撮影:串田明緒

串田和美 自由の練習帖 第4回

東ベルリン 1969

カルチャー|2025.11.15
聞き手=草生亜紀子

 高校を卒業して日本大学芸術学部に進学した串田和美さんは、人生初の自主公演を行なった。自分たちでオリジナルの脚本を書き、夜を徹して舞台装置を作り、チケットを売り捌いて、スポンサーを集めてパンフレットも作った。パンフレットの扉に19歳の串田さんはこう書いた。〈地球は動いている。僕たちも動いている。だけどみんなバラバラだ。一緒に動こう! 一つのものに向かって……。にぶい太陽のもとで僕たちは汗を流す。汗は一つの輪になった。そして! そこに芝居ができた。〉後に串田さんはこう書いている。〈本質的なことは、何一つ変わっていない気がする。むしろ、あの時が一番、本当の自分みたいだったんじゃないかなあと、幻想さえいだいてしまう。だから時々、もう一度あの時のように芝居をしよう、と自分に言いきかせたりしている〉(『幕が上がる』)。串田さんの人生を決定づけたともいえる初めての自主公演と、その後の東ベルリン滞在について聞いた。

初めての自主公演まで

 高校の卒業記念で芝居をやろうとしたんだけど、流れてしまった。セットもできて稽古もしていたのに、流感で学校閉鎖になって上演することができなかった。大きな紙に電車の絵を描いて、それをバリっと破って人が転がり出てくる設定だった。最初は助け合っていた人たちが、次第に用事に間に合わないとか不倫がバレそうになっちゃうとか、自我が出てくるような話。

 仕方がないから大学で演劇を学ぼうと思って、早稲田の文学部と日本大学芸術学部(日芸)の演劇学科を受けることにした。受験を思いたったのが1月。数学が苦手だから世界史で100点を取ろうと思って丸暗記を始めた。それまで勉強してないから、乾いたスポンジが水を吸うように、どんどん頭に入る。時間切れで現代までは辿り着かなかったけど、現代は出ないだろうと思うことにした。で、とにかく受験がどんなものかまずは経験だと思って2月に受けた早稲田はダメだったけど、3月の日芸はなんとか受かることができた。受かってみれば大学に夢も抱くし、勇んで入学したんだけど、当時は演劇を好きな学生が少なくてガッカリした。高校時代の方が演劇について語り合える相手がいっぱいいたなと思って。せっかく親にお金を払ってもらったけど、これは辞めた方がいいなと思って、俳優座養成所の試験を受けることにしました。

 そんな時、斎藤憐から新派の切符があるから観に行こうと誘われて、新橋演舞場に観に行ったんです。ところが、これがぜんぜんおもしろくない! 「つまらない! なんだこれは!」と、19歳と21歳のぼくらは思って、「こんな芝居をやっていたら国が滅びる。文化がダメになる!」と帰りの電車の中で息巻いた。

 それなら、自分たちはどういう芝居をするのかって議論した結果、オムニバス形式で公演をしようということになって、ぼくが1本、斎藤が1本、共作で1本、『エピローグ、プロローグ付きの三つのお話し』という台本を作った。借りたのは三鷹にある国際基督教大学のディッフェンドルファー記念館のホール。たぶん安かったんだと思う。出演してくれる女子がいないので、本屋に行って、演劇雑誌を見たり戯曲を探している女子学生を誘った。「演劇部だろ」って声をかけて。ほとんどナンパだよね(笑)。

広告も入った公演パンフレット。装画は串田さん、デザインは弟の光弘さん

 ぼくが書いたのは、腕のいいふたり組の“泥棒”が出てくる話。ロシアをイメージした北の方に豊かな国があるらしいからそこに行こうという列車の中のシーンから始まって、歌を歌ったり、バカなことを言ったりする。写真部の友達に頼んで高いところから東京の街を撮ってもらって、適当な豪邸にズームして投影し、泥棒が中に忍びこむような演出をした。

