されているフルーツの梨(学名:Pyrus pyrifolia var. culta )は、野生種ヤマナシ(ニホンヤマナシ、学名:Pyrus pyrifolia var. pyrifolia )を改良した栽培品種です。源順先生は「梨子」と「檎子」(正確には「檎」の「𠆢」の無い字)をどう区別していたのか、ちょっとわかりません。ともあれ梨は、平安時代のポピュラーな「菓子」(フルーツ)のひとつでした。

『延喜式』(大膳職)
「緒国貢進菓子(中略)丹波国〈甘葛煎六升、甘栗子二棒、搗栗二石一斗、平栗子、椎子、菱子二棒〉。丹後国〈甘葛煎一斗〉。但馬国〈搗栗子七斗、甘葛煎〉。因幡国〈甘葛煎一斗、平栗子五斗、椎子一担、梨子二担、柑子干棗〉。」

『源氏物語』(若菜上)
「次々の殿上人は、簀子に円座召して、わざとなく、椿餅、梨、柑子やうのものども、さまざまに箱の蓋どもにとり混ぜつつあるを、若き人びとそぼれ取り食ふ。」

内裏後宮の七殿五舎には、様々なニックネームがありました。坪庭に藤が植えられている飛香舎は「藤壺」、桐が植えられている淑景舎は「桐壺」などなど。そして梨が植えられている昭陽舎は「梨壺」です。平安時代中期頃からは東宮(皇太子)が居住する殿舎として用いられました。

『源氏物語』(澪標)
「この大臣の御宿直所は、昔の淑景舎なり。梨壺に春宮はおはしませば、近隣の御心寄せに、何ごとも聞こえ通ひて、宮をも後見たてまつりたまふ。」

天暦五(951)年、村上天皇の命により、梨壺に和歌所が置かれ、『万葉集』の解読、『後撰和歌集』の編纂などが行われました。この和歌所の寄人5人が通称「梨壺の五人」です。

『十訓抄』(鎌倉中期)
「かの清少納言は、天暦の御時、梨壺の五人の歌仙の内、清原元輔女にて、やまとことばも家の風吹き伝へたりける上、心様わりなく優にて、折につけたる振舞ひ、いみじきこと多かりけり。」

清少納言のお父さん、清原元輔。それから大中臣能宣、坂上望城、紀時文、そして『和名類聚抄』を編纂した源順の5人です。

●オニユリ

オニユリ(鬼百合、学名:Lilium lancifolium)です。百合は古代からありました。

『古事記』
「(神武天皇即位・割注)其河謂佐韋河由者。於其河辺山由理草多在。故取其山由理草之名号佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。」

「山由理草」、つまりヤマユリの本当の名は「さい」と言い、「さい」がたくさん生えていたので「さい川」と名付けたとしています。

『日本書紀』
「皇極天皇三(644)年夏六月癸卯朔。大伴馬飼連献百合華。其茎長八尺。其本異而末連。」

これらの百合はヤマユリ(Lilium auratum)や、ササユリ(Lilium japonicum)などではないかと見られています。

『和名類聚抄』(源順/平安中期)
「百合 本草云百合一名磨藣<音罷。和名由里>。」

平安時代には「さい」の言葉が消えてしまい、「ゆり」が和名として認識されていたようです。夏を代表する花の1つになっています。

『尺素往来』(一條兼良/室町後期)
「夏花者、岩藤、卯花、芍薬、薔薇、味佐井、下津毛、萱草、蜀葵、蓮花、夏菊、夕顔、烏扇、花菖蒲、岩躑躅、木瓜花、宝珠花、和瞿麦、唐瞿麦、早百合、姫百合、脱桜、花橘、桐花、梔花、榴花等。」

今は野生で見られるオニユリですが、古くは中国から食用として入ってきたのではないかと言われています。いわゆる「百合根(ゆりね)」ですね。そもそも「百合」という漢字は、百合根の鱗片がたくさん合わさっている姿を意味しています。

『庭訓往来』(室町前期)
「菓子者、抽柑、柑子、橘、熟瓜、沢茄子等、可随時之景物也。(中略)時以後菓子者、生栗、搗栗、串柿、熟柿、干棗、花梨子、枝椎、菱、田烏子、覆盆子、百合草、零陵子、随御自愛可用之。」

お菓子の一種として「百合草」があります。江戸時代はポピュラーな菓子材料でした。

『経済要録』(佐藤信淵/1827年)
「糖飣(サトフヅケ)モ製スベシ。仏手柑、生姜ヲ始トシテ、黄精、天門冬甘露児(チヨロギ)、天王寺蕪菁、橘子(ミカン)、金柑、蓮根、百合(ユリ)、南瓜(カボチヤ)、蕃南瓜(トウナス)、零余子(ムカゴ)、刀豆(タマメ)、甘薯、土欒児(ホドイモ)、秋茄子(アキナス)、萍蓬根(カフホネノネ)、竹筍、烏芋(クロクハヒ)、水慈姑(クハイ)等ノ類、皆沙糖漬トナスニ宜シ。」

百合根の砂糖漬けですって。

『古今新製銘菓秘録』(1862年)
「百合餡 一これは白きを第一とするゆえ、砂糖類極吟味を遂て製すべし。唐三盆又は氷砂糖ともに煎じ方に念を入べし。前にしるすごとく、百合の目方をかけ分て、其目方と等分に砂糖を入て、火かげん第一に気を付て煉つめるなり。」

こちらは百合根を使った「百合アン」。クセがなくホクホクした百合根は確かに美味しいものです。

オニユリ

八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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