ウィーン国立歌劇場『フィガロの結婚』~9年ぶりの来日で実現した、官能的で翳りあるドラマ

カルチャー|2025.11.10
文=林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家) 舞台写真=長谷川清徳

 ほんのわずかな違い――だがそれは、決定的な違いでもあった。
 ウィーン国立歌劇場管弦楽団(事実上のウィーン・フィル)がオーケストラ・ピットに入って、モーツァルトのオペラを演奏するということは、あまりにも特別なことなのだ。
舞台が進行するにつれて、それは確信に変わっていった。
 このオーケストラは、舞台上で何が起きているか、登場人物が何を歌い、どんな心の状態にあるのか、すべてを把握したうえで、ドラマ全体を愛情で柔らかく包み込むように演奏している。あたかもモーツァルトのまなざしそのもののように。
 ベルトラン・ド・ビリーの指揮はきびきびとした早めのテンポだったが、オーケストラのそうした本質はいささかも変わらない。快活で優しくて、官能的な愉悦がある。それがウィーンらしさなのだ。
 

開幕記者会見にて。左より、ハンナ=エリザベット・ミュラー(伯爵夫人役)、ベルトラン・ド・ビリー、ボグダン・ロシチッチ総裁、カタリナ・コンラディ(スザンナ役)、リッカルド・ファッシ(フィガロ役)、パトリツィア・ノルツ(ケルビーノ役)
©Yuji Namba

バリー・コスキー演出の知的で独創的な舞台

 2023年にバリー・コスキーの演出により新制作された舞台は、背景の装置に18世紀の香りを漂わせているものの、登場人物たちの衣裳は現代的で洗練されている。そこには演劇的な意図もはっきりとうかがえた。
 伯爵夫人(ハンナ=エリザベット・ミュラー)の黄色のふんわりしたローブ、ケルビーノ(パトリツィア・ノルツ)の軍服の明るい青、おしゃれなメガネをかけたマルチェリーナ(ステファニー・ハウツィール)のファッショナブルな若々しさ。一方のスザンナ(カタリナ・コンラディ)は地味な制服の女中であり、モップをかける掃除婦。そこには色彩のコントラストだけでなく、台本作者のダ・ポンテが意識していたであろう、階級と貧富の差が容赦なく可視化されていた。

 第2幕の終わりでは医師バルトロ(マテウス・フランサ)、音楽教師バジリオ(ダニエル・イェンツ)、女中頭というよりは有閑マダムのようなマルチェリーナが手にあふれんばかりの書類を持って騒ぎに乱入してくるが、そこには富裕層は契約書で狡猾に戦い、フィガロ(リッカルド・ファッシ)ら平民側は口約束や機知で戦うという構図が明確に浮き彫りになる効果があった。苛立たしげだが憎めないアルマヴィーヴァ伯爵(ダヴィデ・ルチアーノ)の館で起きているいざこざを、現代の観客が身近な問題として感じる上でも見事な演出と言える。
 劇中で何度か登場する花は愛と幸福と喜びの象徴でもあった。それを伯爵は踏みにじり、少女たちは笑顔で撒き、結婚する二組のカップルは持ち帰り、空っぽになった花瓶の前で伯爵夫人は愛の喪失感にたたずむ。

階級と貧富の差を浮き彫りに。隠されたテーマは?

 このオペラの隠されたテーマは愛とセックスの問題である。なぜ一日中登場人物たちは滑稽な大騒ぎをし、怒ったり悲しんだり喜んだりしているのかといえば、すべてそれは愛を欲しがっているからに他ならない。その中心にあって、最も自由な立場にいるのがケルビーノである。「恋とはどんなものかしら」の弱音の秘めやかな歌声で伯爵夫人を惑わし、濃厚なキスを交わしそうになる瞬間は危険な誘惑そのものだったし、女装させられるときに着用する黒い下着姿の何とエロティックなことだったろう。そんな愛の天使が軍隊に行かされることの残酷さも、第1幕終わりの暗い表情にはよく表現されていた。
 第2幕でクローゼットに隠れたケルビーノを罰するために戻ってきた伯爵が、いきなり伯爵夫人に乱暴するのには驚かされた。伯爵は性的な快楽に興味はあっても、そこには愛は伴っていない。伯爵夫人の何と悲しげに見えたことだろう。

 第4幕の終盤では、赦しを乞う伯爵に対して伯爵夫人は一応赦しはするけれども、目はうつろなまま。壊れた愛はもう二度と戻らないし、自分自身でも彼を愛しているのかどうか、もはや確信がない。あるのはかろうじて誇りだけなのだ。
 全キャストが緊迫感に満ちたアンサンブルでにぎやかな声のドラマを繰り広げる中で、あえて一人だけ挙げるなら伯爵夫人役のハンナ=エリザベット・ミュラーである。翳りのある深いソプラノの声は、一人強い孤独感をにじませて見事だった。
 オペラの冒頭とラストシーンが、フィガロとスザンナの二人が屋敷の壁の外にいる状況で統一されていたのも印象的である。もはや伯爵の古い権力の及ばないところで、若い二人は自由に生きていく――そんな未来を暗示する幕切れであった。
(2025年10月9日 東京文化会館)

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