ただの大家だと思い込んでいた。ところが……
私が「アサヒグラフ」編集部に出入りするようになったのは1968年。その頃は有楽町の駅前、今の有楽町マリオンに朝日新聞東京本社があり、4階の出版局に「アサヒグラフ」「アサヒカメラ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」「科学朝日」の編集部が集まっていた。アサヒグラフとアサヒカメラの間には、いかにも簡単なビニール貼りの黒いソファが置かれたコーナーがあり、そこが木村伊兵衛さんの定席だった。アサヒカメラの顧問でもあったので、責任感からか、しょっちゅう編集部に来ていたのだ。木村さんの周りには編集者や、時には伊奈信男や渡辺勉といった大御所の写真批評家もいたりして、脇で聞いていると、確かに木村さんの話は面白い。落語家や講談師が一席ぶつような感じで、つい引き込まれてしまうのだった。
アサヒグラフの編集者が、「三里塚を撮っている北井さんです」と木村さんに引き合わせてくれたのがきっかけで言葉を交わすようになったものの、正直なところ、それまでの私は木村さんに対して好印象を抱いていたわけではなかった。私はどちらかというと反体制派だったのに対して、木村さんは日本写真界の頂点、それも永遠に頂点にいるような存在だった。もちろん、写真学校に通う以前から、木村さんのことは知っていた。けれども私の目が向いていたのは、ウィリアム・クラインやロバート・フランクといった型破りな写真家たちで、木村さんの写真に興味を持つことはなかった。アサヒグラフやアサヒカメラで仕事をするようになり、アサヒカメラで木村さんが連載していた「新・人国記」や「職人」を見てはいたけれど、いわゆる木村さんらしい名人芸が際立って、それほどいいとは思っていなかった。
木村さんの写真と真面目に向き合う気持ちになったのは、中平卓馬さんから「木村伊兵衛の写真はすごい」と聞いたことも影響している。中平さんは、1968年に池袋西武百貨店で開かれた「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」の編集委員として、10万枚以上に及ぶ歴史写真を見る体験をした。そして私に、「木村伊兵衛の写真を相当数見たけれど、あんなにいい写真家だとは考えていなかった。そのことが今回の編集の仕事の一番の発見だった」と話したのだ。そう言われてみると、木村さんの写真には強く印象に残るものがあり、中平さんの眼力を目の当たりにした。
私がこれまでに見た膨大な写真の中で一番すごいと思う写真は、木村さんが1935(昭和10)年に撮った〈那覇の市場〉だ。それまで写真は、肖像でも風景でも焦点は1つに定めるものだった。ところが、〈那覇の市場〉は焦点がいくつかに別れていて、視線があちこちへいく。そして、人が動いてどこかへ出ていってしまうような気持ちにさせられる。つまり、フレームだとか、写真の空間ということを非常に意識させるのだ。


木村さんの写真で同じように焦点が分散していく感じがするのは、戦後の写真集『秋田』に収められている〈青年〉と〈塀〉という、どちらも有名な作品だ。〈青年〉は、純朴と生意気が入り混じった三人の青年の視線がまったく違う方へ向けられた不思議な作品。〈塀〉は、画面全体に映されているのは歴史を刻んだ板塀である。板塀前の右端と中央には地表にゴツゴツと根を出した幹が1本ずつ、左端には板塀の前を通り過ぎる馬の尻尾だけが写っている。板塀と木の力強さとは対照的に、外へ出ていく馬の尻尾の軽妙さといったらない。


1972年、のら社から自費出版した『三里塚』で日本写真協会新人賞をいただいた頃から、私も木村さんと話をするようになっていった。アサヒカメラ編集部の黒いソファのところで、木村さんに以前から聞いてみたかったこと、つまり、写真の中に動きを取り入れようとしたのはなぜかと問いかけてみた。すると木村さんは、「那覇の市場は、道の両側に横に長く露店が出ているので、なるべく行き交う人を入れながら、映画のカメラが横に移動撮影する感じを1枚の写真で表現したかった」と語ってくれた。
木村さんがそんなふうに考えて〈那覇の市場〉を撮ったと聞き、思い当たったのは、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による『戦艦ポチョムキン』(1925年)だった。視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いるモンタージュ技法の元祖と言われる映画で、〈那覇の市場〉は1枚で撮っているものの、それに当たる写真だと理解した。このことを1930年代に考えて、成功させているのだから、木村さんは画期的な人なのだ。
