#4 空海の教えを守り伝える、その実践の日々をうかがう
五色の幕が、春の風にはためいている。
お参りする人が鳴らす鐘の音、お遍路さんが唱えるお経の声。
善通寺の境内は、早朝の静寂から一変、華やいだ空気に包まれている。
2023年4月23日、空海の「御誕生1250年記念祭」が善通寺で始まった。御影堂での開白法会(かいびゃくほうえ=本尊の前で法会の趣旨を述べる集まり)で幕を開けたこの記念祭は、空海の誕生日とされる6月15日まで、54日間にわたり行われ、高野山金剛峯寺や京都の東寺(教王護国寺)、奈良の東大寺など、さまざまな寺院が日替わりで真言宗の宗祖、弘法大師空海のご誕生を祝う法会を営むという。
前回の記念祭が行われたのは、50年前。
「御誕生1200年にあたる昭和48年は、5月の連休を挟んで16日間、1日2回法会が行われました。昭和30年代半ば頃から巡拝バスが増えてきて、記念祭でも境内やお堂は人でいっぱいで、毎日が初詣のようでした」
そう話すのは、善通寺の法主、菅智潤(すがちじゅん)さん。菅さんは50年前も、善通寺の僧侶として記念祭に立ち会っている。
「私が生まれ育ったのは、善通寺から10kmほどの第71番札所、弥谷寺(いやだにじ)から少し海辺寄りのお寺です。京都の種智院大学を卒業後、自坊に戻っていましたが、ほどなく御誕生1200年の記念祭があるので、手伝いに来てくれと言われまして」
種智院大学は、真言宗の僧侶養成大学。かつて空海が、庶民教育を総合的に行うために設立した私立大学、綜芸種智院の精神を引き継ぐという意味を込め、付けられた名前という。
現在菅さんは、朝の勤行で毎日法話を行っている。
「朝5時前に開門したら、どんどんお参りにいらっしゃいます。毎日必ずお参りされる熱心な人もいますし、毎月1回、日を決めて、近所の人と何人かで連れ立ってお参りされる人も多いです」
話をうかがって、今朝見かけた女性を思い出した。
熱心に祈りを捧げ、「おはようございます」と、見ず知らずの自分とも挨拶を交わした高齢の女性は、「家族みんなが健康で暮らせることへの、お礼参りです」と慎ましく話した。
「この地域では、『善通寺に行く』ではなく、『お大師さんに行く』と言うんです。災害が少ないのも『お大師さんのおかげや』と、いまだに言っています」
瀬戸内式気候に属する香川県は降水量が少なく、大河もないことから、灌漑のために溜め池が大きな役割を担ってきた。空海も48歳のとき、堤防が決壊していた満濃池の改修を朝廷から任され、3カ月で完成させたといわれている。そんな伝承が、地域の中で脈々と語り継がれているのだろう。
空海が幼少期を過ごしたこの地には、いろいろな特徴がある。たとえば山が、境内に迫るように聳えているのも、その一つ。
「伽藍から五岳山(ごがくさん)を見ていただくと、本当にこんもりとして、お寺の一部のように思えます。ある庭園の専門家も、まさに借景だとおっしゃっていました。お大師さんも当然登られたでしょうし、山には山林修行者もいたでしょう」。
空海がのちに山林修行を行う素地は、この地で育まれたのだろう。
「私もお大師さんの原点は、山林修行だと思います。四国は奈良時代、すでに山林修行と海洋宗教の辺路(へじ)修行が行われていて、都から修行に来る人もいるような聖地でした。
辺路修行では、洞窟に籠る窟(いわお)籠りや木喰(もくじき=木の実や果実のみを食べること)をし、草衣(そうえ=質素な衣)で行道(お経を読みながら巡り歩くこと)をしていました。お大師さんも太龍嶽や室戸岬、石鎚山で修行をし、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)で真言を100万遍唱えたと『三教指帰(さんごうしいき)』に書かれています。そんな修行形態に倣ってお大師さんが修行され、その地がのちに山林修行者の修行の地となり、それが繰り返されて、四国八十八か所霊場が整えられていったのでしょう」
一方、善通寺の東院には、地域の鎮守神を祀る社殿もある。空海は寺院を建てる際、土地の神様を大切にしたという。
「もともとお宮さん、お寺さんの区別はなく、神仏習合でしたから。それが明治維新の神仏分離で、ややこしくなってしまいました。特にお大師さんは山林修行をしていましたから、木の神様などを非常に大事にされていました。曼荼羅(まんだら)も、仏教だけでなく、外道(げどう)の仏様もいろいろ祀られた集合体になっています。差別がないんです」
加えて、この地は海と山、そして平らな土地が揃う場所でもある。
「古くから農耕に適した土地だったのでしょう。現在駐車場と境内の間を流れる弘田川は、4000〜5000年の歴史があり、この川をつたって東アジアと交易し、この地域は発展してきました。近隣にある古墳からは、中国や朝鮮など渡来の遺物も発掘され、交流があったことがわかっています」。
さらに、都からの船も行き来していたという。
「都で伊予親王(いよしんのう=桓武天皇の皇子)の侍講(個人教師)をしていた叔父の阿刀大足(あとのおおたり)からの情報も、どんどん入ってきていたでしょう。ですからお大師さんは、この地で中央や大陸からの情報にいろいろ触れていただろうと思います。
