ニューオープン・レポートⅠ 大阪中之島美術館
待望の開館を寿ぐモディリアーニの世界
今年2月に満を持して開館した大阪中之島美術館。
およそ6000点のコレクションから選りすぐった約400点をお披露目した開館記念展「Hello! Super Collection 超コレクション展 ―99のものがたり―」でも話題になった同館の、初の企画展となる「モディリアーニ ―愛と創作に捧げた35年―」が開催中だ。
美術館の構想が発表され、準備室が創設されたのは1983年。大阪市制100周年の記念事業の一環として掲げられたプロジェクトは、大阪の実業家で、美術収集家として知られた山本發次郎のコレクションが、遺族により大阪市に寄贈されたことがきっかけであった。
それからほぼ40年、バブル経済の崩壊、市政方針の変更や財政難などにより何度も計画が白紙に戻るという困難のなか、準備室ではコレクションの充実を図っていたそうだ。
「蒐集も亦創作なり」と、作品とともにコレクターの個性を重視した山本の寄贈コレクションは、自身の目にかなうものに徹底された、禅宗高僧の墨蹟から、佐伯祐三の油彩40点を含む東西の近代洋画、そして東アジアの染織など約580点。これに、日新製鋼(現・日本製鋼)の会長で日本近代絵画を収集していた田中徳松のコレクションや、佐伯と同時代のエコール・ド・パリの作品を収集した画商・高畠良朋のコレクションの寄贈を受けつつ、丁寧な収集を重ねてきた。
この成果で、同館の所蔵する作品には、海外の美術館からも出品を依頼される名品が多数含まれ、なかには現在だったら入手不可能なものも。
モディリアーニによる《髪をほどいた横たわる裸婦》もそうした一作で、購入時には非難も寄せられたものの、いまや大阪中之島美術館を代表するのみならず、市が世界に誇る所蔵品ともいえる。
まさに開館までをともにした作品にことよせた本展は記念にふさわしく、また、国内では2008年以来となるモディリアーニの本格的な回顧展ともなる。
エコール・ド・パリの時代を駆け抜けるかのように35歳で夭折したこの画家は、同じく同館が誇る佐伯祐三にも共鳴し、40年間、開館への情熱と収集を絶やすことなく、ようやく新たな一歩を踏み出した大阪中之島美術館を象徴する。
本展では、世界初公開の作品を含む、厳選された国内外のモディリアーニの作品約40点が集結。親交のあった芸術家の秀作も揃い、彼を取り巻いていた時代や社会、そして創作の土壌を感じながら、モディリアーニの作品の魅力に迫れる内容になっている。
真っ黒いキューブ型の建物に入ると、中央に大階段があり、2階が受付になっている。内部も黒を基調としたシックな空間だ。そこから長いエスカレーターを乗り継いで5階へ。
会場は大きくゆったりとした造りになっていて、照明も明るすぎず、暗すぎず、柔らかくて心地よい空間になっている。作品の間隔もゆとりがあり、何よりもとても近くで自然な目線で観られるのが嬉しい。
移動しやすく、好きなところから、あるいは空いているところから自由に散策できるのもよい。
プロローグでは、モディリアーニが過ごした20世紀初頭のパリの時代性を、当時のポスターやパネルで紹介する。
19世紀末から第一次世界大戦勃発までのフランスは、経済・文化ともにもっとも華やいだ時代。「ベル・エポック(よき時代)」とも称されたこの時期のパリには、最新の芸術動向を吸収すべく、多くの外国人芸術家たちがやって来たが、1914年に始まった第一次世界大戦により、時代は一転して厳しい生活を強いられるようになる。彼らは異国の地で、困窮や制作の不自由さなどの苦難に耐えて制作を続ける。
そんな光と影がモディリアーニの人生と画業にも影響していることをまず踏まえよう。
本章は3章立て。画家としてのスタート「第1章 芸術家への道」から編年を基本に、彼が活動した時代のパリの美術動向「第2章 1910年代パリの美術」を経て、モディリアーニのひとつの到達点としての「第3章 モディリアーニ芸術の真骨頂 肖像画とヌード」へと至る。
各所に関連するコラムと併せて、「特集 モディリアーニと日本」のコーナーを設け、時代背景を補完しつつ、日本におけるモディリアーニ受容の歴史に人気のひみつをたどる。
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)は、イタリア・リヴォルノに生まれる。三男坊で末っ子だった彼は病弱だったこともあり、母親から大きな愛情を受け、文化的には恵まれた環境で育ったようだ。
14歳頃から絵を学び始め、フィレンツェとヴェネツィアで美術学校に通い、友人からパリの話を聞いて、移住を夢みるようになる。
1906年、21歳の時にパリへ出て、モンマルトルに暮らし始める。当時ここには、ピカソらが集う「洗濯船」と呼ばれた集合アトリエがあり、彼はセザンヌやゴーガン、ロートレックなどの作品に感銘を受けるとともに、こうした若い芸術家たちの動向にも触れ、影響を受ける。