木村さんは、アンリ・カルティエ=ブレッソンと一緒で目に留まらない瞬間だとか、人のちょっとした仕草を捉えるのがとても上手い。シャッターチャンスとかテクニックの木村伊兵衛と言われているように、いつも何かしら人が真似できないテクニックを写真に盛り込むことを楽しみにしていたのだ。
写真のことなら、木村さんと何時間でも話ができた
私が日本写真協会新人賞を受賞できたのは、実は木村さんのおかげだ。受賞のあと、「アサヒカメラ」の編集者から「木村さんは、北井の『三里塚』はアサヒグラフに掲載されていた頃からいい写真だと言い、日本写真協会新人賞に木村さんが推してくれた。ほかの審査員のほとんどが反対したらしいよ」と聞かされた。木村さんが押し切ってくれなければ、受賞していなかったのだ。
1972年の日本写真協会賞は、私が新人賞を、木村さんの弟子で昆虫写真家として知られる佐々木崑が年度賞を受賞した。アサヒジャーナルやアサヒカメラに縁のある二人が受賞したということで、朝日新聞東京本社ビルの最上階7階にあったレストランアラスカで祝賀会を開いてもらった。会の最後に木村さんが私について話してくれたのだが、その時から、そして今なお、私は木村さんに感謝し続けている。木村さんは次のように語ったのだ。
「自分たちはブレッソンの写真を見て、決定的瞬間というので、人の目に止まらない瞬間とか、ちょっとした仕草のようなものを見様見真似で写真にしてきた。目に見えない角度のような、写真の特殊性を狙って写真を撮ってきた。北井一夫の写真には、決定的瞬間はまったくない。どの写真を見ても、人がぼんやり座ってお茶を飲んでいたり、ぼーっと立っているだけで動きもさほどない。けれどじっと見ていると、日常の長い時間を感じさせる。これはすごいことだ」
木村さんが、写真理論を延々と喋ったので、聞いていた人たちは驚いた。私自身、木村さんが話したようなことを考えていたのだと、改めて認識することができた。そして、木村さんは、単なる大家ではないと確信した。木村さんは江戸っ子で、いつも酒を飲んでは、べらんめぇ調でおもしろいことを語っているように見せていながら、実はものすごい勉強家で、真摯に新しいものごとを取り込んでいた。国内外から写真集を取り寄せていたし、レンズやカメラの特性を研究することにも熱心だった。
ある時、若いカメラマンが木村さんの現像液のつくり方について質問をして、木村さんが怒ったことがある。木村さんの時代には既製の現像液はなくて、自分たちがそれぞれ、自分で調合してつくっていたのだ。匙加減を少しずつ変えていき、わずかなことでダメになってしまう。失敗を重ね、自分なりの現像液に完成していった。「苦労して作り上げたものを簡単に教えてほしいというのは泥棒に等しい」と、めずらしく厳しい口調だった。
木村さんは、私の写真を気に入ってくれていたが、一度だけ、「北井さんの写真はすごくいいんですけれど、あのブチブチザラザラだけはいただけませんね。粗粒子のアレはなんとかなりせんかねえ」と言われたことがある。私は反抗的な人間なので、学校で教わったことはすべて忘れるようにして、自分なりにスタートしているから、粗粒子現像をやると、とことんエスカレートしていった。木村さんから粗粒子について指摘されたのは、私自身も粗粒子に飽きて標準に戻していこうかと検討していた時期だった。
木村さんとは、酒を飲んだことはない。写真の話だけをした。写真のことなら、何時間でも木村さんと話し続けられた。
誰も木村さんみたいにライカを使いこなせない。
木村さんは東京・下谷の生まれ(1901年)で、帯締めや羽織紐を扱う家のひとりっ子だった。三田の慶應幼稚舎へ入学し、家が根岸に移ってからは地元の小学校へ通うようになった。小学校まで人力車で行かされたというから裕福ぶりがわかる。その時分から寄席へ足を運ぶようになり、娘義太夫や落語の廓噺に心を寄せた。ずいぶんませた子どもだったと、『フォトアート臨時増刊号 木村伊兵衛読本』(研光社/1956年)で読んだ記憶がある。1920年、台湾へ渡り、安部幸商店支店で働く。その時に台南市にあった写真館の主人と親しくなって写真の基礎を勉強した。これはアサヒカメラの例の黒いソファのところで渡辺勉さんから聞いた話だ。台湾で木村さんは日本の芸者と良い仲になった。木村さんはいいところのお坊ちゃんで、芸者と一緒になれない。死んであの世で結ばれようと、鉄道心中を図る。死ぬ覚悟で線路に横たわり、汽車が近づくのを待っている。ところが寸前で、汽車は分岐して違う方向へ行ってしまった。覚悟を決めたのに死ねなかったのだから、お互い生きて頑張ろうと話し合って、その後、木村さんは写真家で名をなし、その芸者も日本に戻って一流の歌手になったとか。まあ、木村さんは講談師のようなところがあるから、どこまでが真実かはわからないが。
