撮影:串田明緒

まつもと市民芸術館の「魂」

カルチャー|2026.3.24
聞き手=草生亜紀子

 シアターコクーン芸術監督を退任し、同時にオンシアター自由劇場を解散した串田さんは、1年半ほど目的を決めることなくロンドンなどで過ごした。その後、帰国し、日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任し、映画出演などするうち、地方都市での演劇活動の可能性をぼんやりと考えるようになった。東京での演劇活動のありよう、そして経済的事情が優先される街の動きや忙しさに疑問を感じるようになっていたからだ。日本各地を訪れるたびに、東京からの距離がどのくらい離れているのがいいのかなどと考えながら街を見ていた。そんな中、2003年に松本市から声がかかる。市民会館を建て替えて演劇を中心とした新しい文化施設を建設する。その館長と芸術監督を引き受けてくれないかという打診だった。

反対があるっていいなあ

――松本市から声がかかる前から、地方に興味を持たれていたのですね?

 20世紀が終わる頃、日本の経済状況が変わって、演劇界が変わって、東京も変わってしまった。そう感じた頃に、緒形拳さんと『ゴドーを待ちながら』という芝居で何年か全国の、それも小さな町を中心に回ったことがありました。刑務所で受刑者を前に演じたこともあれば、老人施設で車椅子に座った人たちを前に演じて「あれ、眠っているのかな?」と思ったら、ひとりがトイレに行くと連鎖反応で次々と出ていって「あ、起きてたんだ」と思うことがあったり、すごくおもしろかった。そんな風にして地方を回っているうちに、頭の中で「地方都市と演劇活動」という言葉が盛んに湧いてきました。

 ぼくは江戸っ子だから、地方ってどうなんだろうなという興味はずっとありました。そもそもアートはピラミッドじゃないんだから、何が上等とか下等とかないはずなのに、東京のものが良いもののように言われるのはおかしいとも思っていた。シアターコクーン時代にイギリスのリバプールに行ったことがあって、地元の劇団の稽古初日のささやかなパーティに誘われたことがありました。赤ん坊を抱いた奥さんもいるような身内の集まり。居心地が良かったな。リバプールは素朴な工業都市なんだけど、パーティ会場の窓からジョン・レノンが生まれた病院が見えたりして、その街ならではの歴史や物語がある。劇場に人が並んでいるから何かと思えば、芝居を観に来たのではなくて劇場のカフェのキッシュが美味しいから行列をつくって買っている。そんな街のありようがいいなと思っていたこともあって、地方都市を舞台に、文化で街を創るようなことをぼんやり考えていたんだと思います。

――そんなところに松本市から「まつもと市民芸術館」の館長兼芸術監督就任を要請されたんですね。

 そう。2003年3月、みぞれ模様の寒い日に建設現場を見に行きました。すると、巨大な軍艦のようなコンクリートの塊があって、「これは、ぼくが関わる仕事じゃない」と直感的に思いました。しかも、建設反対運動が起きていた。

――「住民に対する情報開示や説明が十分でないままに145億円の巨費を使って本格的なオペラも上演できる豪華施設の建設が進められた」(反対派の主張)ことへの反対運動ですね。「当初は『呼ばれたから来たのにいきなりなんだい』とも思いました」と、まつもと市民芸術館の広報誌『幕があがる。』に書いていらっしゃいます。でも、引き受けることを決意して、反対派と膝突き合わせて議論を重ねられたんですよね。どうしてですか?

 ひとつには、松本という街に独自の魅力的な顔つきがあると感じたからです。そして何より、反対があるっていいなあと思ったんです。地方の大きな会館とか、反対はないけど、誰も使ってない。そんなところより、反対がある方がよっぽどいい。きちんと意見があるわけだから。関心がないのがいちばん良くないと思うんです。反対派の中心だった「新市民会館建設に関する住民投票の会」代表の西村忠彦さんとは何度も話し合いをしました。なあなあではなく、きちんと意見を言い合える。それはとてもいいことだと思いました。

――でも、オープン5カ月前の市長選で、建設反対の立場を表明していた菅谷昭さん(チェルノブイリ原子力発電所事故の被害を受けたベラルーシ共和国で医療支援をしていた医師)が当選しました。前市長に招かれた経緯から、芸術監督の退任も考えたとか。新市長に「壊しますか?」と聞いたそうですが、本気でそう尋ねたのですか?

