空海 祈りの絶景 #17 神護寺その1〜空海と最澄〜

連載|2023.11.24
写真=堀内昭彦 文=堀内みさ

 朝の澄み切った空気の中、清らかな鈴の音が響きわたる。長い余韻を残す、そのリン、という音の合間に聞こえるのは、砂利を踏みしめ歩く音。その音は徐々に近づき、やがて僧侶たちが姿を見せた。

 京都盆地の西北、高雄山の中腹に建つ神護寺。

左/山門へ続く長い参道。右/山門。

 かつて空海が居住した住房、納涼房(どうりょうぼう)を再建したという大師堂は、広々とした境内の奥まった場所に建っている。

 近くには、昭和初期まで金堂だったという毘沙門堂や、五大明王像が安置されている五大堂、

五大堂。再建前の建物は、天長年間(824〜834)に淳和天皇の勅願で建てられたと伝わる。

 さらに石段を登った先には、ご本尊の薬師如来立像を祀る金堂と、立派なお堂が並んでいる。

金堂。

 その中で大師堂は、空海の人となりを表すように、周囲の自然に溶け込むようにひっそりとあった。

 空海はここで、「納涼坊に雲雷を望む」という短い詩を書いている。

「雲蒸して 壑(たに)浅きに似たり
 雷渡りて 空地の如し
 颯颯(さつさつ)として 風房に満ち
 祁祁(きき)として 雨䬆(あらし)を伴う」

               『性霊集』巻第一より

 つまり、
「谷間から雲が湧き上がり、深い渓谷を覆っている。
 空には雷が鳴り渡り、平地であるかのようである。
 風は音を立てながら、庵に舞い込んでくる。
 雨は勢いよく、暴風とともに降り注ぐ」と。

境内からの眺め。

 空海が居住した当時、この寺は高雄山寺と呼ばれていた。
 寺の背後にそびえる高雄山は、古来霊山と崇められてきた愛宕山に連なる山。奈良時代の末期、愛宕山の5つの峰には、中国の五台山になぞらえて5つの寺が創建され、愛宕五坊と呼ばれるようになった。現在は、神護寺と月輪寺(がちりんじ)の2つの寺のみが残っている。

「そもそも愛宕山は、奈良時代に泰澄大師が開いたと言われています。古くからこの山を中心とする山岳信仰があり、月輪寺の近くには修行をする滝があるなど、山林修行の道場だったようです」

神護寺周辺の風景。

 そう話すのは、神護寺ご住職の谷内弘照さん。

 これまで訪れた空海ゆかりの地のほとんどで、古くから山林修行が行われていたように、この地もまた、空海が居住する以前も、そして以後も、山林修行の場だったのである。

神護寺周辺の風景。

 長い改修工事を経て、34年ぶりに葺き替えられたというこけら葺きの屋根の軒下を通り、僧侶たちが大師堂内へ入っていく。

 今日は大師堂、秋の特別開帳の初日。一般参詣に先駆けて法要が行われる。

 簡素ながら品格ある美しさを保ち続けるお堂と、声明(しょうみょう)やお経を唱える僧侶たちの、凜とした声やたたずまい。

 長い年月、空海を慕い、集った多くの人々の祈りが積み重なり、受け継がれた先に、今、目の前の光景が存在する。改めて、月日の重みを感じた。

 高雄山寺を創建したのは、桓武天皇時代の高官、和気清麻呂(わけのきよまろ)。平安京の造営で最高責任者を務めたというこの清麻呂は、平安京遷都に先駆けてこの地に寺を開基し、遷都まもない延暦18年(799)に他界した。現在は境内を見下ろす高台の墓所で、この寺の行く末を見守っている。

境内にある和気清麻呂公の霊廟。昭和の復興の際に、清麻呂の霊を祀るため建立されたという。

「清麻呂公がこの地を開いて修行の道場としたのは、方位的なこともあったのかと思います。高雄山のある方角は、平安京から見て西北。つまり乾(いぬい)の方角で、祈るのに一番良い方位だと言われています。ですからこの地に修行道場を置いておけば、そこから優秀な人材が生まれるだろうと、清麻呂公はお考えになったのではないかと思います。事実、清麻呂公亡き後は、ご子息が最澄さんや空海さんを連れてこられ、以後お2人とも活躍されました。偶然かもしれませんが、やはり立地も関係しているのではないでしょうか」

谷間を漂っていた霧が、一瞬鳳凰のような形状になった。

 谷内さんは、空海や最澄がこの寺で過ごした日々を、それぞれの人生において「一番輝いていた時代」と表現する。

 たしかにこの寺は、後年仏教界を牽引する2人が世に出るきっかけを作った、人生の岐路となった場所。当時の2人には、おそらく潑剌としたエネルギーが心身に満ちあふれていたことだろう。

 最初にこの寺を訪れたのは、最澄だった。

境内から山門を望む。

 空海より7歳年上の最澄は、延暦4年(785)、20歳で国家公認の僧侶となり、自身の出身地、滋賀県大津市坂本の近くで、京都の北東に位置する比叡山を拠点とし、活動を始めた。ほどなく仏教界の若きリーダーとなった最澄は、延暦21年(802)に和気清麻呂の長男、広世の招きを受け、ここ高雄山寺で、当時の仏教界を代表する高僧たちを前に、天台教学の根本典籍について講義を行ったという。最澄が、同じ時期に唐へ渡った空海と違って還学生(げんがくしょう=国費で通訳を伴って留学し、1年で帰国できる資格)として入唐できたのは、この講義の成功が桓武天皇の知るところとなったからだった。