 でも、ちょっとおかしい。豪邸なのに守衛も召使いもいない。誰も出てこない。盗んだものをいっぱい抱えていざ逃げようとした時にパッと明るくなって、住人たちが「よくいらっしゃいました。知らない方々」と出てくる。歓迎してくれる。「あなたたちは東の方から来たんでしょ。私たちは恵まれています。なんでも盗ってください」と言う。代わりに「ここには太陽が出ないから、太陽というものを知りません。太陽の話をしてください」と言い出す。そこで、中学からの親友の田山高澄君演じる泥棒2が「え? 太陽がわからないの?」と、キャベツを棒に刺して、「太陽は、こうやって東から昇ってくるんだ」とか説明を始める。ぼくが演じる泥棒1は「やめなよ、気持ち悪いよ。罠だよ」とか言いながら止めようとする。最初は「これはやっぱり、ただのキャベツねえ」と言っていた住人たちも次第に説得されていく。

 この辺りはミュージカル仕立てになっていて、作曲家・服部良一さんの次男で成蹊の後輩だった服部良次が曲を作った。「太陽っていうのはな〜♪」って、オーギュメントとかいう難しいコードで「な〜」の音が難しい。「これが光るんだよ」って言いながら、キャベツに電気をつけて明るくすると、見ている人たちが感動して「神様、神様」と崇める。泥棒1はそれを否定して、「ウソだよ。これはキャベツだよ。みんな信じちゃいけないよ」って言うんだけど、泥棒2は教祖になれて気持ちがいいから、「これが太陽だ〜♪」って歌う。みんなが「あれが太陽だ〜♪」と合唱する。泥棒1が「違う、太陽じゃない」っていうところで終わる。キャベツが太陽だなんてウソなんだけど、「それを信じることで幸せになれるなら、それでいいじゃないか」という、多くの人が信じるものとそれへの疑問を呈する音楽劇。いつかまた上演したらおもしろいかもしれないと思っています。

高校2年生に手によるとは思えない立派な楽譜

 次に上演したのは、ロープで吊るされたミノムシが3匹、上がったり下がったりしながら議論する。「退屈した」「ぶら下がってるだけじゃだめだ」「外に出ないとダメだ」みたいなやり取りをしている。2匹はミノを出て家を作ろうとする。なかなかうまくいかないが、それでもなんとか居場所づくりを続ける。これも無事、上演できた。でも、最後に問題が起きた。

 最後は斎藤憐が用意したちょっと難しいロシアの芝居。その途中で舞台装置の後ろの大きな壁が倒れちゃって、起こそうとすればするほど壊れていった。それで幕を降ろして、みんなで前に出て「これ以上できません」って頭を下げることになった。

 片付けが終わってから、挫折感と惨めさでトイレにこもって泣いた。それまで3ヶ月間くらい、徹夜状態で道具を作ったりしていて、疲労の限界だった。15キロくらい痩せちゃった。出演してくれた友達も、支えてくれた友達も、観客もみんないい奴ばかり。当日は急に雨が降り出したから、みんな親の車を出して三鷹の駅から大学までピストン輸送してくれた。それなのに、最後までお芝居を見せることができなかった。みっともないなあと自分で思った。

――そんな大変な思いをして、嫌にならなかったんですね。やっぱり楽しかったのですか?

 楽しかったのもあるけれど、それ以上に「すごいところを通過した」っていう実感があった。生まれて初めての体験だった。

 結局、いろいろ支払いを待ってもらっていた借金が50万円くらい残ってしまった。それを返すために斎藤憐と一緒にファッションショーの裏方をアルバイトでやったんです。そんな最中に俳優座養成所の合格通知が届いて、背の高いモデルさんたちに「おめでとう!」と祝ってもらったのを覚えている。

