「『役者ってなんだろう?』。これは今もずっと考えつづけています」
俳優・演出家の串田和美さんは7月、久しぶりに開いたワークショップで24人の役者たちを前に語っていた。小劇場の先駆けであるアンダーグラウンドシアター自由劇場からBunkamuraシアターコクーン初代芸術監督、まつもと市民芸術館初代芸術監督、そして現在はフライングシアター自由劇場の主宰と、60年以上俳優・演出家として演劇の第一線を走り続けてきたベテランが、まだ道を模索している初々しい役者のような調子で素朴な疑問を口にする。役者ってなんだろう、と。
大家や権威になることを拒み、ライブとしての舞台を子どものように楽しむ串田さんは、軽やかで自由な精神を体現しているように見える。観客の高齢化が進み、産業として決して楽とは思えない演劇界で、座長や芸術監督として様々な「大人の事情」に取り囲まれたり、自由を謳歌していられる状況ばかりではないはずなのに、串田さんはいつも自由な空気を纏っている。その背景には一体どんな人生があるのか? 串田さんの自由はどこからやってくるのか? どんな覚悟で自由を守ってきたのか? そんなことを聞いてみたいと思った。
黄色と黒で描かれたビーナス
2025年7月9日、東京都武蔵野市にある吉祥寺シアター稽古場で、選考を経てワークショップに参加した若い役者や演劇関係者を前に、串田さんは「話し合うところから始めよう」と語りかけた。
「僕は終戦の時に3歳。学校でも芝居をして、驚くようなことや出会いがいっぱいあって、俳優座養成所の14期生になりました。高校3年生の時に60年安保闘争があって、10代の終わりに影響を受けた。世界中で新しいことをやろうという機運の中、それまでの芝居とは違う自分たちの芝居をしたいと思いました。当時は外国の芝居をやる時には髪を染めて、瞼を青く塗っていたりして、『なんかおかしくないか?』と思っていました。
1966年、六本木のガラス屋の地下を劇場にして始めたアンダーグラウンドシアター自由劇場。当時、もうひとつ新宿に蠍座というアンダーグラウンド劇場があった。地下には反逆するという意味合いもありました。そのうち早稲田小劇場とかもできた。今と違ってSNSの時代じゃないから、『やってるらしい』と噂で耳にするだけ。寺山修司とすれ違って、『あ、この人、そうかな』と思いながら会釈したり。みんなそれぞれ違うやり方だからおもしろかった」
「ぼくは役者をやろうと思った。でも『役者ってなんだろう』というのは今もあります。日本だと歌舞伎、海外だと王様を讃えるような古典劇の時代から、やがて『庶民の物語を見せる芝居』ができた。普通の人が普通の言葉で喋る劇。アマチュア演劇こそが新しい、となったけれど、アマチュアにもテクニックはいるというので、メソッドとか形だとかいろいろ出てきた」
こうした話の流れの中で、芝居に向かう串田さんの姿勢の原点を感じる発言があった。
「高校の美術の時間、白い石膏のビーナスをデッサンしていた時、隣の丹波君が、黄色と黒の縞模様で自由なビーナスを描いた。それまで『光がこう当たるから影はこちらにできる』とか指導して回っていた先生が何も言えなくなった。ダメとも言わない。その時、ぼくはおもしろいと思った。『理由もなくこうしたい!』という衝動ってあるでしょ。彼は白いビーナスを急に黄色と黒で描きたくなったんだと思う。演劇にも、ウケる芝居とウケない芝居がある。でもウケない芝居でも100人に1人、何か心に引っかかる人がいるかもしれない。ピカソだって耳を3つ描いても説得しちゃった。演劇もそういうものなんじゃないのかな」
でも、「こうしたい!」という衝動だけでは生活を成り立たせることはできない。
「オーディションを受けると、役者はどうしても求められるものをやってしまう。使ってもらえるように『お気に召す』ものをやる。でも、そのためだけに役者をやるのだろうか? ぼくは今でもそんなことを考えます。料理屋でもそう。不味いんだけど食べたくなる店、そんな店はないんだけど(笑)、もしあったらすごい」
そんな話の後で、こんなことを口にした。
「アラン・ドロンが俳優を引退するときに、自分はacteur(俳優)だけどcomédienではないと言った。フランス語でコメディアンは喜劇役者じゃなくて本来の意味の俳優。アラン・ドロンは卑下して言ったと思うけれど、どういうことだったんだろうなと今でも考える。
