失われつつある昭和の名ビル
2020年に予定されていた東京オリンピック前後、そしてコロナ禍を経てからも都心の再開発の勢いは止まるところを知りません。これを東京の活力と見るべきなのか。しかしそこで失われていくのは昭和の街並みです。
1960-70年代の高度経済成長時代、日本の建築家やスーパーゼネコンは大いなる躍進を遂げ、世界的な名声を得ていきましたが、その時代に建設された築50年前後の建物が、今、続々と解体されています。
近年すでに解体されたものには、銀座のソニービル、虎ノ門のホテルオークラ旧本館・別館、黒川紀章設計のメタボリズム建築を代表する作品・中銀カプセルタワービル、丹下健三設計の旧電通本社ビル、浜松町の世界貿易センタービルなどがあります。
東京が都市として新陳代謝していくため再開発は仕方のないことと思いながら、私が子どもの頃から親しんできた建築や風景が失われていくことには悲しさと残念さを感じざるを得ません。
そんなことで、失われていく昭和戦後の建物を取材撮影し、それらの建築史的価値、建物の味わい深さを解体前に多くの人たちに知っていただきたいと、この企画を思い立ちました。
連載第12回は、丸の内の代表的なオフィスビルであった「国際ビル」を取材しました。
国際ビル
住所 東京都千代田区丸の内3-1-1
竣工 1966年
設計 三菱地所、谷口吉郎
施工 大林組




















高度経済成長が生んだ丸の内モダン
丸の内仲通りと、皇居内堀通りに面して立つ国際ビル。“丸の内の大家”と言われる不動産会社・三菱地所が開発した1960年代築のオフィスビルの中でも、外観、エントランスまわりや低層部の商業・共用部分のインテリア、ディテールがとりわけ豪華に作られたビルです。改めて館内を見て回っても、この時代にしか実現し得なかったデザインと素材を存分に味わうことができる建物だと感じます。
館内の内装にふんだんに使われたさまざまな種類の大理石。広いフロア内に計5つある階段は、タイル、石材、ガラスブロックなどで装飾された、それぞれ異なる趣向のデザイン。床は左官仕事で仕上げられた“テラゾー”。エレベーターホールの天井と壁に広がる朝焼け、夕焼けを描いたガラスモザイク画「空 朝夕」は、この時代に大活躍したモザイク壁画作家・矢橋六郎の作品といった具合です。
ビルが竣工したのは1966年9月。当時は、建設や内装工事において、工業化、機械化が進みつつも、まだ職人仕事が併存していた時代。その当時ならではの“手作り感”を味わうことができたのが、このビルの魅力だったと言えましょう。
この丸の内随一の立派なシブいビルは、築58年の今年3月末に閉館。隣接している帝劇ビルとともに、再開発されることになっています。
1950年代後半以降、日本が高度経済成長期に入ってからの丸の内では、最新のオフィスビルが次々に建設されていきました。
戦災に遭わなかった丸の内には、戦後のその時期になっても、明治時代に建てられた赤煉瓦建築のオフィスや、帝国劇場や東京會舘といった様式建築の並ぶ歴史的な街並みが残っていました。
昭和20年代には、それら建物は連合国軍に接収されていましたが、接収解除後の昭和30年代の高度経済成長期ともなると、さすがに明治期の建物ではこれからの時代のビジネスに対応できないと計画されたのが、鉄筋コンクリート造の近代的な大型オフィスビル街でした。丸の内では、今回取り上げた国際ビルや、その向かいの新国際ビル、新東京ビル、三菱重工ビル(現・丸の内二丁目ビル)などが、その時期に建設されたビルということになります。

帝劇と日本倶楽部の地に生まれたビル
国際ビル建設以前にこの場所に存在していたのは、1921(大正10)年築の日本倶楽部の建物と、1912(大正元)年築の三菱のオフィスビル・仲3号館、1911(明治44)年築の帝国劇場でした。
帝国劇場の名は、大正時代に一世を風靡した三越百貨店のキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」でも知られるもの。椅子に座って舞台を見る本格的な西洋式劇場がないのは国辱だと、明治末に建設され、関東大震災では被害を受けるも再建。その建物も、昭和戦後においては築50年以上を経て老朽化し、1955(昭和30)年からは映画館として営業していたそうで、64(昭和39)年の閉館直前には『アラビアのロレンス』が上映されていたのだとか。その旧劇場の敷地は、三菱地所が貸していたものだったそうです。
日本倶楽部は、明治31年に創立された旧内務省出身者の親睦団体で、代々の会長、副会長は澁澤榮一、徳川家達、近衛文麿という日本史の教科書にも登場しそうな方々が務められてきた由緒ある倶楽部。