俳優座養成所

――俳優座養成所14期生は男女あわせて40人ほど。著書にはこう書いてあります。
〈高校を中退して来た子、東大の大学院を出て入った人、サラリーマンをしながら何年も受験してやっと入った人など、年齢もバラバラ。前衛演劇を目指している人、芝居は村に来たドサ回りの剣劇を一度見たきりという人、ジェームス・ディーンや赤木圭一郎のような映画スターに憧れて来た人と、芝居の知識もバラバラ。やる気があるのかないのかわからない奴もいたし、絵に描いたような優等生もいたなあ。それから自分の個性を懸命にアピールして、「役者だぞ!」と主張し続けているような奴。僕にはそのどれもがおもしろく、と同時に少し違和感もあったと思う。〉
 違和感があったんですね。

 もちろん俳優座養成所には立派な先生がいて、学ぶこともたくさんあった。メソッド的なもので習ったことが今に活きていることも少なくない。でも当時は、三大劇団と言われる俳優座、文学座、民藝という歴史ある大きな新劇の劇団がドンと存在して、「俳優はこういうものである」とか、「戯曲はこう読まなければいけない」みたいな教えがあって、それに対して「こんなのじゃないだろう」という思いを募らせていった。その意味では、養成所で「軸」というか「基準」のようなものを見せてもらったからこそ、「なんか違う」「そうじゃない」と思うことができたんだと思う。その中で、だんだん自分の目指すものがはっきりしていった。でも同期の中で、そんな思いを燻らせていたのは数人だけだった。

 同期の佐藤信(演出家。後にアンダーグラウンドシアター自由劇場をともに立ち上げる)とは、そんな思いを共有していた。ぼくらが入ってすぐの年にフランスの国立劇団コメディ・フランセーズが来日したので、東京文化会館に観に行った。授業だったのか違ったのか覚えていないけど、みんなで観に行った。モリエール、ラシーヌ、コルネイユの作品を観たと思うんだけど、とりわけモリエールの『スカパン』の演出に衝撃を受けた。スニーカーを履いた俳優が、舞台に両足が同時についている瞬間がないくらい、ものすごい速度で動き回る、びっくりするような演出。バーッと登ってシャーッと降りてきたりして、「すげー!」と思った。そしてその演出と演技以上に心に響いたのが、「古典をこんなに自由に演出していいんだ!」ということ。コメディ・フランセーズは日本で言えば歌舞伎座みたいなところが古典をやるのだから、厳かなものかと思っていたら、ぜんぜんそうではなかった。

 あまりの衝撃だったから、きっとみんなその辺に立ち止まってわーっと語り合うんだと思ったら、終わるとあっさり帰っちゃった。残ったのは佐藤信とぼくで、「これはすごい!」って一晩中興奮して語り合った。(養成所同期の)吉田日出子さんもいたかもしれない。とにかく、その時に養成所の仲間の多くがつまらないと思った。

文学座を辞めた話

――養成所を卒業する時から自分たちの劇団を作ろうという思いはあったけれど、いったん文学座に入られたのですよね。

 いずれ劇団を作りたいとは思っていたけれど、もう少し力をつけなきゃ無理だという思いもあって、まずはそれぞれ劇団に入ろうということになった。1期下の斎藤憐や地井武男、村井国夫(現・國夫)たちが卒業するのを待つ意味もあった。東京オリンピックがあった年だから1964年かな。俳優座養成所を卒業すると、いろんな劇団から誘われたり、自分からお願いしたりしてそれぞれ俳優の仕事に就いた。ぼくと吉田日出子と同期の清水紘治は文学座に受かっちゃった。その前の年に文学座では大分裂事件(注・芥川比呂志ら中堅・若手劇団員29人が退団届を出し、元文芸座文芸部員で評論家の福田恆存と財団法人「現代演劇協会」を設立し、同協会付属の「劇団雲」に参加することを表明した。日本の演劇界始まって以来の大事件としてメディアでも騒がれた)があって、岸田今日子さんたちが杉村春子さんたちと袂を分かって退団した。だから文学座は神経質になっていて、採用の時に「君は辞めないよね」って念を押された。本当はその頃から、ちょっと経験を積んだら自分たちの劇団を作るつもりだったから、内心は「えーっ」と思いながらも、口では「辞めません」と答えた記憶がある。

――それがどうして、わずか1年で退団することになったんですか?