 本気ですよ。「145億円かけて建設して、壊すのにも何十億円もかかる。でも、それはそれで歴史に残る決断としては意味があるかもしれない。100本の芝居をするより大きな表現になりますよ」と言いました。話してみると菅谷市長はこちらの考えをよく理解してくれる人で、芸術監督は続けてほしいと言われましたし、芸術館を壊すことにはなりませんでした。それからもたくさんの人と話し合いを重ねて、反対派も含め、建てた以上は良いものにしようと励まされました。オープニングパーティの時は、開会前に反対運動を率いていた西村さんと芸術館の屋上に上がって、ベンチに座ってふたりでビールを飲みました。西村さんとは、それから20年後に退任する時も、久しぶりにご自宅でお会いして、『幕があがる。』最終号のために対談をお願いするような間柄になりました。

――その最終号の対談で、西村さんはこうおっしゃっています。
〈せっかく串田さんが松本においでくださり、優れた舞台芸術に出会えた。そのことを市民がしっかりと受け止め直して、これから何が出来るのか、何が必要なのかを考えてみる、そうしなければもったいないですよ。あの建物を、出来ちゃったものはしょうがないで終わらせないで、また、串田さんは招かれて20年一生懸命やっていただいた。そのことを未来に活かすことが市民の串田さんへのはなむけだと思います。〉
 また、串田さんの芸術監督退任にあたって開かれた「串田和美総監督と最後にみんなで話しあう会」の様子を伝える松本経済新聞には、西村さんが「最初は『とんでもないところに来てしまった』と思っただろうに、逆風の中で真骨頂を発揮していただいた」と高く評価されたと書いてあります。

 大変だったけれど、推進派・反対派とのやり取りから学んだことはたくさんあるんです。税金を使って演劇を創るとはどういうことなんだろうか? さらには、はたして演劇とは何だろうと改めて考える機会になりました。税金を払った人がみんな観ればいいということじゃないし、誰もが喜ぶものを創ったり、入場券を安くすればいいとか、そういうことでもない。芝居を観ない、劇場に来ない人たちにも、みなさんの税金でこういうことをしますよと伝え、納得してもらうことが大事。自分たちだけで芝居している時にはそんなこと思いもしないし、観たい人が観に来てくれればそれでよかったけれど、まつもと市民芸術館で演劇をやるということは、それだけじゃないんだと思いました。

――広報誌『幕があがる。』第1号にはこんなことが書いてあります。
〈遠い昔、大きな一本の木の下に、大勢の人々が集まって語らい合い、花が咲けばそれを眺め楽しみ、実がなればみんなで分かち合って喜び、時には悲しみに打ち拉がれてその幹に寄りかかり慰められたりした。少し離れてその木を眺めるだけでも、ほっと安らぎを感じ、同時にその存在を誇りにさえ感じる。そんな丘の上の大きな木のような、そんな「芸術館」を、みなさんと一緒に創ることができたらどんなに素晴らしいだろうと、夢見ています。
 今生まれようとしている「芸術館」は単なる立派な建造物ではありません。人間が身体という物質だけで成り立っているわけではないように、「まつもと市民芸術館」にも魂が必要です。その魂こそが、松本の顔であり、文化です。〉

開館を知らせる広報誌

開幕のふたつの演目への強い思い

――かくして、まつもと市民芸術館は2004年8月に開館。主ホールは小澤征爾さん指揮のサイトウ・キネン・オーケストラによるオペラ『ヴォツェック』、小ホールは串田さんのライフワークである『スカパン』で杮落としとなりました。この選択には強い思いがあったとか。

 もし高級なイメージがするオペラに対して感情的に違和感を持つ人がいるなら、舞台芸術にはいろんなものがあり、この市民芸術館にはいろいろな可能性があることを『スカパン』で示したかった。世界の一流の演奏家を招いて鑑賞するのもひとつの芸術だけど、ぼくらが自分の身体を使って演じている姿をぜひ観てほしかったんです。そして、その両方のお客さんがひとつのロビーで一緒になることも、ぼくの目論見でした。

