石鎚山を遥拝
空海の足跡を辿る四国の旅も、終わりに近づいてきている。
瀬戸内の穏やかな海が印象的な愛媛県は、一方で、西日本最高峰の霊山、石鎚山なくしては語れない地。
若き空海も、古くから山岳修行の行場だったこの山で修行したことが、自身の著書『三教指帰』に記されている。
「或るときは石峯(せきほう)に跨り、以て糧を絶って輱軻(かんか)たり」。
つまり、石鎚山に登って修行し、食糧がなくて大変苦労をしたと。
もっとも、この山は本来、神宿る聖地。古来人々に篤く信仰されてきた歴史がある。平安時代初期に書かれた『日本霊異記』にも、浄行人、つまり清浄な行いをする者のみ、この山に登ることが許されていたと書かれている。多くの人々にとっては、長らく遥拝しかできなかった山だったのだ。
四国八十八ヶ所霊場にも、石鎚山を遥拝できる場所がある。
たとえば、第六十番札所の横峰寺(よこみねじ)、奥の院の星ヶ森。全札所中2番目に高い、標高約750mの地点に建つ横峰寺から、さらに10分ほど坂を上ってようやく辿り着く星ヶ森は、石鎚山を開いたとされる役小角(えんのおづぬ)が山を遥拝した際、金剛蔵王権現を感得したと伝わる聖地。昔のお遍路さんは、必ずこの地を訪れて、お札を納めて読経し、山を遥拝したという。
かつて「遍路ころがし」と呼ばれた道は、現在車で行けるように整備されている。だが、今回は標高約300mの湯浪休憩所から歩くことに。渓谷沿いの林道を1時間ほどかけて登った。
遍路の難所で思うことは、いつも同じ。先を見ると気が遠くなる。だから、目の前の1歩に集中。それをひたすら続けていれば、いつかは目的の場所に辿り着く。考えれば当たり前のことを、身体が少しずつ納得していくのが、遍路の醍醐味の一つかもしれない。
道中の支えは、森に響き渡る沢の音。
清らかな流れと淡々とした水音が、心の垢を洗い流し、まっさらな気持ちにさせてくれる。
一方石仏は、遍路道における句読点のような存在。出会うたび足を止め、手を合わせることで、息や心が整って、次の一歩への気力を湧かせる。
やがて、ようやく星ヶ森へ。
眼前に迫る山に、しばし見とれた。
「金(かね)の鳥居」と呼ばれる鉄製の鳥居は、1742(寛保2)年の建立。通常の鳥居よりはるかに小さい。
もっとも、鳥居から少し離れたところに護摩壇があり、壇の前に座ると、山頂付近が鳥居の中にすっぽり収まる高さになっている。おそらく、今も昔も護摩焚きをする行者は、座った姿勢で鳥居越しに石鎚山を拝み、聖火を山に捧げてきたのだろう。
雲が消え、山が全容を現した。光線の加減なのか、山肌が青みを帯びているように見える。
ふと、奈良の吉野にある金峯山寺のご本尊、三体の金剛蔵王権現像を思い出した。以前ご開帳の際、巨大なお身体全部が真っ青だったことに驚いた記憶があるが、あの肌色は、実は山の色を忠実に表現しているだけなのかもしれない。青く光る山を見ながらそう思った。
一角には、弘法大師の坐像もある。
実は四国八十八ヶ所霊場は、815 (弘仁6)年、空海が42歳のときに開創したという伝承がある。この地も、その際空海が星供(ほしく)の秘法を修法したと伝えられ、星ヶ森の名もその故事に由来するという。
星供とは、北斗七星をはじめ、九曜星や十二宮、二十八宿などの天体の神々を祀る密教の修法で、人の運命を定める星を供養することで、よりよい運気が得られると考えられている。
第四十五番札所の岩屋寺(いわやじ)も、815(弘仁6)年、空海によって開創されたと伝わる古刹。
標高約700m。深山幽谷の地に建つこの寺は、古くから山林修行の行場とされ、鎌倉時代には一遍上人もこの地で修行したことが、『一遍聖絵』にも描かれている。
風格ある山門をくぐり、
急勾配の参道を歩くと、まず迎えてくれるのが、修行大師像と不動明王像。
参道の脇には、数多くの石仏も。
それら一つひとつに、深い祈りが込められているのだろう。
寺伝によれば、空海はこの地で木造と石造の不動明王の像を刻み、木像を本堂に、石像は岩窟に秘仏として封じ込めたという。つまり、山全体をご本尊としたのだ。
本堂も、巨大な岩峰と一体となるように建てられている。