お大師さんに関しては、19歳頃に大学を辞められてから、入唐する30歳までのことはよくわかっていません。しかしその間に密教の経典を見つけ、日本ではわからないから、とにかく唐へ行くんだというお気持ちを持っておられたのだと思います。そのために資金をお願いし、中国語を勉強するなど、10年かけて準備されたのでしょう。佐伯家は、難波方面とも交易するなど、水運に携わってかなり資産を持っていました。阿刀大足の人脈もあったでしょう。そうでないと、お大師さんは入唐できなかったと思います」
ちなみに、空海の父親の家系、佐伯氏については諸説ある。その多くは、空海の家系は中央豪族の大伴氏──天孫降臨の際、ニニギノミコトのお供としてつき従った天忍日命(あめのおしひのみこと)をルーツとし、古くから天皇に仕えてきた氏族──と同族関係にある佐伯氏だとする一方で、古代佐伯氏には佐伯連(むらじ)と佐伯直(あたい)の二流があり、空海の家系は、讃岐の地で蝦夷を統率していた地方豪族、佐伯直で、大伴氏に連なる中央豪族の佐伯連とは、異なる家系であるとする説もある。さらに、空海の家系自体が蝦夷だとする説や、空海自身は、血縁の区別を超えた大きな視点で、佐伯という氏族を捉えていたと考える説もある。
「私は、大伴氏につながる本家筋という感覚を、お大師さんは持っておられたと思います。お大師さんは24歳のときに『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書かれ、のちに『三教指帰』に改訂されますが、近年この『聾瞽指帰』は、桓武天皇を諫めるために書かれたという説が出ています。蝦夷征伐や平安京の遷都など、桓武天皇が無理を通したせいで、国民は非常に辛い思いをしていたことや、代々天皇に仕えてきた大伴・佐伯の両氏を優遇しなかったこと、などを諫める意味があったというのです。我々は『三教指帰』を、お大師さんが、家族や親戚など周囲の人たちへの説得のために書いた出家宣言書と思い込んでいましたが、読み込むと、諫言とも受け取れます。お大師さんのことは、上層部だけを見ていてはわからない部分があるのです」
真言についてもうかがってみた。
「真言宗は、陀羅尼(だらに)宗という呼び方をしますが、とにかく真言を数多く唱えることが基本です。自坊でも亡くなった方のためにご法事を三回忌、七回忌と回数を重ねていきますが、そのとき、供養のためのお供えとして、光明真言を一万遍唱えます。しかも三回忌なら3万遍と、回数が増えていく。回数を多く唱えると、それだけ亡くなった方の供養になるという信仰が残っているのです」
では、どのような心持ちで唱えたらいいのだろう。
「昔は法事がなくても、お年寄りは縁側で日向ぼっこをしながら、光明真言を唱えていました。百遍唱えるごとに糸に結び目を一つ作り、千遍で10の『念誦糸』を1本仕上げます。法事の際には、『念誦糸』を仏壇にお供えし、墓参のときにお墓に納めていました。この光明真言念誦が、お大師さんの虚空蔵求聞持法に通じる修行になるのです」
「お大師さんは一見派手に活動しているようにみえますが、一番の願いは高野山に帰って修法をすることでした。たとえば天皇陛下が、用事があるから帰ってきてくれと頼んでも、今拝んでいるから帰れませんとはっきり断っています。それくらい、拝むということを非常に大事にされていました」
空海の教えで、今の時代に一番伝えたいことはあるだろうか。
「お大師さんの師である唐の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)さんの一番の教えは、人々を幸せに導きなさいということでしょう。人々のために活動をしなさいと」
空海も、その教えを肝に銘じていたことだろう。
「我々も、少しでも周りの人を幸せに導くことを活動の根幹に据え、120年ほど前から児童養護施設を高松市で運営しています。最近は親から虐待を受けた子どもが施設に入ってきますが、子どもの精神状態を落ち着かせるのは、カウンセラーをおいてもなかなか難しい。そこで夏休みや春休みに歩き遍路をさせてみたら、普段は話さない子が、歩きながら先生と会話をするようになって落ち着いてきました。歩くことに集中し、お参りをすることで、精神が安定するんですね。ほかに介護施設も3つ運営しています」
最後に、空海の言葉で、特に大切にされているものはあるか、うかがってみた。
「たくさんありすぎて迷いますが、今気になるのは……」
菅さんはそう言って、本の中のある部分を指差した。そこにはこう書かれている。
─生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し─
(輪廻をくりかえすこの世の中で、多くの人びとが生まれをくりかえし、死をくりかえしても、その始めも終わりも知ることができないのだ。ただ今生を懸命に生きるよりほかはないのである)
今生を懸命に生きる──。管さんを通し、空海からのメッセージを受け取った気がした。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。