山崎佳代子『ダダと詩人たち』

第1章 萩原恭次郎『死刑宣告』を読む②

連載|2023.9.29

宣言文、あるいはプログラム・テキスト

 『死刑宣告』をアバンギャルドの詩集とするものは、宣言文、あるいはマニフェストとも言うべきプログラム・テキストである。理論的な要素と芸術的な要素が混ざり合ったテキストで、ヨーロッパ・アバンギャルド文学の一つのジャンルを形成している。巻頭に掲げられた恭次郎自身による「序」と「詩集例言」、巻末の岡田龍夫の文章は、それぞれ自由な形式で詩集のコンセプションを表現する宣言文だと言える。アバンギャルド運動の母体となったリトルマガジンも、必ず宣言文を掲げていた。詩集の中に組み込まれていることも少なくない。
  「序」には、『死刑宣告』の詩精神と詩形式が過激な文章で記される。その詩精神は、権威やアカデミズムに対する反抗、本能の解放、古代への回帰、自由の探求、意識的破壊運動、感傷の否定、デカダンや道徳の否定などが謳われ、ヨーロッパ・アバンギャルドの波動が伝わってくる (萩原 1925: 7)。

「思ふ儘である、感じたまゝである。ただ走り出す、動き出す熱量である。力量である。一切の最大目的を達せんとする無目的である。」

 文章は単文形式の断定文、命令文、または名詞文が多用され、メタファを用いた比喩が随所にみられ、理性による論理展開ではなく、直感的に文章が展開する(萩原1925: 9)。文章そのものが、アバンギャルド詩の香りを放つ。

「自由!自由!あらゆる奴隷よ去れ!」

 恭次郎は文体について提言し、一つのセンテンスが次の行に跨ぐことを禁じ、一つのセンテンスを一行に収めることを主張する(萩原1925: 5)。

「詩句を、一行を、散文の如く重荷を背にして疲れしむ勿れ!
 次行まで叮嚀に運搬せしむ役を放棄せしめよ!各行各自に独立せしめよ!」

 跨ぎを禁じることで抒情的な旋律は否定され、アバンギャルドに特徴的な激しいリズムが生まれる。これはドイツ表現主義の文体とも共通し、セルビアのツルニャンスキーたちも実践した「魂の速記」と呼ばれる文体と似通っている。
 「詩集例言」には、詩集の章立て、制作の過程、協力者に対する謝辞などが記されているほか、生活と芸術の関係が問われ、詩集の作品のキーワードとなる飢餓、無名、孤独、闘争、憤怒、疲労などが記されて、アバンギャルドの詩学を示す。巻末の岡田龍夫のテキストは、ヨーロッパの立体派、未来派、構成派の動向をふまえ、前衛美術家の視点から恭次郎の詩が語られる。岡田は前述の『燕の書』に「二十枚近くのリノをほふり込んで置いた」と述べ、恭次郎兄の詩集のためにMAVOの関係者の有志十四五名が岡田とともにリノカットを制作したと記し、『死刑宣告』がMAVOという前衛芸術集団との共同作業であったことがわかる(萩原1925: 2)。
 『死刑宣告』に収められた3つのテキストは、恭次郎の詩学を解き明かす鍵であり、本文の詩群を説明する機能を担う。だが宣言文そのものが、過激な文体で書かれ、散文形式のアバンギャルド詩だとも言えるだろう。『死刑宣告』は、ヨーロッパ・アバンギャルドが生んだ新しいジャンル、宣言文という装置をつけた詩集である。未来派詩人の平戸廉吉は宣言文をビラとして撒いたものの若くして死に、死後に刊行された詩集には宣言文は付されていない。高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉』にも宣言文はない。『死刑宣告』は、宣言文を付した稀有なる日本前衛詩集だった。

