季節の有職ばなし
●放島試
5月20日、「放島試(ほうとうし)が行われた日」です。
『古今著聞集』
「仁平三年(1153)五月廿一日。院宣によりて、宇治左大臣(藤原頼長)、東三條にて学問料の試をおこなはれけり。藤原敦経・菅原登宣・同在清・藤原敦綱・同光範・菅原在茂等を、中島の座にすゑられにけり。式部大輔永範朝臣・文章博士茂明朝臣・式部権大輔公賢をめして、左伝・礼記・毛詩を分けたまひて、題をえらばされけり。みな紙切に書わけて、頭弁朝隆朝臣をめして、くじにとらせられけり。礼以行義といふ事をとりけり。家司盛業をもて、試衆にたまふ。作り出すに随てぞもてまいりける。
其後評定ありけり、後に院より、通憲(信西)入道にもおほせあはせられけるとぞ。つゐに光範・登宣ぞ給はりにける。」
「学問料」というのは、優秀な学生に対して支給される奨学金のこと。その奨学生採用試験として『放島試』がおこなわれたのです。これは池の中島や舟に受験生を乗せて、カンニングが出来ないようにして詩を作らせたりする試験で、数多くの例があります。
『春記』(藤原資房)
「長久二年(1041)三月十一日庚申。午剋許参内。(中略)入夜被講詩了。仰云。明日殿上人遣中島、可令作詩。」
物語にも登場しています。
『宇津保物語』(吹上 下)
「かくてこと始まりて、文人ども題たまはりて、上達部殿上人文人ども文台に詩たてまつる。すゑふさこゝろみの題たまはりて、ひとり舟に乗せられて出でたり。すなはち面白き詩作れり。進士になされて、方略の宣旨下りぬ。」
『源氏物語』(少女)
「きさらぎの廿余日、朱雀院の行幸あり。(中略)けふはわざとの文人もめさず。たゞその才かしこしと聞こえたる学生十人を召す。式部のつかさのこゝろみの題をなずらへて、御題給ふ。大殿の太郎君の試み給べきゆゑなめり。臆だかき物共は物もおぼえず。つながぬ舟に乗て、池に離れ出て、いとすべなげ也。」
案外と教育パパの光源氏は、息子・夕霧に放島試の試練を与えます。後の解説書ではこういう説明が。
『河海抄』(四辻善成/南北朝時代)
「つなかぬ舟にのりて
放島試事也。朱雀院の試には学生皆乗舟て、中嶋にゆきて詩を作也。文章生試は式部省にて行之省試是也。今日朱雀院にておこなはるゝ也。」
光源氏としては、息子のためを思っての試練でしたが、当の夕霧は……、
「日やうやうくだりて、楽の舟ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに」
楽しげに音楽を奏でる舟を横目で見て……、
「冠者の君は、『かう苦しき道ならでも、交じらひ遊びぬべきものを』と、世の中恨めしうおぼえたまひけり。」
とボヤキ節。その気持ちもよくわかりますね。
●輦車(てぐるま)の宣旨
5月25日、「藤原基経に『輦車の宣旨』が出た日」です。
『小右記』(藤原実資)
「左大臣宣、奉勅。太政大臣藤原朝臣聴輦車出入宮中者。
元慶八年(884)五月廿五日 少外記大蔵善行奉」
左大臣・源融が承った宣旨です。48歳の藤原基経に「輦車(てぐるま)」に乗ったまま宮中に出入りすることが許される宣旨(天皇の許可)が出されました。この「輦車宣旨(てぐるまのせんじ)」は、高齢者や病気の者が特別に許される破格の待遇でした。
『源氏物語』(桐壺)
「我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。」
桐壺更衣が病気になったとき、帝が「輦車の宣旨」を出しています。この部分について室町時代の解説では……。
『河海抄』(四辻善成/南北朝時代)
「清寧天皇三年奉億計雄計八王青盖車迎入宮中
仁明天皇女御・藤沢子〈紀伊守贈左大臣総継女〉、依病退出之時被聴輦車。卒逝之後以少納言被贈三位〈云々〉
(中略)輦車は、石はしのたかき門よりのほる中重を出入ノため也中重の輦車ともいふ也。牛車は牛のよる所まて乗なり。牛車を聴て上東門を出入する也。」
やはり病気のときに許された例が書かれています。『源氏物語』ではさらに、
『源氏物語』(藤裏葉)
「出でたまふ儀式の、いとことによそほしく、御輦車など聴されたまひて、女御の御ありさまに異ならぬを、思ひ比ぶるに、さすがなる身のほどなり。」
とあり、これは桐壺更衣がワンランク上の「女御」相当の扱いを受けたことを示す、ステータスシンボルとして扱われているのがわかります。公式記録でも多数見られます。
『醍醐天皇御記』
「延喜十六年(916)十月廿一日。遣衆樹朝臣於亭子院申明日可詔書事。(中略)申東宮元服夜故左大臣女可令参入事。又参入時可用輦車報書并許。」
『日本紀略』
「天慶二年(939)十一月七日甲戌、勅聴式部卿敦実親王、并左大臣〈仲平〉。乗輦車出入宮門。又諸節会日、不就列、直昇殿之由。」