1922年に帰国。ぶらぶらしていても仕方がないと両親から言われて、見合い結婚をし、1924年には日暮里に写真館を開いた。といっても商売よりもアマチュアの写真クラブに加わっての活動の方に力を注いでいたようだ。

当時の先鋭的なアマチュア写真家たちは、それまでの絵画的傾向が強い芸術写真とは違った新興写真に興味を抱き始めていた。新興写真はドイツを中心に国際的に広まった潮流で、カメラ本来の機能性を活かしてストレートに撮る、アングルを工夫して事物をダイレクトに捉えたり、表現は多様だった。そうした流れのなかで木村さんを夢中にさせたのが、ライカだった。1929年、ドイツの飛行船ツェッペリン号が世界一周の途中に日本へ立ち寄った。このとき、船長のフーゴー・エッケナー博士が首からライカをぶら下げているのを見て、木村さんはライカを欲しくてたまらなくなってしまった。そして最初の市販機A型ライカを手に入れた。けれどもすぐに、レンズ交換が可能になったC型ライカに替えている。ライカ1台で豪邸が1軒建つと言われていた時代に、木村さんはライカだけでなく、交換レンズや、ドイツ・ライツ社の引き伸ばし機も買っているのだから、家2、3軒を一気に買ったようなものだろう。
木村さんが小型で機動性の高いライカで撮りたかったのは、自分が生まれ育った上野・浅草界隈の子どもたちの遊びだった。それまでの大型写真機では子どもたちの俊敏で軽快な動きは捉えられないからだ。さらに、文化人や芸者たちの生き生きとした表情をライカで撮っていく。
だいたい写真がいい人はメカに弱く、メカに強い人は写真がダメな場合が多いが、木村さんは、メカも強ければ撮影の腕前も人並み外れている。かなり珍しい人だ。1974年までライカの代理店だったシュミット商会で写真部長を務めていた明石正巳さんは、木村さんを見込んで、ライカの新型が発売になるたびに2台ずつ渡していた。1台は寄贈、もう1台はテスト用に渡され、木村さんは新型ライカの使用感を試していた。ライカのレンズは癖がある。木村さんは朝日新聞東京本社7階のアラスカから、銀座5丁目の不二越ビルの屋上に設置されていた森永地球儀ネオンを狙って、新しいレンズの周辺光量やゆがみをしらべていた。レンズの遠近感については、朝日新聞東京本社から日比谷公園まで一直線に伸びる道で確かめていた。
そもそも木村さんは、1957年から「アサヒカメラ」の連載「ニューフェイス診断室」に参加し、発売されたばかりのカメラやレンズの測定や実写をもとにした鋭い意見で一目置かれていた。木村さんはレンズの癖や描写力を見抜く力がずば抜けており、シュミット商会の明石さんは、ライカのテストを木村さんに頼ったのだった。木村さんはそれほどのライカ使いだった。
木村伊兵衛と戦争
1930年、A型ライカを手に入れる直前、木村さんは花王石鹸広告部に嘱託として入社している。昭和初期に広告の神様と呼ばれた、花王石鹸宣伝部長の太田英茂の誘いに応えてのものだった。「この10銭の石けんは大衆のためのもので、生活の中にこれは入ってゆく、今後この宣伝の仕事をすることは誇りである、というような説教を太田さんからくらっちゃったんです」と「アサヒカメラ」(1973年4月増刊号)で木村さんは振り返っているように、太田の考えは木村さんに大きな影響を与えた。絵画とは違う写真の世界を新たに表現することを追求していた当時の木村さんに、「現実の中の生活を自分なりに掴み出そう。写真レンズの持っている鮮鋭度を活用して、絵画とは違った写真独自のものを作ろう」(『木村伊兵衛読本』)という方向をもたらしたのだ。
1932年5月には、写真家の野島康三、中山岩太と一緒に月刊写真雑誌「光画」を刊行する。第1号で重要な論考「写真に帰れ」を発表した評論家の伊奈信夫は2号から同人になった。野島は銀行家の長男で、野島が住んでいた麹町の豪邸に4人が集まって編集会議を行い、新しい写真運動を目指して18号まで発行し続けた。傑物たちによって作り上げられた、おそらく日本の写真雑誌では最高レベルのものだったと思う。木村さんがライカで撮影した作品らしいものを発表し始めたのは「光画」だった。「下町の子供」や「工場地風景」がそれだ。