俳優って何だろう? comédien って何だろう? そんなことを考えながら、このワークショップをやっていきます。最終日に発表をします。作りかけのおもちゃみたいになるかもしれないけれど、お客さんに観てもらいます」

人は生活の中で芝居する
10日間のワークショップでは、随所で串田さんの知見が披露された。
「立ち上がって、まっすぐ立つ。それだけで人は個性的。頭の真ん中を天に向かって真上へ。足は地球の中に向かって真下へ、スーッと引っ張られる感覚で立つ。そのまま前へ、後ろへ、右へ、左へ。膝、骨盤、胸、頭、ポジションを意識して、体を意識する。まずは自分の体を知ることが大切」
「姿勢からくる気分というものがある。ある姿勢を取ることによって、どんな気分になるか。自分を観察する。それが人にどう見えるかを意識する。それを組み合わせて演技する」
ひときわハッとさせられる発言があった。
「演技は役者だけがするのではなくて、人はみんな生活の中で演技をしている。生活の知恵として芝居する。『集中する』仕草をして集中しようとする。ものを考えたい時、頭を抱えたり、顎に手をやったり、先に考えるポーズを取る。それが集中したり、考えたりする手段になる。つまり、他人に見せるだけでなく、自分をある状態に導こうともする。生活の中で芝居をすることによって、自分をそう仕向けているのです」
考えたこともなかった。
ワークショップ3日目。ふたりひと組で即興劇が行われた。状況とふたりの関係性を決めた上で、即興の芝居が展開する。銀行強盗に遭遇して人質に取られた他人同士、猛烈に暇なコンビニの店員、刑務所の母に面会する息子、花屋の恋、ベトナム人になりたい旅人、おばさんの葬儀で再会した従兄弟、兄を待つ弟と兄嫁……巧みな芝居で笑いをとるペア、そこにいない登場人物まで想像させて広い世界を描き出すペア、話が膨らまず苦悩を滲ませるペア、芝居の中と外でさまざまな人間模様が描き出された。
全員の劇が終わったところで、串田さんはみんなを労った。
「即興劇は辛いよね。怖いし、惨めだし。それでいい。体験することが大事」
「文字がなかった時代に台本はなかった。だから吟遊詩人は聞いたものを喋った。文字ができて『オイディプス』とか今「古典劇」と言われるものが残ったけれど、中世は字の読めない人がいたから、劇団の座長があらすじを決めて、即興でやっていた時代もあった。即興が良いとされた時代、台本は作らなかった」
「芝居は全員が責任を取る。瞬時に選びながら動いてみる。作り出す時は、みんながグッと責任を取る。芝居を動かしていく原動力、そのスタートは役者が作る。役者が作る芝居は勇気がいるし、難しい。作りながら動いていくのは難しい。でも、セリフはきちんと言い切る。もちろん、うまくいかないこともある。それでも引き受けないといけない。他人のせいにしない」
「役者は助けてくれるもの、しがみつくものが欲しくなるから、作家が書いた台本を受け取る。演出家の指示を受けることもある。でも、役者が引き受けていない芝居はつまらない。役者は即興性を持っていないといけない。座る時だって、指示されて座るのではなく、座りたくて座るように役者は動くんです」
この日はその後、「声を作る」時間があった。谷を越えて山の向こうへ届けるつもりで、「んー」「むー」といった声を全員で重ねていく。仲間の声を聞きつつ、受け止めて返す。悲しいのか、嬉しいのか、言葉ではなく理解しようとする。勘違いでもいいから受け止める。同じ音を出すのではなく、みんなでひとつの音になるように。1日の流れや季節の移ろいを「むー」で表現する。
ワークショップ終了後の感想で、「声を作った時間がとてもあたたかかった」と評した参加者がいた。
群れで一緒に生み出している意識
ワークショップ最終日に発表する芝居は、芥川龍之介の『桃太郎』と、グリム童話「漁師とおかみさん」。
前者は1924(大正13)年、芥川龍之介が32歳の時に発表したもので、昔話『桃太郎』のパロディである。甘やかされて育った桃太郎は働くのが嫌で鬼ヶ島の征伐を思い立つ。腕白な桃太郎を厄介払いしたかったおじいさんとおばあさんは喜んで送り出す。一方、天然の楽土で穏やかに暮らしていた鬼たちは理不尽に財産を奪われ、やがて鬼ヶ島の独立のための闘争を企てる。大正時代の発表だったから問題なかったが、戦時色の濃くなった少し後の時代なら官憲から目をつけられかねなかった作品だと串田さんは見る。
