#7 自然災害に対峙する土木たち~祭畤大橋~ 前編│〈特濃日帰り〉ひとり土木探訪記。

カルチャー|2023.5.31
写真・文=牧村あきこ

 昨今の激しい気象変動により、これまでの想定を超える水害が毎年のように発生している。そして突然の激しい揺れに見舞われる地震も私たちには予測がつかない。大きな自然災害の前では、人の力など到底及ばないと思い知らされることもある。

 冒頭の写真は、マグニチュード7.2の巨大直下型地震で折れ曲がってしまった旧祭畤(まつるべ)大橋だ。この橋の存在を知ったのは、ほんの偶然。橋としての機能は失っているが、畏怖を覚えるほどの存在感が心に強く響いた。
 いつか必ず訪ねよう・・・・・・そう決めて、実現できたのはちょうど2年前のことだった。

 今回の土木旅前編は、東北新幹線の一ノ関駅(岩手県一関市)に降り立つところから始める。
(記事内の写真は、2021年6月に撮影したものです。)

旅のポイント

💡季節によるバスの運行状況をチェック
💡訪問施設の休館日に注意
💡熊対応の準備をぬかりなく

本日の旅程

9:00 一ノ関駅からバスに乗る
9:53 アスファルトが裂けて波打つ旧国道 
9:59 見学通路の終点には何が
10:21 新しい祭畤大橋から落橋した旧橋を眺める
10:27 災害を後世に伝える使命

旅程の組み立て

 旧祭畤大橋までは幸いなことにバスがある。ただし、運行される時期は限られ、本数も午前と午後の2便のみ。必然的に、バスの運行状況を主軸に旅程を組み立てることになる。

 まずは一関から旧祭畤大橋まで向かい、そこで現地を見学。祭畤からは6kmほど歩いて道沿いにある矢櫃(やびつ)ダムに立ち寄り、瑞泉郷(ずいせんきょう)に行く。瑞泉郷から始発のバスがあるので、これを利用して一関まで戻るのだが、余力があれば有名な景勝地の厳美渓(げんびけい)にも立ち寄る旅程だ。

9:00

一ノ関駅からバスに乗る

 東北新幹線のやまびこ51号に乗り、一ノ関駅に到着したのは8時35分(map①)。岩手の南端とはいえ、埼玉の大宮からわずか2時間で到着するのだから、新幹線って本当にすごいものだと思う。
(なお、駅名は「一ノ関」だが市の名称は「一関市」なので、駅名以外は「一関」で統一する)

西口にあるバス乗り場。9番乗り場からバスに乗る

 乗車するのは、岩手県交通の須川温泉線だ。駅前から厳美渓、瑞泉を経由し山間の須川温泉に向かう路線である。注意したいのは運行時期だ。須川温泉線は6月半ばから10月までしか運行されておらず、その年の時刻表は春過ぎに発表されるので、必ず事前に確認が必要だ。参考までにコチラは2022年5月に発表されたものだ。

※mapは記事の一番下にあります  

 国道342号を西にひた走り、50分ほど乗車してバスは祭畤に到着。「ぶなの森まつるべ館前」で下車する(map②)。

下車したバス停から、須川温泉に向かうバスを見送る

 まずは旧祭畤大橋に最も近寄れる「祭畤災害遺構見学通路」に向かう。バス停のある場所から直に、見学通路に通じる道が続いているので迷うことはないだろう。

9:53 アスファルトが裂けて波打つ旧国道

 わき道を歩いていくとすぐに、右手に赤い屋根の建物が見えてくる。1979年に廃校となった本寺小学校の祭畔分校の校舎である。現在は「ぶなの森まつるべ館」として活用されているようだが 、2021年6月の訪問時は改修中だった。

周辺の自然を材料とした木工教室や焼き物教室なども開催されている

 ほどなく見学通路の入口に到着した。

地震により被害をうけた旧国道の片側半分を見学通路として整備した
入口には見学者への注意喚起の看板が設置されている。しっかりルールを守って見学したい

 見学通路は人が2人並んで歩けるほどの幅がある。小刻みなアップダウンはあるものの、足元はしっかりしていて歩きやすい。

 ※探訪時の動画も合わせてごらんください。

クマ出没注意の看板が立っている。熊鈴やラジオを鳴らすなど十分注意して見学する

 2008(平成20)年6月14日、東日本大震災の3年前に発生した「岩手・宮城内陸地震」は、この地に甚大な被害をもたらした。震源地から南に1.5kmほどしか離れていなかった祭畤は、地盤が約11mも横ずれしたという。