天を突くようにそそり立つこの岩峰は、金剛界峰と呼ばれ、諸堂が建つ境内を挟むように、胎蔵界峰も対峙して立っている。岩の絶壁には、かつて行者たちが籠ったであろう窟(いわや)も点在。
その一つ、本堂の横にある窟は、法華仙人堂跡と呼ばれている。法華仙人は空海が訪れる以前、この地に籠り、修行していたとされる山の主で、空海はこの仙人から全山を献上されたという。
おそるおそる梯子を登り、窟の中へ。振り返ると、山深くにいる実感が込み上げてきた。
穴禅定と呼ばれる洞窟も、古くからの行場。
禅定とは、心静かに瞑想すること。深さ十数mという窟の中を進むと、
不動明王などの仏像が祀られていた。
ひんやりとした窟の中に身を置いていると、不思議と心が落ち着いてくる。
山林修行で窟に籠るのは、人為の及ばない自然そのものの空間に身を置くため。同様に、木食草衣(もくじきそうい)、つまり人間が栽培した穀物ではなく、木の実や山草を食べ、自然素材の衣を着るのも、人の手が加わることで生じる穢(けが)れを取り去って、自然と一体となり、身を清浄にするためだという。人によっては、人間の精神を弱体化させる文明への反発、告発のため、縄文以前の原始生活を再現していたのだと捉える説もある。
奥の院にも行ってみた。
途中、道の脇に祀られている三十六童子の石仏に、お札を納めながら進んでいく。
童子とは、仏や菩薩、明王などの眷属(けんぞく)、つまり従者のこと。三十六童子は、いつも不動明王の身近にいて、さまざまな役割を担っているという。いわば「お不動さんの小間使いです」とご住職。目には見えないが、子どもの姿でパワフルに動くというこの童子たちが、そこここにいらっしゃるということだ。
周囲の自然も力強い。細い山道に迫り出す巨岩には、岩壁に食い込むように張り巡らされた大木の根も。草も木も石も土も、種の境を超えて渾然一体となっている。
大きな窟の奥には、五輪塔もあった。
この地で亡くなった行者たちを弔っているのだろうか。
山林修行で決死の苦行をするのは、罪穢(つみけがれ)の思想も関係しているという。すべての人間社会の不幸や災禍は、人々が無意識のうちに犯した罪や穢れの報い。だから、不幸や災禍を逃れるためには、身体的苦痛で贖(あがな)わなければならないと考えられていたというのだ。
一方で、苦行をして人間の持つ穢れをすべて取り去ることで、神が乗り移り、験力が得られるとも信じられていた。
やがて、小1時間が過ぎた頃、ひときわ目を引く巨岩が現れた。逼割(せりわり)禅定と呼ばれる行場である。
事前に納経所で渡された鍵で門を開け、いざ行場へ。
金剛杖と菅笠は入り口に置き、身一つで、細く暗い岩の間を登っていく。
ときに足が滑りそうになりながらも、鎖を頼りに光の方へ。
最後は梯子を登り、上を目指した。
そしてようやく山頂へ。
胸のすくような景色を見た瞬間、張り詰めていた何かがふっとほどけた。
考えれば、三十六童子をお参りしているときから山頂まで、ただひたすら目の前のことだけに集中していたことに、そのときはじめて気がついた。
何に対してかわからない感謝の気持ちが、ふいに湧き起こり、思わず山に向かって手を合わせた。祈りという行為は、本来理屈がないものなのだろう。
山頂には白山権現を祀る祠もあった。
白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神、白山権現は、本地垂迹説によれば、本当のお姿は十一面観世音菩薩だと考えられている。だが、なぜこの地に白山権現が祀られているのか?その問いに、「第四十四番札所の大寶寺(だいほうじ)のご本尊が、十一面観世音菩薩だからでしょう」とご住職。実は岩屋寺と大寶寺は、もともと一つの大きな寺で、「大寶寺は学問をする場所、岩屋寺は身体を使って行をする修行の場と、それぞれ役割が分けられていた」と言う。
息を整え、改めて山々を見渡した。どこかに石鎚山も見えているはずだ。次回はいよいよ登拝する。どんな旅が待っているか、楽しみだ。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。