「漁師とおかみさん」は、1812〜15年に刊行されたグリム童話の一遍。漁師が釣り上げたヒラメは、実は魔法にかかった王子で命を助けてくれと言う。人のいい漁師がヒラメを逃してやると、おかみさんは願いのひとつも叶えてもらえと言い出し、その要求は次第にエスカレートしていく。しまいには……という物語。
それぞれに込められた皮肉やユーモアを、今の時代性と重ね合わせながら、参加者たちはそれぞれに解釈し、その理解を載せた演技を見せていく。アイディアを出し合い、呼吸を合わせて、それぞれ20分ほどの芝居に仕上げていく。
途中途中で、串田さんがアドバイスしていく。
「冒頭、語りはじめの人は惹きつける。観る人をはねつけるのではなく、惹きつける。そして続く人はその惹きつけたものを離さないという気持ちで繋ぐ」
「言葉のいろんなところに飾りをつけるのではなくて、物語の『核』を考えてセリフを言う」
「芥川が作品に込めた皮肉を現代の身勝手さに重ねながら読む」
「セリフを喋っていないときも、全員が絶えず無言で喋っている。集団で演じる。その方が楽しい。いつも群れで一緒に生み出している意識。喋っていない人がむしろ演技をする。そうした空気を作ろう」
「全部がひとつの絵になる」
「大事なのは想像力。書いてあることだけにしがみつかない」
「魔法でヒラメにされた王子の『気品』をどう表現するのか? 位の高い人は熱心に喋らなくていい。説得しなくても聴いてもらえる立場の人は熱弁を振るわない」
「そこはびっくりするのではなくて、内緒話をするみたいに言うと感じが変わる」
「舞台は激しい場面ほどちょっと引いて冷静にやる」
「先に知りすぎない。セリフを担当する人が語るお話を聞きながら、『はあ、そうなのか』と自分も動く。『知らなかったー』という芝居をする。先取りしない」
「欲望の果てに何があるのか? スマホだってAIだって便利だけれど、本当にこれでいいのかなあ? という疑問は持っていないといけない。人の飽くなき欲望とその果てを描いたグリム童話は、語り継がれて中世に書き残されている。すごいなあと思う」

ひとこと、ふたことのアドバイスを受けて、役者たちの演技はどんどん変わっていく。大きなアクションになってみたり、逆に削ぎ落とされて静かなものに戻っていったり。最終的に全員がひとつの生き物として息をするような芝居ができた。
発表後、ワークショップ参加者からは「この10日間をお守りのようにして、これからやっていきたい」「何年後かにわかるだろうなと思うきっかけがいっぱいあった」「経験値を一回忘れて原点に帰ることができた」「演劇って自由だなあと心が開いて、初心に戻ることができた」「明日はもうワークショップはないけれど、きっと一生考え続ける」といった感想と、濃密に過ごした時間が終わることへの惜別の言葉が聞かれた。
串田さんは朗らかな笑顔で、「お疲れさまでした。とてもいい感じでした。みんな臆せずやってくれました。1週間でこれだけ作れたのは大変なこと」とみんなの奮闘を称えた後で、こんな話で締め括った。
「小学生くらいの時、教科書で柿右衛門(有田焼の陶工・初代酒井田柿右衛門=1596-1666、初めて赤絵磁器の焼成に成功した)の話を読みました。良い柿色を出すために、もっと熱が必要! もっと、もっと! と、家の柱をどんどん窯にくべていく。ある意味、狂っているんだけど悲惨じゃない。子ども心にショックを受けました。愉しいというのは、そういうことかもしれない。愉しさを追求すると何もかも失って死んでしまうかもしれない。妥協しないで愉しむのは半端なことじゃない。
今、世の中は『事情』だらけ。お金がないとか、ナニがないとか。でも、妥協する中でどこか妥協しないことがある。妥協しないで追求した時の楽しさ、愉しさがある。それを追求しないと人は動かないし、社会は動かない。時代は変わらないのだと思います。
柿右衛門の器に出会いたい、出会わせたいと思っている間に、ぼくは歳をとってしまったけどね。
これからも何らかの形でつながっていてください。ぼくとしても感謝しています」
歳をとったと言いながらも、「柿右衛門の器に出会いたい、出会わせたい」という情熱が冷めた様子はまったくない。串田さんが舞台に立ち続ける原動力の一端を見た気がした。

仲間を増やしたい
ワークショップが休みの日に、改めて串田さんの話を聞いた。
――今回、久しぶり、2年前にフライングシアター自由劇場として活動を始めてからだと初めてワークショップを開かれたそうですが、どうしてやろうと思われたのですか?