2004年開館、2015年開館10周年、2022年と再演を重ね、劇場レパートリーとなった『スカパン』
撮影:串田明緒

――下僕スカパンが嘘と策略で若者の恋愛を助けるものの悪だくみがバレてしまうモリエールの悲喜劇『スカパンの悪だくみ』を串田さんが独自の解釈で繰り返し上演される『スカパン』は、串田さんが文字通り舞台を縦横無尽に走り回って、生々しい身体表現をする作品です。ある意味、オペラとは対照的と言えますね。
 そしてまつもと市民芸術館は、このグランドオープンから最初の1年間に25万人が訪れる活況を見せ、『コーカサスの白墨の輪』(松たか子主演で海外や地方都市からも俳優を招いてキャスティング)を東京・北海道・松本で合同ワークショップを継続しながら3年間かけて地域密着型で創作。芸術館は、地域における創造的で文化的な表現活動のための環境づくりを顕彰する地域創造大賞(総務大臣賞)に輝きました。また、芸術館を拠点として活躍する「まつもと市民芸術館レジデントカンパニー」(2012年TCアルプと改名)が設立され、2008年からは市民300人がスタッフとして参加する「信州・まつもと大歌舞伎」が大盛況を呈して隔年で開かれるようになり、2009年にはフランスのヌーボーシルク劇団シルク・バロックと創った『三文サーカス』をフランスと松本で上演。同時に市内17カ所で大道芸が繰り広げられる「まつもと街なか大道芸」を企画し、大活況。松本の街にサーカス大道芸を初めてもたらし、これもその後隔年開催されるようになりました。2011年には観客も一体化して演劇とサーカスと音楽が融合したライブパフォーマンスが繰り広げられる『空中キャバレー』が始まります。さらに、地域に暮らす人が自分たちの演劇を創って発表する「まつもと演劇工場(シアターファクトリー)」が発足するなど、市民と街全体を巻き込んだ活動が次々と展開されました。広報誌『幕があがる。』第23号にはこう書いていらっしゃいます。
〈「空中キャバレー」は熱狂的な喝采を受け、その評判はあっというまに、東京や他の県まで広まったのだそうです。むしろ上演した僕らが戸惑い緊張し、同時に冥利を感じたのでした。そして確かに言えることは、今この公演は松本以外では決してできないだろうということです。あの空間、あの人たち、この8年間の松本の人たちの目に見えない、測ることのできない熱量とでも言ったらいいのか、そういうものが大きな力となって、祝祭のような時空をつくりだしたのだなあとつくづく思うのでした。〉

客席とステージが一体となった『空中キャバレー』で道化を演じる串田和美さん
撮影:串田明緒

 松本で初めて感じたことは本当にいろいろありました。400年前に書かれたシェイクスピア劇のように、芝居は自分とかけ離れた世界だからおもしろい一方で、日常の延長線上にあるようなもの作品もまたおもしろい。生活の流れの中で観にいく芝居がまたいいと言ってくれる人もいました。たしかに、松本の街を自転車で走っていると、「昨日の観ました」と声をかけてくれる人がいたり、喫茶店で女性同士が「目をくり抜いちゃうようなお芝居は嫌。怖いんだもの」「何言ってんの、お芝居よ」なんて会話をしていたりする。そういうことが、すごくいいと思った。『空中キャバレー』も、日常を抱えたままのお客さんがやって来て、「これどこに座るの?」「もう始まってるの?」とか言いながら、驚いたり喜んだりしてくれる。それがとてもいいと思ったんです。

 特にうれしかったのは、喫茶店で話しているお客さんが、八王子と京都から松本に来ている人で、聞けば松本でお芝居を観て友達になったという。久しぶりに会う場所として、ふたりが出会った松本を選んでいた。芝居をやっている時期でもないのに。そんなふうに「ここはいい街だ」と思って人が来てくれる。そうやって文化が人をつなげていく。それが文化で街を創るということじゃないかな。そう感じる出来事でしたね。

