#6 かつて虚空蔵求聞持法を修法した場所へ
大木が林立する参道を進むと、仁王門が現れた。
山寺独特の清澄な気。朝霧に霞む本堂や大師堂。
四国八十八ヶ所霊場第二十一番札所の太龍寺(たいりゅうじ)は、霊場と呼ぶにふさわしい神秘的な空気に包まれていた。
標高約600m。太龍寺山山頂近くにあるこの寺は、若き空海が修行した地。現在も、時間によって、また季節によってさまざまな表情を見せる、心洗われる空間である。
入唐前の空海に関して、わかっている歴史的事実は数少ない。四国でも、実際に空海がどのルートを歩いたかは定かではないが、先人たちが歩いた初期の辺路(へじ)を空海も辿ったとすると、徳島県では次のようなルートが考えられるという。つまり、第十一番札所の藤井寺から山中に入って、第十二番札所焼山寺(しょうさんじ)の奥の院のある山頂に至り、そこから第二十番札所の鶴林寺(かくりんじ)奥の院の慈眼寺(じげんじ)、そして鶴林寺、太龍寺を経て、日和佐(ひわさ)浦に出るというルートで、一説では、最初の藤井寺の前に、高越山(こうつさん)でも修行した可能性が高いとされている。
もっとも、現在太龍寺があるこの地で空海が修行したのは、推論や伝承ではなく、歴史的事実。空海自身が、初の著作『三教指帰(さんごうしいき)』の中で、「阿国(あこく)大滝(だいりょう)の嶽に躋(のぼ)り攀(よ)じ」、つまり、阿波徳島の大龍嶽によじ登り、修行したと記しているのだ。
「ここは土壌的に大きな木が育ちやすく、太龍寺ゴマガイや、阿波マイマイという体長6cmほどもあるカタツムリが生息していたり、多くの渡り鳥が羽を休めるなど、宝の山のようなところです。
加えて、たとえば高野山や比叡山は、寺院が山々に囲まれていますが、ここは太龍寺山という独立したお山で、しかもそのお山が、西から東にかけて流れる那賀川とその支流によって、ぐるりと水に囲まれているんです。仏教でいう八功徳水(はっくどくすい)のような、ありがたいお水の中に宝山が浮かんでいる、そんなイメージでしょうか。それに水銀や水晶、大理石、石灰、火打ち石などの鉱物資源も豊富なんです」。そう話すのは、副住職の島村泰史さん。
特に太龍寺山の北麓近くには、水銀の原料となる辰砂(しんしゃ)という鉱物を採掘していた遺跡があるという。弥生時代後期から古墳時代前期(1世紀半ばから4世紀初め)にかけての、この辰砂採掘の遺跡は、この時代としては全国でこの場所だけ。しかも太龍寺のある那賀町一帯は、かつて「にうだに(仁宇谷、もしくは丹生谷)」と呼ばれていたという。古来「丹」は辰砂、つまり水銀を指す。このことから、太龍寺周辺が水銀を産出する地だったことが地名でもわかるのだ。
空海ゆかりの山には、高野山をはじめ、水銀などの鉱物が採れるところが多い。研究者の中には、空海が山林修行をする一方で、錬金術の素材となる鉱物を探し求めていたのではないかと考える人もいる。特に水銀は、古代の日本では、位の高い人物の墓に塗るなど、主に埋葬の儀礼に用いられ、奈良時代は、東大寺の大仏など、仏像に金メッキを施す際に使われていた。空海は、そんな水銀に関する情報を、当時鉱物資源の採掘に関わっていた丹生一族との交流から得ていたのではないか、という説もあるほどだ。
とはいえ、青年空海がこの地を訪れたのは、密教の秘法である虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修法するため。
「求聞持法を修法するには、たとえば東南の方角が開けていて、多少お水があり、どんぐりや椎の実といった食べものがあるなど、いろいろな条件があるのです。ですから求聞持法を行うにあたり、適した場所はないか、弘法大師さんが丹生一族から情報を得た可能性はあると思います。先ほどお話しした、太龍寺山が水に囲まれていることなどは、彼らのような鉱山師や山師にしか、当時はわからないと思いますから」
かつて空海が求聞持法を修法したと伝わる岩山の近くには、現在舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)と呼ばれる巨岩がある。本堂からは、急坂を登って20分ほど。途中には、四国八十八ヶ所霊場の各札所のご本尊が、距離を開けて順番通りに配置され、参拝者を見守っている。早朝の光の中にひっそりと佇む、大日如来や虚空蔵菩薩……。その清らかな姿に、思わず手を合わせた。
「虚空蔵菩薩は、地蔵菩薩と対の菩薩さんです。地蔵菩薩さんは大地の蔵からいろいろなものを出してくれますが、虚空蔵菩薩さんは、大空の蔵から、願うものをなんでも限りなく出してくれるということになっています」と島村さん。
加えて、この菩薩は広い宇宙のような、無限の智慧と慈悲を持つとされている。求聞持法は、そんな虚空蔵菩薩をご本尊とし、その真言を一日一万遍、百日間かけて百万遍唱えることによって、この菩薩の持つ智慧を獲得し、それによりあらゆる経典を暗記でき、内容も理解できるようになるという行法なのだ。
そもそも求聞持法は、718年(養老2)に大安寺の僧、道慈(どうじ)が唐から持ち帰った行法で、当時多くの山林修行者が修法していたという。
インドで4、5世紀に形成され始めた密教は、中国を経て日本に伝わり、奈良時代には、すでにかなりの密教経典が遣唐使によって持ち帰られ、それに基づく実修も行われていたと言われている。もっとも、この時期の密教は、のちに空海が唐から持ち帰った密教とは異なり、現世利益中心で呪術性が強く、初期密教や古密教、さらに真言密教では雑密(ぞうみつ)と呼ばれている。
「求聞持法の功徳は、滅罪生善(めつざいしょうぜん=現世の罪を滅して後世の善を生ずること)なども一応ありますが、やはり一番は、記憶力の増進です。昔は紙や筆、墨は貴重で、辞書もなく、経典も簡単に見られない状況だったでしょうから、お経を覚えることは、僧侶たちの切実な願いだったと思います。ですから、求聞持法という当時の最先端の修行法にみんなが飛びついたのでしょう。ちなみにこの行法は最澄さんもされていますし、日蓮さん、栄西さんもされています。有名なのは、根来寺(ねごろじ)を開いた真言宗の中興の祖、覚鑁上人(かくばんしょうにん)で、生涯に9度修法したそうです。効果があった人は、たくさんいたということでしょう」
仏教の経典は「八万四千(はちまんしせん)の法門」と言われ、その数は無数にあると言われている。暗記力、記憶力に優れた青年空海も、途方に暮れたことだろう。
「今も修法する人はいます。真言宗の僧侶の資格を持っていることが前提ですが、フランス、台湾、中国など、外国の方もされていますし、女性もいます。でも、今は百日間ではなく、五十日間で百万遍唱えます。百日だと長すぎて、余計なことを考えてしまうんです」
行中は、境内にある求聞持堂で真言を唱え、誰にも会わないようにして過ごすという。
少しずつ霧が晴れてきた。坂はさらに急になり、息も徐々に上がってくる。やがて、眼前に胸のすくような風景が現れた。はるか彼方には太平洋も見えている。
「つながっている」。
ふと思った。
この空は、この風は、かつてこの地で修行をした青年真魚とつながっている、と。
求聞持法への興味は尽きない。
次回は、過去に求聞持法を実際に修法した島村さんの話を交えながら、当時の青年真魚の修行の日々を探っていく。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。