仲間を増やしたいと思った。映像で役者を見て芝居に参加してもらうだけでなく、顔を突き合わせて知り合って、仲間を増やしていきたかった。加えて、若い人に話すことで、これまで自分がやってきたことの整理ができると思った。相手が「わからない」っていう顔してると、「あ、ここをもっと喋らないといけないんだな」とわかりますからね。いい整理になる。その両面です。

――久しぶりのワークショップで以前と違うことはありますか?
松本で20年活動した後、東京に戻ってきてフリーになって、改めて「環境が前とずいぶん違うな」と思いました。とにかく芝居の数が多い。昔の比じゃないくらい多い。観る人より、やる人の方が多い。「劇団・のようなもの」がいっぱいある。これはいったい何なんだろうなあ?
ひとつには簡単に芝居をやれる。相当な決心をしなくてもできる。若い役者に話を聞くと、「大学でワイワイ芝居をやってたけど、パッとやめて就職するよりもうちょっとやってみるか。30歳くらいまでは自由にしてていいんじゃないか」と言う人がいる。そう言える環境がある。昔は大学を出ると就職するとか、親の跡を継ぐとか、決めないといけなかった。そのタイミングを逃すと就職できないという状況があった。就職するかどうか大きな決心を迫られた。昔、自由劇場の研究生をしていた大学生の目の色が、ある時、変わった。どうしたのかなと思ったら、就職するのをやめて、芝居を続けることにしたという。そういう時に人はグッと伸びる。でも、今はそうじゃなくて、「もうちょっと芝居をやってみてから働こう」といった姿勢の人が多い印象を受けます。
ぼくはそれを聞いていて、山岳部とワンダーフォーゲルの違いかなと思った。ワンゲルは頂上を目指さない。山が見える丘を歩く。それはそれで、もちろん悪いことじゃない。
ただ、もうちょっと、既存のものを疑っていいと思う。「演劇界はこういうもので、そこにどう入ろうか」と考えている人が多い感じがある。「演劇界を変えちゃおう」とか、思いもしないんじゃないかな。政治や社会を変えるのは大変だけど、演劇を変えるのはそれほど大変じゃないのにね。
現実が現実らしくなくなっている
ぼくは現実的ではないし、変な、夢みたいなことばっかり言ってるんだけど、それとは別に、現実というものが現実らしくなくなってるんじゃないかな。
――それ、よくわかりません。
巧妙なフェイク映像がたくさんあるでしょう。「これ嘘だろ」と思うようなものがSNSに流れてくる。「動物が車を止めてくれたから事故を逃れた」みたいな映像がやたらにある。フェイクに決まってる巧妙な動画を誰かが手間暇かけて作っている。嘘が巧妙になっている。
別の例で言うと、今はほとんどタダで海外と話ができる。昔の国際電話はすごく高かった。「3分以内で話せ!」とかやっていたのに、どうして今は無料なのか? ただのわけがない。どこか気づかないところで何かを取られている。それに気づかないことに苛立ちを覚えないように作られている。気づいたからと言って得するわけではないけれど、どうしてそれを疑わないんだろう?
昔は、詐欺師は「見るからに詐欺師」だった。背広を着て名刺を持って、髪にポマードをつけた決まりきった詐欺師がいた。今は、もっと巧妙にネットで詐欺をやっている。堂々とまことしやかに儲け話をして、「あ、言っちゃった」みたいな芝居までする。どうも、完全に信じさせるより、見え見えの芝居の方がいいらしい。
そういう世界でぼくらは芝居をしてるってことだね。
絵の具でもあり絵描きでもある
――ずっと考えてこられた「役者って何だろう?」という問いへの、今の時点での串田さんの答えはどんなものですか?
1966年に劇団・自由劇場を作るときに、自分たちの芝居は自分たちで決めるんだと同世代が集まった。それまで先生や先輩の言う通りにやっていたところから、そうじゃなくて自分たちが決めると集まった。賢いリーダーが何かを決めて、みんなが従うならそれまでと同じ。だから、どういう演劇をやるのか、朝までガンガンやり合った。疲れ果てて、誰かが「ああもういいよ、あんたの言う通りだ」とか言い出すと、「ダメだ! 諦めるな! みんな疲れてるんだ。本当に思っていないなら『うん』と言うな! 反対しろ!」とか、さらにやり合うから何日も終わらない。相手に『うん』と言わせるために議論してるのに『うんと言うな』って言い出すんだから終わらない。
その時に僕が考えたのは、「役者が考える芝居」。
誰かに言われてやるのではなく、正解が他人にあるのではなく、「自分の中に正解がある芝居」。あの頃すっと言えたわけでなく、何日もかかって出てきた言葉だけど。
かつては座長が決めた。座長が俳優の場合もあった。そのうち作家が大切になって、作家は役者が兼ねていたこともあった。おもしろい脚本を書く人が出てくる時代になると、「作家を超えてはいけない」から、「作家が考えてないことを持ち込んではいけない」ことになる。作家の意図を理解するのが演出家だから、演出家の意図に沿ってやる……となると、役者とは何か? 落語や漫談やスタンドアップコメディみたいに一人でやる人は演出家なのか役者なのか? とか考えた。
ぼくは一人でやりたいわけじゃない。アンサンブル、人の輪の中でやりたい。役者がそれぞれ考えて一緒に生み出す。役者は絵の具ではない。絵の具であると同時に絵描きでもある。キャラクターがあって、得意技もある。ただ使われるものではない。絵の具だって「私はこういう赤で隣の赤とはちょっと違って、こういうふうに扱ってもらったら私も頑張ってみます」と自己主張したら、絵描きに近づく。もちろん演出家を拒むのではなく、言われたことを引き受けることもある。そんな存在は何なのかとずっと考えている。
――串田さんにとって、芝居ってどんなものですか?
