「身心脱落」道元│ゆかし日本、猫めぐり#47

連載|2024.7.19
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

力を抜いて

 気がつけば、心身ともにガチガチになっていた。

 先が読めない不安に、
思い通りにいかない現実に、
そして、日々迷ってばかりの心を置き去りにし、
慌ただしく過ぎ去っていく時の早さに、
どこかで抗おうとしていたのかもしれない。

 そんなに硬くならないで。
 力を抜いて。
 そう教えてくれたのは、旅で出会った猫たち。

 たとえば、思いっきり伸びをして、

ゴロンと寝転び、

周囲の空気と同化する。

 そしたら何が見えるだろう。

 こうなりたい。
 こうしなければ。
 こうすればよかったのに。
 そんなこだわりは捨て去って、今、この瞬間に没入すればいい。

 ときには、自分と他者の境目がなくなるほどに。

 大切なのは、「いま、此処、このわたしを生きる」こと。
(もちろん、それはとても難しいことだけれど……)

 猫の姿に心がほどけ、ほんの少し、日々の暮らしが愛おしくなった。

今月の言葉
「身心脱落(しんじんだつらく)」
──道元(参考:別冊太陽 日本のこころ197 『道元』)

 生まれは、鎌倉時代初期の正治2年(1200)。日本における曹洞宗の開祖、道元の出自には諸説ある。父は公家の久我通具(こがみちとも)、もしくは通具の父、通親(みちちか)とされ、母は摂関家の藤原基房(もとふさ)に関係する女性とも言われている。いずれにせよ、本来なら政治の道に進むべき京都の高貴な家に生まれたが、道元が8歳のときに母が他界、その後14歳のときに比叡山で出家し、仏教の世界に身を投じた。
 若き道元には、一つの大きな疑問があったという。それは、仏教では、人間は本来仏性を持っているとされているのに、なぜ、仏性を持つ人間が厳しい修行を積む必要があるのか、ということだ。だが、比叡山の指導者に尋ねても、納得のいく答えは得られない。道元は正師を求め、貞応2年(1223)に宋へ渡った。24歳のときである。
 宋では、老いた典座(てんぞ=食糧の調達から調理、給仕まですべて司どる責任者)やさまざまな禅僧との出会いを通し、日常生活のあらゆることが修行であり、仏の教えが示す生き方を自らで実践し、体得する大切さを学んだという。
 正師との出会いもあった。天童山景徳寺の住職、如浄(にょじょう)である。道元は、坐禅修行を中心に厳格な指導を行っていたこの如浄のもとで修行を積み、ある日、長年抱いていた疑問への答えを見出す。つまり、悟ったのだ。そのキーワードになったのが、今月の言葉、「身心脱落」である。
「身心脱落」とは、私という存在の身体と心が抜け落ちて自我意識が消滅し、悟りの世界に溶け込むこと。一般的に、悟りは坐禅のような修行を積んだ結果、到達できる境地だと考えられているが、道元は、我々人間は仏になるために修行するのではなく、すでに仏だから修行ができ、悟りの世界に溶け込むことができるのだと考えた。そして、修行と悟りは一つであり、修行の中に悟りがある。だから日々のたゆみのない努力の積み重ねが大切で、結果より過程が大切だと、のちに著作で繰り返し説いた。
 宋での厳しい修行を経て、道元は28歳で帰国。その後は坐禅を伝えることに生涯を尽くし、寛元4年(1246)には、越前(福井県)に本格的な禅の道場である永平寺を創建した。さまざまな著作も遺している。本来言葉で言い表すことのできない仏の教えを、道元があえて言葉によって説き示そうとしたのは、正しい仏の教えを後代まで遺すためと考えられる。なかでも『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は道元の代表的な著作で、最初に執筆された巻の「現成公案(げんじょうこうあん)」には、身心脱落した境地から現実世界がどう見えるかが示されている。
 とかく我々は、迷いがなくなれば悟りが得られると思いがち。だが道元は、迷いや悟りには実体がなく、ゆえに生じることも消滅もしない、つまり、世界を固定観念で見なければ、迷いも悟りもなくなるという。存在するのは、ただ事実。「現成」というあるがままの世界である。だからその事実を、自分の能力の範囲で見て理解しようとするのではなく、身心脱落、つまり自我を捨て去り、ただあるがままに認識することが大切だと説いた。
 猫のように今を生き、曇りない目ですべてを見たら、世界はどんなふうに映るだろう。ゆるゆると過ごす猫の姿に頬を緩め、同時にハッとさせられた。


今週もお疲れさまでした。
おまけの1枚。
(肝が据わった寝姿は、瞑想する禅僧のよう……!?)

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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