 『K・テンペスト』を上演した時も、東京で観てくれた人がわざわざ松本にも観に来てくれた。その理由は、奥さんが「松本で観るとまた違うのよ。お芝居が終わった時、街に出るとわかるから」と勧めてくれたというのです。これもうれしかったですね。

街に溶け込む演劇ポスター。『スカパン』が古い映画館をリノベーションした劇場に、リア王を演じた『キング・リア』が、なまこ壁の街並みに映える
撮影:串田明緒

緊急手術と奇跡のような回復

――順調に迎えたように思えた芸術館オープン10周年の2013年、緊急入院されたとか。

『スカパン』の稽古中、ものすごく腰が痛いので、マッサージをお願いした。すると、マッサージ師に「これは私の仕事じゃない気がする。病院に行った方がいい」と言われたんだけれど、忙しくて。でもやっぱり痛くて受診したら「発熱や黄疸症状が出たらすぐに来院してください」と言われたので、気をつけてはいた。初日の公演の後で熱が出て夜中に病院に行くと、「急性の胆嚢炎ですぐに摘出手術をしないと大変なことになる」と言われました。「明日も舞台があるんですが……」と言ってみたものの、「今、とらないとダメです」と言われて入院することになりました。その結果、2日間やむを得ず休演することになりました。長年芝居をやっていて、体調不良で休むのは初めてのことでした。

 でも、何かわからない大きな力に肉体と精神を揺さぶられたように、手術の翌日には病院内で点滴をつけたまま自主リハビリを開始して、3日目の夕方には退院しました。それからもう一度稽古をし直して、元々予定されていた休演日を挟んで5日後の舞台には復帰することができたのです。その時は無我夢中でよく覚えていないけれど、あの奇跡のような回復はいったい何だったんだろう。覚えているのは、復帰した日は地元の中学生が観に来てくれる日で、どうしても休みたくなかった。

――すごい。主役のスカパンは激しく動く役ですよね。

 そう。だから稽古中はみんなに「でんぐり返しだけはやめて」って言われたかな(笑)。東京からすっ飛んで来てくれた笹野(高史さん)は、舞台稽古で必死に演じながら演出するぼくを見て「痛々しい」と涙ぐんで、本番を観ないで東京に帰っちゃった。

パンデミック

――串田さんらしさを発揮して、順調にさまざまな企画を成功させ、街の人たちとも深い関係を築いていた2020年、新型コロナウイルスの蔓延という大きな試練に見舞われました。人が集まることが困難になり、演劇界も大きな打撃を受けました。まつもと市民芸術館も数カ月、公演を中止することになりました。

 最初は何もわからなかったから、なんだろう、この不思議な、理不尽な病気はと思いました。でもそのうち、今まで出会ってこなかっただけで、長い歴史の中で人類は過去にも感染症に出会って、そこから生まれたものもあることを理解して、受け止めるしかないと思うようになりました。でも、なんだか腑に落ちなかったなあ。

――その時のことを、ほぼ日刊イトイ新聞(現・ほぼ日)への寄稿「小さな池のほとり。小さな四阿(あずまや) 小さな演劇」(2020年6月10日)で、こう書いていらっしゃいます。
〈(前略)要するに、私にはこのコロナパンデミックとその社会的対処や人々の思い込みに従うことに対し、なんだか、どうしても腑に落ちないのだ。
 だからといって、赤ん坊のように駄々をこねる訳にもいかないこともわかっている。
この騒動はどのくらい続いて、いつ頃治るのか、確かなことは誰にもわからない。
(中略)
 私は空気を吸ってご飯を食べるように、演劇そのものをしながら生きるしか、生きかたを知らない。もうそのぐらい長い年月、演劇をし、演劇を通して社会と関わり、未来を見つめてきた。その感覚は、どうも若い俳優たちと共有するのは難しいようだということもわかってきた。
 私は4月も5月も空想の演劇プランを立て、ときには一人で興奮したり、悦にいったりしたこともあったが、現実の演劇は決してそんなものではないということもよくわかっているので、不意に絶望し、人影のほとんどないゴールデンウィークの松本の街中や、郊外の畑の辺りを無闇に自転車で走り回ったりしていた。〉
 そして自転車で走るうち、「あがたの森公園」の四阿が小さな演劇空間に思えて、独り芝居『月夜のファウスト』を演じられたわけですよね。「定員15人くらい」とFacebookで呼びかけて(実際には約40人ずつの3公演となった)。そして、こうも書いていらっしゃいます。
〈私はこの企画公演から、なんと多くのことを学ぶこと、新たな発想を見つけることができただろう。
 これからの、コロナ後の人々の営みのあり方、演劇のあり方、科学的なものと芸術文化の関係、論理的な感性と感覚的感性。
 苦しむ他者への思いやりの持ち方、絶対的な絶望の彼方の希望について、また迂闊にも想いを巡らせている。〉
 6月の終わりに客席を1席か2席開けた配置にして公演を再開した時も、人が座らない席に市民のみなさんが作った紙の観客(ペイパーピーポー)を置いたり、コロナ禍の中でも串田さんの創造は止まりませんでした。