気づかせてくれるもの。知らなかったことのイメージが湧くようなもの。言葉はないのに、触発される何かがあるような存在。嘘なんだけど本当のように時間を作っていく中で、ふわっと思うようなこと。
理想は雲。雲に意思はないのに、懐かしくなる雲、憂鬱になる雲、いろんな雲がある。「うわー、入道雲かー」とか言いながら、どんどん広がる雲を見ていると、何か感じることがある。退屈な雲はない。ぼくは、お芝居は雲を眺めるように見てほしい。
モンゴルに行った時、ナーダムという地元の競馬みたいなものを見る機会がありました。はるか遠くから裸馬に乗った少年たちがやってくる。広いから最初は何もわからない。親たちは酒盛りをしている。待っても待っても来ないんだけど、そのうち遠くに砂煙が見えて、少年たちが走ってきた。胸にゼッケンをつけて「へーい」とか言いながら走ってくる。ひろーい空に雨を降らせる雲がいくつか浮かんでいる。落馬して乗り手のいない馬も走ってくる。泣いてるのか汗か雨かわからないもので顔を濡らした子が走っている。広い草原の上を雲と雨が移動していくのが見える。そのうち、虹がふたつも3つも出る。すごい演出だ! と思った。「この演出はできない。神様には敵わない」と、つくづく頭が下がった。そんな壮大なものじゃなくても、そういう奇跡が人の心の中にふと起きたらいいなと思って、芝居をやっている。何年か経ってからでも、一人でもいいから、ふっと思い出してくれたらそれでいい。
最後の砦は倉庫で働く劇団
――山岳部とワンゲルの違いに重ねて、若い人の演劇に対する「覚悟」のようなものの話がありましたが、串田さん自身に「覚悟した瞬間」はあったのですか?
全然なかったかな。覚悟する必要がなんであるの? という感じ。芝居をやめようと思ったことないし、多分生涯やってるだろうなと思った。体が壊れちゃうとかは別だけどね。
劇団を解散して一人になったり、借金まみれになったり、いろんなことがあったけど、どうにもならなくなったら、倉庫に勤めればいいかもしれないと思いついたことがあった。倉庫に勤めて、そこで働いている人をちょっとずつ説得して、昼休みとかに芝居の稽古をして、年に1回、社長に頼んで倉庫の荷物をどこかにやって、倉庫で芝居をするというイメージが湧いた。これが最後の砦。そこまで考えたら、もう芝居をやめる必要がないと思えた。
これは最後の最後、切羽詰まった時の発想のはずだったんだけど、ちょっと理想じゃないだろうかと今でも思う。何とも言えない味のある倉庫番のおじいさんとか、やけに体のいい若者とか、仕事の合間、休憩時間に稽古したら、他のものとは違う芝居ができるんじゃないか。そんなことを考えていたら、だんだんそれが理想になって、「いつ、そういうのができるだろうか」と夢みたいなことになってる。能天気なんですよ。実際には、芝居をやる時、荷物をどこにやるのか、外に置いて雨が降ったら大変だし、考えなきゃいけないことはあるんだけどね。
若い頃、ラジオの取材か何かで孫一さん(父)と喋りながら歩くという企画があって、新宿公園あたりを歩きながら、この倉庫の夢を話した。すると孫一さんが「ほぉほぉほぉ、それは仲間を説得するのが大変だねえ」と言ったのを今、思い出した。
――倉庫で働く劇団、実現できるんじゃないですか?
うん、おもしろいでしょ。かなり本気で考えてる。
(次回、父・串田孫一と母・美枝子の話へとつづきます)
串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。
聞き手:草生亜紀子
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)