藤原仲平の勅許は、高齢(64歳)によるものでしょう。
『西宮記』(源高明・平安中期)
「輦車 親王・大臣・中老宿人有此息・女親王・女御・尚侍、毎出入、蔵人経奏聞仰閤門吉上。」
平安時代は、蔵人が勅許を承り、「吉上」(宮門警固の衛府下士官)にその旨が伝えられたとあります。これを伝える蔵人は、必ず「青色の袍」を着て威儀を正したと記録にありますから、それだけ重要な宣旨だったのでしょう。
『世俗浅深秘抄』(後鳥羽上皇・鎌倉初期)
「牛車輦車人。大略先聴輦車、後聴牛車、尋常事也。直聴牛車事、執政之外頗不分明。執政家之牛車之人用上東門、自余之輩用待賢門歟。」
人間が牽く輦車だけでなく、牛車で宮門をくぐる許可が「牛車の聴し」。まず輦車聴許があり、その後で牛車聴許がなされた、と書かれています。つまり牛車聴許の方が上のランクです。やはり牛を宮中に入れるのはよほどのことということになります。それにつけても破天荒なのが清少納言たち女房。『枕草子』によると、
「北の陣より、『五月雨は、とがめなきものぞ』とて、さしよせて、四人ばかり乗りて行く。」
「五月雨で筵道が敷けないんだから大丈夫、大丈夫」と勝手に解釈して、北の陣の前を通って建物の下まで車を寄せさせて、四人乗って出かけたちゃったわ、というのです。さすが清少納言。鬼軍曹の吉上もタジタジ、といったところでしょうかねぇ。
●眼病平癒
5月26日、「眼病平癒祈願で大赦が行われた日」です。
『扶桑略記』
「長和四年(1015)乙卯、夏月以来、主上御目有恙。一日万機、殆以闕如。
五月廿六日、大赦天下。依御薬也。」
三条天皇が眼病を患い、ほとんど失明に近い状態になってしまいました。その平癒祈願のために5月26日、罪人を解き放つ「大赦」が行われたのです。
三条天皇は、権勢を誇る藤原道長によって陰に陽に圧力を受けていた、様々な意味で不運の人でした。風邪が悪化したとき、周囲から「目に良くないから」と止められたにもかかわらず、禁断の秘薬「金液丹」を服用してしまったのです。
『大鏡』
「この御目のためには、よろづにつくろひ御座しましけれど、その験あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風重く御座しますに、医師どもの『大小寒の水を御頭に沃させ給へ』と申しければ、凍りふたがりたる水を多くかけさせ給けるに、いといみじくふるひわなゝかせ給て、御色もたがひ御座しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参らせけるとぞ承りし。御病により、金液丹といふ薬を召したりけるを、『その薬くひたる人は、かく目をなむ疾む』など人は申しゝかど……」
この前後の状況は今ひとつ不明なのですが、目の症状に関しては「金液丹」が原因であろうと考えられています。
『続日本後紀』
「嘉祥三年(850)三月癸夘《廿五》。(中略)勅曰。予昔亦得此病、衆方不効。欲服金液丹并白石英。衆医禁之不許。予猶強服。遂得疾愈。今聞所患。非草薬之可治。可服金液丹。」
平安前期の淳和天皇が「胸病」に苦しむ甥の仁明天皇に「金液丹」を勧めている文章です。自分も同じ病にかかったとき、医者たちの反対を押し切って「金液丹」を服用したら効果があったと。仁明天皇はすっかり金液丹びいきになり、その後も服用し続け、病床の藤原良相に自ら調合した丹薬を飲ませたりしています。この「金液丹」は硫黄や水銀を原料とした薬です。
『黄帝内経』(紀元前475年頃)
「小金丹方。辰砂二両・水磨雄黄一両・葉子雌黄一両・紫金半両。同入合中、外固了。」
まさに劇毒物。猛烈な副作用が神経を冒します。三条天皇は結局平癒せず、翌年
「長和五年丙辰、正月廿九日甲戊、天皇〈年四十一〉、譲位於皇太子敦成親王。」
41歳で譲位することになってしまうのです。『大鏡』には
「いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。『御廉の編緒の見ゆる』なども仰せられて」
とあり、眼球機能の問題ではなく、視神経の異常であるように描かれています。やはり水銀が中枢神経系を冒して神経疾患に繋がったのでしょうか。水銀のそうした副作用が広く知られるようになったのは戦後の水俣病からとも言われますから、平安時代の人が知らなくとも仕方がないこと。
しかし仁明天皇の時代も「衆医禁之不許」とされ、三条天皇も「その薬くひたる人は、かく目をなむ疾む」と注意されていたわけですから、医師たちは経験的に水銀中毒の問題を把握していたのでしょう。