 俳優座養成所の卒業公演には、将来のスターを見ようと思って、マスコミの人が客席にいる。その卒業公演で地井さんが「ぼくたち劇団作ります!」って宣言しちゃったんだよね。内緒だって言ってたのに。だから本当は3年くらい文学座でやってから劇団を立ち上げる予定だったのに、早くなっちゃった。佐藤信も所属していた劇団青年芸術劇場が解散することになったので、斎藤憐、佐藤信、吉田日出子らと1966年に劇団・自由劇場を結成した。平均年齢23歳くらいの13人。能楽師の観世栄夫さんは俳優座養成所で先生だったのに、「俺も入れろよ」と言って参加した。観世さんは他の流派に参加したり、新劇に出たりして、ちょっと変わっていて、本当におもしろい人。「えー、先生が入るなんて、なんだかな」と思ったけど、そういうことになった(笑)。

創立メンバー:最前列右から串田和美さん、吉田日出子さん。2列目右端、佐藤信さん。左から観世栄夫さん、地井武男さん。最後列右から斎藤憐さん、清水紘治さん、村井国夫さん

――『幕があがる』に詳しく書いていらっしゃいますが、最初は築地で2ヶ月後に壊される古いビルの地下室を借りて、そのあと、六本木のガラス屋の地下を稽古場兼劇場として借りて「アンダーグラウンド自由劇場」が誕生するわけですね。折しも、状況劇場、早稲田小劇場、天井桟敷といった小劇場ができて「小劇場ブーム」と言われる時代だった。

 あとから考えると、こういう動きは、世界的に同時多発的だった。アメリカでもヨーロッパでも、自分たちが表現したいことを自分たちのやり方で芝居に仕立てて、その場所に適した表現方法を探す小劇場的動きが、同じ頃に出てきていた。映画で言えばヌーベルバーグ、映画にもアンダーグラウンド映画っていう言い方があった。世界大戦が終わって15年ぐらい経った頃。「そういうのがかっこいい」っていう感じが電波のように広がっていたんじゃないかな。

1969年の東ベルリン

――自由劇場立ち上げの話はあちこちで書いていらっしゃって、吉田日出子さんも著書『女優になりたい』『私の記憶が消えないうちに』で詳しく書いていらっしゃいます。あまりこれまで語られていなくて、今回お聞きしたいと思ったのが、1969年の東ベルリン滞在のお話。劇団・自由劇場を立ち上げたあとのことですよね。新しい劇団を作って、1966年に『イスメネ・地下鉄』で杮落としをして、67年に5本、68年に5本、次々と実験的なお芝居をやっていた最中です。

1969年当時の東ベルリン German Federal Archives

 そう。27歳の時に東ドイツの東ベルリンに行った。それは、観世栄夫さんがそれ以前に国交のない東ドイツ(東ドイツとの国交樹立は1973年)に特別に招待されて能を教えたことがあって、『邯鄲の枕』を舞うために2度目に招待された時、ワキ方を務める名目で役者を何人か連れて行ってくれた。渡辺美佐子さんも一緒だった。

 東ドイツへは、フィリピンやベイルートを経由して、20時間以上かかってたどり着いた。ベイルートでは警備員が銃を持っているし、唯一書類を持っている観世さんとは別の待合室に案内されて不安だった。ようやく東ベルリンに着いて、暗い中、飛行機のタラップを降りてそのまま待っていると、黒塗りのでっかいバンがやって来て、帽子にトレンチコートを着た人が降りてくる。観世さんが書類を見せると、懐中電灯で確認して、車2台に分かれて、税関も入管も通らずにホテルに案内された。映画のワンシーンみたいだった。