この国際ビルは、三菱地所と帝国劇場、日本倶楽部の三者が協力して実現したプロジェクトでした。
2年後の66年に竣工したビルは、高さ31メートルの9階建て。地下はなんと6階まであります。当時の建築基準法では、地上は31メートルの高さ制限があった一方、地下の深さには制限はありませんでした。帝劇ビル内の帝国劇場の舞台下の奈落が地下4階まであったため、地下は6階までとなったそうです。
帝国劇場は帝劇ビルの地下6階から9階までを占め、9階には出光美術館も入居。今でこそ丸の内には、東京ステーションギャラリー、三菱一号館美術館、静嘉堂文庫美術館と、4つもの美術館がありますが、この出光美術館は、このエリアに初めて美術の息吹をもたらした存在でした。
国際ビルが象徴したインターナショナルな丸の内
国際ビルの1階から地下2階までは店舗でしたが、2階以上は事務所で、竣工パンフレットに掲載されている「入館者」を見ると、その当時本社ビルの建て替えを計画していた東京海上火災保険のほか、グレートアメリカン保険株式会社、日本ロシュ株式会社、ニューヨーク港湾局、パンアメリカン航空会社、フィリピン国立銀行など外資系の企業が多く、“国際ビル”のビル名は、こうしたインターナショナルなビジネスセンターを想起させるものだったのかもしれません。
竣工パンフレットには、入居していた店舗も記されています。銀座の文房具店・伊東屋、紳士服の英國屋、眼鏡の金鳳堂などの有名店、喫茶ではコロンバン、上野凮月堂、文明堂などの老舗。改造社書店と改造社レコードショップ、パイオニアや大林組のショールームなどバラエティに富んでいます。半数以上は飲食店ですが、絨毯、陶芸、ガラス製品、カメラ、カバン・ハンドバッグなど、昭和の時代ならではのショッピング街がビル内には展開していたようです。
館内に残っている縁が角丸型でコーナー部が曲面のショーウインドウには、かつてはこうしたお店のポスターや商品などが展示されていたのでしょう。

国内外の名店が並ぶ商業空間と仲通り
国際ビル竣工から40年ほどを経た、2002年の丸ビル建て替えの前後から、それまでビジネス一辺倒の街だった丸の内仲通り沿いの街並みは一変。現在のようなアパレルや海外のラグジュアリーブランドのショップ、カフェなどが並ぶ、都内でも有数のショッピングロードへと変貌しました。
国際ビル1階の仲通り沿いにも、フランスのクリスタルガラス・ブランドの「バカラ」や、ワインショップ「エノテカ」、京都の老舗銘茶店「一保堂茶舗」、金沢の老舗酒造「福光屋」、フランスの名パティシエ「ピエール・エルメ」の店など、国内外の名店が並んでいました。
仲通りがこのようショッピング街となったことで、結果的にこのビル内に今までより多くの人を導き入れることになったことでしょう。私も、仲通りを歩いていてふらふらと一保堂のお店に足を踏み入れたりエノテカや福光屋の店内を見たくてビル内に入り、そのついでに、大理石テラゾーの床や、一面モザイクに囲まれたエレベーターホールといった、このビルならではの美しい意匠を眺めるのを楽しみにしていたことを思い出します。
地階の飲食店街は、2007年に大々的なリニューアルが行われ「クニギワ[KUNIGIWA]」と命名。赤、青、茶色の四角いモチーフを組み合わせたデザインのレトロモダン調のインテリアと、国際ビルの“国際”を音読みしたネーミングで、親しまれてきました。
地階の、天井が低いわりに通路の広い空間は、高度経済成長期に建った丸の内や大手町のオフィスビルの飲食店フロア特有のもの。そこにマクドナルドから、66年のビル開館当時から続いてきた和食の店・福都留や、丸の内タニタ食堂、インド料理やトルコ料理、博多ラーメンや中華料理まで、新旧さまざまの店が並んでいるというなかなか魅力的な飲食店街でした。その飲食店と飲食店の間のたまたま空き店舗となったスペースには、若手の研究者たちが起業したベンチャー系の会社などが入居している場所もあったそうです。
1階に上がり仲通りに出ると、国際ビルの向かい側は新国際ビル。このビルも、国際ビルと同時期に三菱地所のほぼ同じメンバーの設計で進められたプロジェクトだそうで、両方とも横連窓という外観が共通しています。
ビル名からは、国際ビルの方が先にできたように思いますが、二期にわたって建設された新国際ビルの第一期部分は、国際ビルより早く竣工していたのだとか。

新国際ビルが建つ以前の場所にも、大正時代築の赤煉瓦貼りのオフィスビルが建っていたそうで、60年代半ばに、こうした明治・大正築の様式建築や赤煉瓦建築の街並みを、戦後モダニズム的なビル街へと更新させる中で同時に進められていったのは、仲通りの拡幅事業でした。