 横方向に巨大な力が加わった結果、旧国道は舗装されていたアスファルトが裂けて蛇腹折りのようになってしまった(次の写真)。

波打つ旧国道の端に見学通路が設置されている
入口方向に振り返って撮影
階段を上った少し先はやや広めのテラスになっている

 行き止まりのテラスには、回転灯が設置されている。

入口の案内板にあったように、回転灯の点灯時には速やかに避難する

 行き止まりのテラスからその先を見る。テラスは少し高い位置にあるので、眼前の道を見下ろす形になる。道と行っても、道らしきものは両端にある直方体のコンクリートのところで切れていて、がくんと下がったところに、つながっていたであろう道が続いている。
 そしてその先は、森に飲み込まれるように道は途切れてしまっている。

両端にある直方体のコンクリートは、橋の四隅にある「親柱」と呼ばれるものだ

 両端の親柱を結ぶラインを境にして向こう側が旧祭畤大橋だった。地震の地滑りにより手前側の橋桁は下方に大きく下がり、さらにその先は冒頭の写真のように直角に折れ曲がり落橋してしまったのだ。

 一関市の公式サイトに、2012年に撮影された上の写真と類似の構図の写真が掲載されている。当時はまだ対岸に残された橋の一部が確認できたが、今はただ深い森の茂みが見えるのみで、10年以上経過した時の流れを実感する。

10:21 新しい祭畤大橋から落橋した旧橋を眺める

 誰もいない見学通路から、足早に元のバス通りまで引き返してきた。

 ここで、地震が起きる前と後の道路の位置関係を地図で確認しておこう(祭畤地図)。バス停があった場所が祭畤地図①で、さきほど見てきた見学通路のテラスが祭畤地図②である。
 地震が起きる前は、一関と秋田を結ぶ国道342号は、赤紫のルートで旧祭畤大橋を通っていた。

祭畤地図

 地震発生後、橋が落橋し国道部分がずたずたになったことから、北側に新橋を架けて現在の新しいルートに変更になったのだ。

 それでは新祭畤大橋(祭畤地図③)を渡り、「祭畤大橋展望の丘」(祭畤地図④)に向かうことにしよう。

 新祭畤大橋も磐井(いわい)川の上流、鬼越沢(おにごしざわ)の上に架けられている。

左上の土肌が見える場所が展望の丘だ。小さな東屋も見える

 新祭畤大橋の上から、南側にある旧祭畤大橋を見る。冒頭の写真はこの角度から撮影し拡大したものだ。橋の向こうには深い緑に囲まれた乳青色の磐井川が流れている。

赤丸の中にちらりと見えるのは、先ほど歩いた見学通路だ

10:27 災害を後世に伝える使命

 一関市は地震発生から4年後の2012年に、「祭畤災害遺構見学通路」と「祭畤大橋展望の丘」を設置。旧祭畤大橋も不安定な一部の橋桁を取り除き、土台を固めるなど旧橋を災害遺構として保存できるように整備した。
 2011年には東日本大震災も発生しており、大災害が続く中での決断だったが、災害の記憶を後世に伝えたい・・・・・・という強い意志がくみ取れる。

 展望の丘には、地震のメカニズムやそれにより引き起こされた現象を詳しく説明するパネルが建てられ、東屋の近くには橋桁の一部が展示されている(map④)。

展示されている橋桁の一部
ねじれるようにちぎれた箇所が、強い力に襲われたことを窺わせる
赤矢印の先に、見学通路から見た親柱がある

 新祭畤大橋のある方向を眺めてみる。橋の左下、木々に埋もれるように茶色の何かがあるのが見えるだろう。実はこれ、初代の祭畤橋なのだ。今とは比べものにならないくらい低い位置に架けられたトラス構造の小さな橋は1950年頃まで利用されていたと聞く。

祭畤橋もやがて周辺の木々に埋もれていくのだろう

 自然災害に襲われるたびに、私たちは立ち上がり復興を繰り返してきた。その原動力の一つは、過去の災害を教訓によりよいものを作り上げていく不屈の精神であり、それを支えるのは事実を後世に伝えるという使命感なのだと思う。

 「ひとり土木探訪記。」の旅はまだまだ続く。次回の後編は、「災害を防ぐ」土木をご紹介します。

牧村あきこ

高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/

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