 ぼくにとっては初めての海外旅行。東ベルリンは暗い街で、共産圏ってこういうものかという発見がたくさんあった。車や建物は古くて、食べ物も十分ではなく、パンの配給やレストランには長い列がある。その一方で、演劇を取り巻く環境は日本と比べものにならないくらい贅沢だった。戦前にアメリカが建てた古典的な劇場があって、セットも豪華で、スタッフもたくさんいて、劇場の裏に稽古場や役者たちの住居があって、びっくりするほど恵まれた環境だった。芝居はレパートリーシステムといって、当時の東ドイツや今のルーマニアもそうだけど、一度お芝居を作ったら「レパートリー」としていつでも上演できる状態にしておく。日本では幕が開いて1ヶ月とか上演したら終わりになるけれど、レパートリーにしておけば日替わりのように上演できる。予定表を見ると、たとえばある日は『ハムレット』、次の日は別の演目と変わっていくし、劇場はいくつもあるから、毎日たくさんの芝居を観ることができた。芝居が観放題だった。

 ぼくらが拠点にしていた劇団には、シャルとターテという二枚看板の役者がいた。いい劇団には個性の違うふたりの俳優がいて、それぞれにファンがいてちょっと競ったりしていることが多い。ターテは小柄で身軽な俳優。あたたかい演技をする人で、普段から彼のまわりには若い役者たちが集まって笑い声が響いていた。一方のシャルは銀行員か役人を思わせる退屈な容姿で、あんまり笑わないし、人が寄っていったりしない。それなのに、舞台に立つと独特の色気がある。朝、彼の姿を稽古場で見かけたことがある。舞台の後ろの方が少し高くなって坂になっているところで、卵をポンと落として、倒れてそれをパッと取るみたいなシーンを、たったひとりで何度も繰り返していた。そういう真摯で厳しい姿を27歳の時に目の当たりにして、そのあとパリやロンドンでいろんな演劇に触れたけれど、あの時見たものに比べたら、なまっちょろく思えたなあ。

 同時に、政治的な題材を扱っていても楽しい演出があることを学んだし、ブレヒト作品の上演を観ると、やっぱりこの劇作家は観客を喜ばせること、おもしろがらせることが好きなことがよくわかった。

 そういえば、こんなことがあった。ストンマさんという人が、「カーテンコールなら俺に任せろ。俺がやったらカーテンコールは20回でもできる」と言う。今は幕の上げ下げは電動だけど、当時は手動でやっていた。綱を動かす速度を調整できる。お芝居がパッと終わると幕をタンと落とす閉め方とか、ゆっくり焦らしながら下ろしていくとか、いろんなテクニックがある。「俺に任せろ」とはどういうことかと思っていたら、本当に絶妙。拍手の音を聞きながら観客の微妙な心理を読んで、「いまだ!」ってサッと幕を下ろしたり、完全に下りる寸前にまたバーッと上げるとか、幕でお客さんと対話していた。

――演劇に関する環境が恵まれていたとはいえ、ベルリンの壁を越えて西側に逃れようとした人が数多く射殺された冷戦まっただ中、厳しい状況も目にしたのではないですか?

 メーデーか何かのパレードがあった日のことだと思うけど、赤いスカーフを巻いた青年たちが行進している時に騒ぎが起きた。誰かが大きなラジカセでローリング・ストーンズの曲を大音響でかけたという。もちろん当時は西側の音楽は禁止。でも、ローリング・ストーンズを耳にした青年たちが興奮しちゃって、警察が出動する騒ぎになった。結局、犯人はわからなかったんじゃないかな。ともあれ、そういう騒ぎがあったから、ぼくは大通りから離れてひとりになって裏路地を歩いていた。すると、無精髭を生やした、なんとも悲しげな青年が近づいてきて、ぼくに向かって手紙を差し出して何かを切々と訴えてくる。でも、ぼくには何を言ってるんだかわからない。どうやら何かを頼むと言っている。頼む、わからない、できないとやり取りしている間も、キョロキョロして辺りを警戒している。あとから人に聞くと、西側にいる誰かあての手紙を投函してほしいと頼んでいたのではないかということだった。これもまた、当時の東ベルリンの現実だった。なんだか、その人のことはその後もずっと気になっている。

――その後、しばらくパリへ?