三条天皇が退位の際に詠んだとされる歌が『小倉百人一首』に入っています。
心にも あらでうき世にながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな
見えない月を思いやる、寂しい心境が伝わってくるではありませんか……。
●牛車のランク
5月27日。「ランクの違う牛車に乗ってしまった日」。「乗ってしまった」というのは、後日に批判を受けることになったからです。
『餝抄』(土御門通方・鎌倉前期)
「嘉禎三年(1237)五月廿七日。久我恒例八講。内府(定通)被入。束帯。被乗上網代車〈上自網代袖出銭金云々〉。後日前内府(通光)被語曰。吾家両三代不調件網代車。只調半蔀車所乗也。若花山之家例歟。且又大臣着束帯乗網代事。定無先例歟。可乗網代者。直衣若衣冠可宜歟。吾家可用網代之時。借用子息車常事也。」
鎌倉時代の内大臣・土御門定通が束帯姿で「網代車(あじろぐるま)」に乗ったところ、兄である久我通光が
「我が家は代々、網代車なんかに乗らない。『半蔀車(はじとみぐるま)』に乗るのだ。もし網代車に乗るとしても、ラフな直衣や衣冠姿の時だけであって、正装の束帯姿の場合は用いない」
と、指摘したのです。
今の目で見ますと、網代車も半蔀車もみな「牛車」で、違いなどわかりませんが、この当時の感覚で言えば、いまの国産大衆車と高級外車くらいの差があったようです。後年、「高才博覧の人」と評された定通にも、思わぬ落とし穴があったようですね。
『桃花蘂葉』(一條兼良・室町後期)
「半蔀車<網代物見開之。物見上有半蔀。眉如常八葉。有輦戸>。大将之時乗之。大臣摂籙時猶用之。摂家大臣以前。不打外金物云々。直衣非晴之時用之。
網代車<無庇。眉如常八葉。物見不開之。無輦戸>。自雲客時。至大臣并摂関時用之。各有差別。褻時乗之。大将乗用車号違物見。摂家大臣以前不打外金物。凡家打之云々。当時八葉車。大略同網代者歟。」
室町時代の関白・一条兼良の感覚では、半蔀車も「直衣非晴之時用之」とあります。さすがは摂家、「高級外車なんぞ下駄代わり」と言っている感じでしょうか。この網代車には「違い物見」と呼ばれる引き戸がある、としています。いまの自動車もさまざまなオプションパーツがあるように、当時の牛車も個人の嗜好に合わせて数多くの形式があったのです。
関白・一条兼良が正式な場合に乗る車は何だったのでしょう。
「檳榔庇〈有庇〉。太閤之時乗之。」
「網代庇<眉如唐棟有庇>。号尼眉。執政并太政大臣着冠直衣之時用之。小直衣ニテ乗用又有例。」
文字だけでは何が何やらわかりませんね。自動車にもランクがあるように、牛車にもランクがあった、というくらいのご理解で十分でございます。なお「太閤」というのを「関白を引退した人」とお間違いの方も多いようです。正しくは「摂政・関白の職を子弟に譲った人」のこと。ただ関白を辞めただけでは太閤にはなれません。
●こんにゃく
5月29日は「こんにゃくの日」です。「529」の語呂合わせです。
コンニャクは、古代の中国で既に現在のような形で食べられていました。
『文選』(李善注/7世紀末)
「蒟、蒟醬也。緑樹而生、其子如桑椹。熟時正青、長二三寸。以蜜蔵而食之。辛香、温調五臓。蒻、草也。其根名蒻、頭大者如斗、其肌正白。可以灰汁、煮則凝成。可以苦酒淹食之。蜀人珍焉。」
これを見ますと「蒟」と「蒻」は別物で、「蒻」がコンニャクのようです。
『和名類聚抄』(源順/平安中期)
「蒟蒻 文選蜀都賦注云蒟蒻〈和名古迩夜久〉。其根肥白、以灰汁煮、則凝成以苦酒淹食之。蜀人珍焉。」
ほとんど『文選』の引き写しですが、和名で「古迩夜久(こにやく)」とありますので、平安時代からそう呼ばれていたことがわかります。
『医心方』(丹波康頼/986年)
「蒟頭拾遺云、味辛寒有毒、主癕腫風毒磨傅腫上。榑砕以灰汁煮成餅。五味調為如食之。主消渇。生即戟喉出血生吴蜀。菜如半夏、根如椀。好生陰地雨滴菜生子。一名蒟蒻。又有斑杖根苗相似。至秋有花直出赤子其根癕毒。於蒟不食〈和名古尓也久〉。」
生で食べると喉を刺戟して出血するので、加工して食べなさい、とあります。鎌倉時代に精進料理として利用され、室町時代もポピュラーであったようです。
『鈴鹿家記』
「応永元年(1394)十二月廿六日戊辰、今晩若州御袋様ヨリ御モタセ、御内儀様、御表侍従様御内不残食(中略)蒟蒻牛房フト煮、鴨〈皮煮青菜入〉肴色々。」
これは鴨があるので精進料理ではありませんね。そこにも、コンニャクとゴボウの煮物が登場しております。
次回配信日は、5月23日の予定です。
八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。