同時期に木村さんは、ドイツから戻ってきた名取洋之助が主宰となり、伊奈信男、原弘、岡田桑三たちと日本工房を設立する。ものすごいメンバーだ。ドイツでバウハウスのデザイン思想に触れ、報道写真の概念と組写真などの編集を持ち込んだ名取は、木村さんに大きな影響を与えた。ただ、名取にはお山の大将的なところがあって、伊奈、原が決裂したのに続いて木村さんも日本工房を脱退。その後、伊奈、原、岡田と共に中央工房を設立した。袂を分ったのちも、日本工房、中央工房のどちらも銀座5丁目に事務所を構えていたというのも不思議だ。
木村さんの写真家としての名前が決定的になったのは日本工房時代だ。ライカで撮影した「文芸家肖像写真展」が銀座紀伊國屋ギャラリーで開催されて注目を浴びた。それまでの肖像写真といえば、大型写真機を使い、静止させた対象に照明を当てて正面から堂々と撮るものだった。それに対して木村さんは、気楽な感じで脇から構えたりして、動きのある肖像画にした。肖像写真を数多く手がけた土門拳の作品に比べると、柔らかいし、さりげなく瞬間をとらえている。この展覧会で木村伊兵衛は、ライカ使いの名人と呼ばれるようになったのだ。思い切り通俗的な言い方をさせてもらうと、木村伊兵衛は、写真界の美空ひばりだと思う。どう聴いても、見ても、すばらしい。嫌いだという人はいない。まったくいない写真家なのだ。
私がこの時期の傑作と感じるのは、先ほども取り上げた〈那覇の市場〉を含む「琉球」(1935年)のシリーズだ。1937年に発行された『小型カメラの写し方、使ひ方』(「写真技術大講座」第2巻/玄光社)に収められている。沖縄といえば、私もアサヒグラフで「沖縄放浪」という3回の連載をやらせてもらった。1972年の返還前の沖縄を撮影したもので、毎回20ページずつの派手な連載だった。それを見た木村さんから「沖縄放浪は良かったですね。ところで、那覇ではどこに泊まったんですか」と聞かれた。私が泊まったのは国際通りの名もないホテルだった。木村さんは? と尋ねると、「私は波上宮近くの辻遊郭に1ヶ月泊まって、あちこち歩いたんですよ」とうれしそうに話し出した。それが言いたくて私に質問したんだな、とすぐにわかった。「琉球」シリーズには〈那覇の芸者〉という名作もある。ライカのソフト・フォーカスレンズ タンバールを使って撮った中でも、美しさが際立っている。ああいうところに泊まっていないと撮れない作品だ。まさに市井無頼の粋な若旦那。我々とは育ってきた世界が違うとつくづく悟った。

木村さんたちはその後、中央工房の中に国際報道写真協会を設けて、報道写真による海外向け日本紹介の仕事に携わる。第二次世界大戦が始まると、中央工房は対外宣伝誌「FRONT」を発行する、陸軍参謀本部直属の出版社・東方社へとなっていく。初代理事長は岡田桑三、美術部部長は原弘、木村伊兵衛は写真部長に就任した。そうした仕事は木村さんの芸術性や気質とは相容れないものであったとはいえ、結果として、国策宣伝に加担したことは事実だ。現在も評価の高い写真集『王道楽土』(アルス/1943年)も、1940年5月から6月にかけて当時の中国・満州に滞在し、人物のポートレートやスナップ、風景を記録したものだ。写真そのものはすばらしいものであっても、結果的には日中戦争を後押しすることになってしまった。残念なことに、木村さんでさえ戦争加担に巻き込まれてしまう時代だったのだ。
木村さんは戦後、フランス文学者の中島健蔵を理事長とする日中文化交流協会に参加して日中友好に務めてきた。訪中撮影団の代表として、日中国交が正常化する以前の1963年、1964年、1965年、1971年、1973年の計5回中国を訪れている。それが木村伊兵衛から中国への償いだったのだろう。戦後、戦争に同調した文学者や画家は審議され、断罪された。写真の世界では戦争協力が問題にされることはあまりなかったが、木村さんは中国友好を通して反省を示した。
そして私は1973年、木村さんに声をかけてもらって訪中撮影団に加わるのだが、その話は後編でしたいと思う。
北井一夫(きたい・かずお)
1944年、中国鞍山生まれ。日本大学芸術学部写真学科中退。『三里塚』『村へ』『いつか見た風景』『フナバシストーリー』『1990年代北京』などドキュメンタリー写真を発表してきた。1972年、第22回日本写真協会新人賞、1976年、第1回木村伊兵衛写真賞、2013年、日本写真協会賞作家賞を受賞。著書多数。2020年10月に平凡社より『過激派の時代』を刊行。個展も多数開催。大阪のG&S根雨にて2025年通年企画「北井一夫という写真家」(年間で6期展示替え)を開催中。