 せっかくヨーロッパに来たんだからと、斎藤憐の妹が留学していたデュッセルドルフに行って、そこからその前にフランスを旅した田山君の情報をもとにパリに向かいました。今と違って情報がないし、言葉が通じないから、違うバスに乗って変なところに行っちゃったりする珍道中でした。1ドルは360円だし、現金の持ち出しには制限があったし、高くて国際電話もかけられなくて苦労した。学生なら送金が受けられるというので、「勉強する」と言ってソルボンヌ大学で学生証を発行してもらったりしながら、結局、7ヶ月滞在しました。

劇団の「移動活動」と「拠点活動」

――69年に帰国して、劇団・自由劇場に復帰。そして前の年に結成した「演劇センター」の活動に再合流したわけですね。演劇センターについては、『幕があがる』にこう書いてあります。
〈自由劇場の他に津野海太郎さんの六月劇場とか、発見の会とか、桐朋学園の演劇科を卒業した若手グループなどで、演劇センターというのをつくっていた。これは旅公演や製作のことなどを協力しあおうという感じで始まった、大きな単位のゆるやかな組織だったんだけど、このさい、それぞれの劇団という枠をとっぱらって、この演劇センターという組織で旅公演をしてみようじゃないか、ということになったんだ。
 その頃の新劇の旅公演は、それぞれの地方にある労演という鑑賞団体に頼っていた。その組織はたいてい新劇の大劇団ばかり呼ぶので、若手劇団が入りこむのは大変だった。まして僕らのような新しい表現を探している前衛的な劇団は相手にされない。
 そういう組織を基盤にして、各地の公民館やなんとかホールを転々とする旅公演は、ちっとも理想的ではない。いっそ、自分達の芝居をまるごと移動できるような、大きなテントをつくって旅をしよう。こうして七〇年九月から、[演劇センター68/71]として、[翼を燃やす天使たちの舞踏](佐藤信・斎藤憐・山元清多・加藤直作)という芝居で、旅公演が始まった。〉

1970年10月「翼を燃やす天使たちの舞踏」。一番前にいるのが串田さん

演劇センターは、みんなでひとつの劇団を作ったというのではなくて、それぞれ活動している人たちが横の連携をとって共同で企画を立てたりする集団だった。当時、拠点活動(劇場)、移動活動(テント)、教育活動(冊子制作など)というのがあって、ぼくが海外に行っている間、みんな苦労していろんなことをやっていたから、帰ってきたらぼくだけ遊んでいたみたいに言われた。

 センターでは、他の劇団の人とみんなでお金を集めて、斎藤憐の書いた戯曲や翻訳ものを持って、京都とか回った。その後、テントで移動になったんだけど、テントは本当に大変だった。鉄の重いジョイントを2台のトラックで両側から引っ張るとバーッとテントが広がる仕組みを考えて作ったんだけど、重い機材を担がないといけないし、雨が降っても自分たちで何もかもやらないといけない。

こんな風にしてテントを立てた

 そんな生活が半年続いた後、揉めに揉めた。移動活動ばかりやって、拠点活動はどうするのか? ぼくは拠点も大事だと主張した。議論するうちに、佐藤信と斎藤憐は移動活動である黒テントを中心にすると言う。じゃあ自由劇場はどうするんだ? 手放そうという意見と嫌だという意見に割れて、最終的には解散することになった。それを機に、もうこんなのは嫌だと、地井や村井みたいにテレビに行った人もいる。吉田日出子さんはくたびれちゃって、女優を辞める気持ちになって花屋で働き始めたりした。

 結局、六本木の劇場に残ったのは、ぼくひとり。いちから出直し、というか、人を集めて自分流の芝居づくりをいちから始めることになった。

 最初に戻ってきたのは吉田日出子さん。自由劇場が解散する時に研究生だった佐藤B作とイッセー尾形もいた。でもまだ人数は少ないし、最初の芝居『阿呆劇マクベス』を上演するまでに1年以上かかったんじゃないかなあ。

アンダーグラウンド自由劇場

(次回は、『上海バンスキング』へとつながっていく話になる予定です)

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。

聞き手:草生亜紀子 
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)

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