「世界がじぶんの庭に」宮沢賢治│ゆかし日本、猫めぐり#40

連載|2024.3.29
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

猫になれたら

 ときどき、猫になりたいと思うことがある。

 特に透き通った陽の光に包まれた、うららかな春の日は、
気の向くままに散歩に出て、

お日さまの下でぼうっとしたり、

ふかふかの緑の絨毯の上で、
心ゆくまでお昼寝をしてみたい。

ときには、大地に身をあずけて、大きく伸び。

 自然の一部になって過ごしたら、
木々や風、草花や鳥たちから、
どんな話が聞けるだろう。

 ともあれ、今年もようやく春です。

今月の言葉
「風や光のなかに自分を忘れ、世界がじぶんの庭になり、あるひは惚として銀河系全体をひとりのじぶんだと感ずるときはたのしいことではありませんか」
──宮沢賢治(参照:別冊太陽 日本のこころ218 『宮沢賢治』)
             

 クラムボン、オツベル、グスコーブドリ……。登場する言葉の不思議な響きと、「どっどどどどうど どどうど どどう」といった独特の言い回し。宮沢賢治の詩や童話は、五感を刺激する豊かな表現で、読む者の心を現実世界のここではないどこかへ誘う。
 今でこそ詩人や童話作家として有名な賢治だが、生前刊行されたのは、詩集『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』の2冊のみ。現在多くの人が知っている『雨ニモマケズ』や『風の又三郎』、『銀河鉄道の夜』などの作品は、賢治が37歳で他界した後に出版され、急速に広まったという。
 賢治の作品の舞台は、いずれもイーハトーブ。自身の説明によれば、「著者の心象中に状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県」がイーハトーブで、賢治の童話は、この自然豊かな世界の「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」ものという。『春と修羅』も、イーハトーブを歩く詩人の心象スケッチを、日付順に配列した構成になっている。
 賢治が生まれたのは明治29年(1896)、岩手県の現在の花巻市。幼い頃から鉱物や植物、昆虫などに興味を持ち、中学時代は鉱物採集のために野や林を歩き回り、家族から「石(いし)コ賢(けん)さん」と呼ばれたほど。一人で山に登ることもあったという。賢治の童話では、人間だけでなく動植物や山や森、さらに大きな石なども言葉を発し、自然界のさまざまな生物──ときには雪童子(ゆきわらす)などの見えないものたちも──の視点から物語が紡がれる。ユニークな発想と手垢のついていない透明感ある言葉。賢治独特の作品世界は、幼い頃からの自然体験を通して育まれていったのだろう。加えて、盛岡高等農林学校時代は和訳の法華経を座右の書とするなど、信仰も賢治の思想の大きな柱の一つとなり、卒業後は「生物のからだを食ふのをやめ」、菜食生活を始めている。
 そんな賢治が、憑かれたように童話を大量に書き始めるのは25歳のとき。当時宗教と職業をめぐって父と対立し、無断で上京した賢治は、昼は印刷所で謄写版製版や校正の仕事をし、夜は日蓮宗の在家団体である国柱(こくちゅう)会で奉仕活動に従事しながら、ひと月に3000枚のペースで原稿を書いたという。だが、妹トシの喀血の報を受け、8ヶ月ほどで帰郷。その後は4年ほど現在の花巻農学校で教師をしながら創作に励んだ。東京という都会の暮らしを経て、新鮮な気持ちで郷土と向き合ったことも大きいのだろう。賢治はこの時期、生涯で最も旺盛に創作に取り組み、現存する半数以上の童話を花巻農学校教師時代に書いたという。音楽にのめり込んだのもこの時期だった。
 もっとも、賢治の人生や作品が深化するのは、教師を退職してからのことである。自分も「本統の百姓」になり、農民とともに苦しもうと、花巻の森の中の荒地を開墾。独居自炊・自耕自作の生活に身を投じる一方、農地それぞれの土質や気候などによって肥料を設計する無料相談所を設けたり、農業に必要な専門知識の学習や文化活動を行う「羅須地人(らすちじん)協会」を設立するなど、農民の暮らしを精神的に豊かにするために、まさに身を削って日々を生きた。
 今月の言葉は、賢治が教師を辞める決心をした頃に、弟清六に宛てた手紙の中の一節。この後に「あるいは惚として銀河系全体をひとりの自分だと感ずるときはたのしいことではありませんか」という言葉が続く。自然と一体となって過ごす時間は、どのようにすれば農民たちが幸せになれるかを、科学や芸術、宗教を通して追求しようとした賢治の人生を、根底で支え続けていたのだろう。
 生涯地位や名誉と無縁だった賢治。「楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう」。人生最後の書簡の言葉が、心に響く。

 今週もお疲れさまでした。
 おまけの1枚。
 春の絶景猫!

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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