『死刑宣告』の詩学、私たちの今

 恭次郎の詩集は、詩作品そのものも過激である。恭次郎の描き出す都市は、巨大で暴力的な経済機構の装置であり、群衆を動かすと同時に、個人を孤立させる。恭次郎は、日本古来の詩歌のセンチメントを断ち、主題からは自然と人間の絆、男女の繊細な恋愛感情を消去した。朔太郎の『月に吠える』では残されていた「さびし」、「かなし」の形容詞は、従来の意味を失う。桜にかわって、西欧的な薔薇の花が登場するが、冷めた男女関係の中で描かれる切り花である。伝統的な抒情が否定され、皮肉やグロテスクの美学が立ち上がる。『死刑宣告』を貫くものは、アバンギャルドの非感傷の美学なのだ。
 ここでは人の魂、内なる世界を丁寧に洞察してきた日本の詩的言語は断たれ、「都市」の深層心理が暴かれていく。近代化が取り込んだ様々な生活用語がなだれ込む。軍隊用語、経済用語、都市の風俗にかかわる言葉が、詩集にちりばめられる。それはとりもなおさず、アバンギャルド詩が求めたこと、現実そのもの、生活そのものへ近づくことを意味していた。そしてその現実は、不正義と猥雑と矛盾に満ちていた。
 萩原恭次郎の『死刑宣告』は、都市の詩集だ。だが都市は、喜びや安堵、生命力に満ちた場所ではない。彼が描く都市とは、群衆、飢餓、戦争、犯罪、性欲、憎悪、闘争、怒り、苛立ちのあふれる混沌である。ここでは、社会と個人と自然が調和を失っている。恭次郎の故郷の広々とした野原や畑など開かれた空間のかわりに、病院、工場、高層ビル、エレベーター、屋根裏部屋、地下室など閉鎖された都市の空間が登場し、すべては巨大な墓地のイメージでおおわれて、表現主義の詩学と重なり合っている。
 人間の身体は暴力によって解体され、しばしば臓器、身体の部分として描かれる。胃、腸、肺、へそ、胎、乳房、眼球、眼孔、そして心臓。心臓は黄色く、病んでいる。身体の部分は切断され、摘出され、義足、ブリキの心臓、義眼が取り付けられる。「首の無い男」が繰り返し現れ、人形が登場する。縊死が描かれ、空と地の間で死体が揺れている。
 人間を傷つけ脅かすものは、産業のシステム、あるは単純に言えば金銭である。「金貨の踊り」では、群衆は金に踊らされ、毒と瓦斯に縁どられている。警報機が危険を告げる。群衆は、殺されるために太らされる豚や食用蛙、あるいは狂暴な狼の群れに喩えられる。『死刑宣告』は、病理と闘争と狂気の時代を予告し、人間が機械にされるプロセスを冷酷に描き出していく。ここに「食用蛙」の最終部を記しておく(萩原1925: 144)。

男と金貨! 百万燭光………墓地の底まで絶叫する愛!
「娘よ」「私の身体は器械です! おつ母さん!」
泣け! 叫べ!
金貨! 卑怯者を讃美する戦争よ!
人間の屠殺だ!
レケロ レケロ
私達は食用蛙です!

 『死刑宣告』には、どんなアバンギャルド詩の手法が用いられているのだろう。次回は、詩集から数編の詩をとりあげ、恭次郎の詩の工房を訪ねてみたい。

注 文中の引用は、以下の書物による。旧漢字を新字に改めた。
萩原恭次郎『死刑宣告』長隆舍 東京1925年
(名著復刻詩歌文学館 石楠花セット 日本近代文学館 東京 1981年)
千葉宣一 『現代文学の比較文学的研究』 八木書店 東京 1978年
なおセルビア語の自著を参照している。
Japanska avangardna poezija: u poređenju sa srpskom, Filip Višnjić, Beograd, 2004.

山崎佳代子 (やまさき・かよこ)
詩人、翻訳家。1956年生まれ、静岡市に育つ。北海道大学文学部露文科卒業。サラエボ大学文学部、リュブリャナ民謡研究所留学を経て、1981年よりセルビア共和国ベオグラード市在住。ベオグラード大学文学部にて博士号取得(比較文学)。著書に『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』(左右社)、『パンと野いちご』(勁草書房)、『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『戦争と子ども』(西田書店)、『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(ちくま文庫)など、詩集に『黙然をりて』『みをはやみ』(書肆山田)、『海にいったらいい』(思潮社)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』『死者の百科事典』(創元ライブラリ)など。 

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