 最澄の入唐の目的は、天台大師智顗(ちぎ)につらなる天台教学を究めること。入唐後は本場の天台山に上って教えや経典を授かり、禅も受法。さらに、当時唐で隆盛していた密教についても、帰国前の1ヶ月あまりを費やして、順暁(じゅんぎょう)という阿闍梨(あじゃり)から、大日経系の密教を伝授されている。1年という短い期間ながら、寸暇を惜しんで、学べるものはすべて学んだのだろう。

 延暦24年(805)の帰国後は、桓武天皇の意向により、高雄山寺で南都の僧侶たちに灌頂、つまり密教の正当な資格を授けたことを証明する儀式を執り行っている。つまり空海が帰国する1年前に、日本の仏教界では、最澄によって密教への注目度が高まっていたのである。さらに翌年には、天台宗の開宗が朝廷から正式に認可された。まさに輝くばかりの活躍ぶりである。

 では、最澄は、当時どこに止住していたのだろう。

「北院という住房の名称はわかっていますが、それが境内のどこに建っていたかまではわかっていません。ただ、北の方角には和気清麻呂公の墓所があり、そのあたりは東側が開けていて、月がよく見えるいい場所なんです。昔は住房が複数建っていただろうと思われる、石組みの段もいくつかあります」

北院があったと考えられる北の方角から境内を望む。はるか向こうに京都盆地が見える。

 もっとも、谷間を流れる清滝川沿いの窟(いわや)に止住したとする説もあるという。
 思えば最澄も、比叡山で長年山林修行を行っている。この寺でも窟に籠るのは、ある意味自然なことのように思われる。

清滝川とその周辺の岩壁。

 空海もまた、この寺に居住してから表舞台での活躍が始まる。前回紹介した通り、嵯峨天皇の信頼を得て、国家鎮護を祈る密教の修法、後七日御修法(ごしちにちみしほ)を始めたのも、ここ高雄山寺でのことだった。

大師堂のご本尊、板彫弘法大師像。高知県の金剛頂寺の空海像を模刻したという。若き日の空海が偲ばれる。

「嵯峨天皇から信頼を得たことは大きかったと思います。それによって東寺や高野山を賜りましたし、資金面でも東寺は国費、高野山は貴族が支援してくれたと思われます。そうじゃないと、高野山のように山深い中にお寺を作るなんて、費用がかかってできませんから。やはり都で活躍していたからこそ、実現できたことだったのでしょう」

 では、御修法は当時どこで行われていたのだろう。

「本格的に伽藍の整備をされたのは、お大師さんの弟子の真済さんの時代です。お大師さんも、境内に根本真言堂というお堂を建てる計画をしていたようですが、居住した当時に建っていたかはわかっていません。ただ、両側に曼荼羅を掛け、壇が2つあり、護摩を焚くことができる講堂のような建物は、当時も建っていたのではないかと思います」

多宝塔。当初の宝塔院は、承和12年(845)に真済によって完成。現在の建物は昭和時代に再建された。

 一方、空海は鎮守となる神々も境内に祀っている。
 神護寺から車で十数分の平岡八幡宮は、もとは高雄山寺の境内地。

平岡八幡宮の本殿。

 一角には、八幡宮の創建当初から鎮座されているという、水や雨など自然の恵みを司る罔象女神(みずはのめのかみ)を祀る小さなお社も。

 さらに、清滝川の近くには、空海の師である恵果阿闍梨が居住していた唐の青龍寺の鎮守であり、密教の守護神でもある青龍権現(善女龍王)を空海が勧請し、高雄山寺の鎮守として祀ったと伝わる清龍宮(せいりゅうぐう)もある。

左/清滝川。右/清瀧宮。

 最澄との交流も、高雄山寺で始まった。
 実は最澄は、空海が唐から帰国した直後、朝廷に献上した「御請来目録」を目にし、未見の経典が多いことに注目。空海が入京してまもなく、密教経典の借覧を申し出ている。唐で大日経系の密教を伝授され、日本天台宗を確立するにあたっても、天台宗の修行法である止観業(しかんごう)と、密教の修行法である遮那業(しゃなごう)を融合させた総合仏教を目指していた最澄にとって、空海は密教の師として欠かせない存在と考えていたのである。
 最澄は空海に教えを乞い、ここ高雄山寺で、弘仁3年(812)11月にまず金剛界の結縁灌頂を、翌月の12月には胎蔵界の結縁灌頂を、空海によって授けられた。

灌頂の浄水のため、空海自らが掘ったと伝わる井戸。仏教では、仏様にお供えする水のことを閼伽(あか)と呼び、大切にしているという。

 そして空海は、このできごとがきっかけでにわかに注目を浴びるようになり、以後最澄とともに、平安時代の仏教界を担う双璧になっていくのである。

高雄山寺で行われた結縁灌頂の空海真筆の控え。 筆頭に最澄の名が記されている。

 法要は続いている。ろうそくの灯りと、僧侶たちの『理趣経(りしゅきょう)』を読誦(どくじゅ)する声が、心を時間という縛りから解き放っていく。

『理趣経』は、『大日経』と『金剛頂経』という密教の根本経典と並んで重要な経典。最澄と空海、2人の関係は、この経典をきっかけに微妙な溝ができ、やがて交流が途絶えることになる。
 それについては、次回ご紹介することにしよう。

堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。

堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。

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