市民が作ったペイパーピーポー
撮影:串田明緒

 ぼくはコロナの時、もしかしたら利己的ではなく利他的な感覚が広がるんじゃないかと期待したんです。あがたの森でやった独り芝居の時は、投げ銭方式で帽子に好きな額を入れてもらった。すると、小銭にまじって封筒があって、開けると1万円札が何枚か入っていたり、「ありがとう」というメッセージが入っていたりした。自家製の野菜やお菓子、器もあったな。お弁当を差し入れしてくれる人もいたし、すごく元気が出ました。あの頃は、喫茶店で次の人がコーヒーを飲めるようにと釣り銭を置いていく人を見かけたりして、もしかしたら、この非常事態を契機に互いを思いやる良い時代が来るのではないかと期待したんです。

 でも、今また「どうやって儲けるか」みたいなことばかり考えるような時代になってしまった。パンデミックは天の啓示だったと思うんだけど、まだわからないんだな……。

あがたの森公園で『月夜のファウスト』を観る人々
撮影:山田毅
串田さん手描きの告知イラスト
独り芝居『月夜のファウスト』あがたの森公演にて。クライマックスに向かい、夕暮れをも照明として利用した。3日間の公演期間は毎晩、月夜だった
撮影:串田明緒

――今回の取材にあたって、まつもと市民芸術館の広報誌を通読したのですが、第42号にひときわ印象的な一幕がありました。2016年9月4日、屋外で開かれたFlying Theatre空中劇場『はるかなるブルレスケ』の千秋楽でのことです。
〈本当にバケツをひっくり返したような土砂降り! 見かねた裏方が舞台に飛び出し「いったん中断しましょう!」。客席の明かりが点灯し、舞台も素明かりが点灯。「えー!? ここで止めるのか?」僕は思わず客席に向かって叫んでいた。「オレはびしょぬれだろうがやったっていいんだぜ?! みんなどうする?!」観客たちは大声で「やってくれー!」「続けろー!」。雨の方も負けずにザーザー! ザーザー! 衣装もずぶぬれで重くてたまらない。これはもう演劇なんてもんじゃない。いやこれこそ演劇だ! そんなことを感じながらみんなが精一杯演じ、みんなが精一杯観てくれた。そしてみんなが興奮し、幸せな時間だったと感じた。
 翌日80歳を超えた街の旦那衆が「いやー生まれて初めてあんなものを観た。江戸時代の歌舞伎はあんな感じだったんじゃないだろうか?」と言ってくれた。大自然の悪意と天に向かってののしったが、そうではなく、何だかものすごいものを指し示してくれたような気がする。あの場所はもうすぐ工事が始まり、信濃毎日新聞の松本本社ビルが建つ。だからあの日の芝居はもとより、その空間も消え去る。その日観たのは200人。テネシー・ウィリアムズの短編に『語ってくれ、雨のように!』という芝居がある。語ってくれ、あの日のことを。ザンザン降りの雨のように!〉
 その場にいた人は一生忘れないでしょうね。

(次回は「Flying Theatre自由劇場」として新たな活動を始めたお話が中心になる予定です。)

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。

聞き手:草生亜紀子 
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)

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