この時期に新築された大型ビルの高さを31メートルで統一するとともに、仲通りの道幅も拡幅しようと、東京駅側から国際ビル・新国際ビル前までの道幅を、13mから21mに拡幅。そのうち左右両方の歩道を広げて各6mとして、現在のような仲通りのゆったりとした街並みが形成されたのでした。
その後、2000年代以降に「丸の内再構築」計画でビルが超高層化していった中でも、仲通り沿いでは低層部を31mの高さで揃えることで、従来の街並みが継承されていっています。
再開発に託された“記憶”の継承
明治・大正の赤煉瓦建築から、鉄筋コンクリート造の戦後ビルへの再開発。そして2000年頃からの超高層化は、歴史を振り返ってみると、建築技術の進展とビジネス環境の変化に応じたものだったと感じられます。
国際ビルの解体に際しては、三菱地所設計の「継承設計室」が3Dスキャンによる建築データ記録やエレベーターホールのモザイクタイルがどのように作られたか、また、床テラゾーにカッターを入れて、その仕様や施工方法などを写真や図面で記録。
2024年に新たに設けられた、歴史的建造物の保存修理・活用を専門とする継承設計室では、戦前の様式建築のみならず、戦後の高度経済成長期にできた建物に関しても記録、保存、継承を行なっていくのだそうです。
今回の取材では、三菱地所(三菱地所設計)の桐澤航さんと三菱地所設計の舘﨑麻衣子さんにご同行いただき、竣工時の設計についてご説明を承りました。
国際ビルの再開発では、2031年に新ビルが竣工する予定ですが、国際ビルの内装、インテリアを偏愛していた立場からは、新ビルに、かつての国際ビルのデザインが継承されたり、取り入れられたりすることがあればと妄想してしまいます。
丸の内を代表するビルである丸ビルと同様に、高度経済成長期の日本を支えた国際ビルなどの建築もすでに歴史的な存在になっていると言えます。
現在の丸ビルのオフィスロビーに、旧丸ビルを支えていた松杭が保存展示されているように、このビルがかつてここに存在した証が何か残ればと、望んでしまうのです。
■撮影後記 都築響一
ずいぶん前に少しだけ丸の内に関わる仕事をして、それまでぜんぜん知らなかったけれど、OL界(と敢えて書かせてもらうと)の頂点に立つのが丸の内OLで、西新宿のOLは丸の内にも遊びに来るけれど、丸の内OLは新宿に足を向けることはない・・・とか笑い話だかなんだかわからないエピソードを聞いた。
西新宿の高層ビルにはなくて、丸の内の高層でもないビルにはあるなにか。それはプライドと呼べるものかもしれないけれど、プライドを裏打ちする確固たる自信があって何十年も色褪せないプライドを育んできたのだし、それは紆余曲折ありながらサバイブしつづけてきたニッポン株式会社のありようと似ていなくもない。
国際ビル(という名前すらすごいが)に代表される1960〜70年代の丸の内の建築群には、「ウチのような会社のビルをそんな簡単につくるわけにはいかない!」という自負がディテールに至るまでみなぎっているし、それは発注主の企業から施工会社、大工さんの一人一人まで共有された思いでもあった。
あのころ丸の内のみんなに見えていた「我らの明るい未来への確信」。それをかたちにしたのが丸の内建築の歴史だったのだ。
鈴木伸子(すずき・のぶこ)
1964年東京都生まれ。文筆家。東京女子大学卒業後、都市出版「東京人」編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『山手線をゆく、大人の町歩き』『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』『大人の東京ひとり散歩』など。東京のまち歩きツアー「まいまい東京」で、シブいビル巡りツアーの講師も務める。東京街角のシブいビルを、Instagram @nobunobu1999で発信中。
都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京都生まれ。作家、編集者、写真家。上智大学在学中から現代美術などの分野でライター活動を開始。「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活動。1998年、『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』で第23回木村伊兵衛写真賞を受賞。2012年から会員制メールマガジン「ROADSIDERS' weekly」(www.roadsiders.com)を配信中。『TOKYO STYLE』『ヒップホップの詩人たち』など著書多数。