翌年には、彼らの作品発表の場となっていたサロン・ドートンヌにも出品し、貧しくも画家として順調なスタートを切った。
この頃、3歳年上の研修医ポール・アレクサンドルにも出会う。彼はモディリアーニの才能と人柄に惹かれ、パトロンとして支援するようになり、その関係は1914年にアレクサンドルが軍医として前線赴任するまで続く。
モディリアーニは彼と彼の家族の肖像も多く描き、素描だけで500点以上にのぼる貴重な初期コレクションは、アレクサンドルの死の1968年まで秘蔵され、現代に遺されることとなった。
モディリアーニが彼を描いた作品は5点知られている。本展では、この作品のほか、もう1点の国内所蔵品が並ぶ。アレクサンドルの背後の絵は、やはり彼が所蔵していたモディリアーニによる《ユダヤの女》で、パネルで紹介されている。
もともと彫刻家を目指していたともいわれるモディリアーニは、絵画においても当初からフォルムへの強い意識が感じられる。
1911年頃からは、ルーマニア出身のブランクーシとの出会いをきっかけに、彫刻制作に集中する。そこには、この時代の作家たちを魅了していたアフリカ彫刻などの非西洋文明の造形の影響が強く見られる。
カリアティード*をテーマに、多くの素描や絵画作品とともに知られる彼の彫刻は、後の絵画表現につながる要素を持ちつつ、彼のひとつの到達点として評価されるものだ。
会場では、簡潔ながら美しいデッサンと彫刻作品のパネルと併せ、ブランクーシの作品やアフリカの仮面などで、その創作の原点を感じる。
*古代建築にみられる女性を模した柱
彫刻制作にアフリカやオセアニアの美術を参照しつつ、西洋の伝統的な彫刻であるカリアティードの形態を持ってきた一連の作品は、デッサン、油彩ともにとても優美で魅力的だ。長い首や瞳のない目など、のちの絵画表現を予告する造形にも注目。
モディリアーニが暮らした1910年代のパリは、古きものと新しいものが共存する国際的な芸術都市として活況を呈していた。
ドランとマティスがフォーヴィスムをもたらし、ピカソが《アヴィニョンの娘たち》でキュビスムを誕生させ、イタリアではボッチョーニやセヴェリーニらが未来派宣言を発する。
セーヌ右岸にあった「洗濯船」のほか、左岸のモンパルナスには「蜂の巣」や「シテ・ファルギエール」と呼ばれた集合アトリエが形成され、異邦人として来仏した若き芸術家たちの芸術拠点となり、それぞれに自由に交流しながら、自身の表現を模索していたのだ。
ピカソからヴァン・ドンゲン、パスキン、キスリング、スーティン、シャガール、そして藤田嗣治など、モディリアーニとの関わりを中心に、大戦下でもめげることなく活動した作家たちの秀作とともに、多彩に花開いていく潮流を観ていく。
右:アメデオ・モディリアーニ 《ルネ》 1917年、ポーラ美術館
仲良し夫婦だったという妻ルネを描いたキスリングの作品(左)は、個展を開催して成功をおさめた翌年に描かれたもの。赤と青のコントラストのなかに、短髪モダンながら、女性の柔らかさを持つ姿が描かれている。一方、親友キスリングを通じて彼女と知り合ったモディリアーニの作品(右)では、彼女はネクタイを締めた男装で描かれる。その挑発するような自信に満ちた表情は、当時の流行だったギャルソンヌ・スタイルと相まって、新しい時代の女性を印象付ける。
1914年頃、モディリアーニは彫刻をやめて絵画制作に戻ったと考えられている。
その理由は、彫刻の素材費が高いこと、彫刻作品はあまり売れないこと、持ち運ぶのに不便なことなどが挙げられるが、おそらくはその表現を改めて絵画で実践したくなったことも大きいのだろう。
第一次世界大戦開戦の年、志願するも病弱な体質により外国人部隊への参加が叶わなかった彼は、パリに残って身近な人びとの肖像画を描き、ポール・ギヨームやレオポルド・ズボロフスキといった新進の画商たちに認められて支援を受けるようになる。
この時期から、モディリアーニの特徴とされる、長い首、瞳のない目、簡潔な背景の肖像画が生まれてくる。
彼は、目の前にモデルがいないと描けない画家だったという。ときには、大声を出して、モデルをすくませていたというエピソードも残っている。
しかし、そうして対象と向き合いながら多くのデッサンや下絵を描いた彼が、実際に油彩を仕上げる時間はとても短かったそうだ。
徹底的に対象に対峙し、その外観、内面、本質を見極めて、自身の造形に写し取っていく、そんな彼の創作は、瞳のない人物には、その抽象性ゆえに言い知れぬ多彩な感情を読みとり、瞳を据えてこちらを見つめる肖像には、しっかりとした意思を読みとれるようなインパクトを受ける。
観るものは、写実を超えて、モディリアーニ・スタイルの共通項の中に、描かれた人物の個性をとどめた、不思議な魅力を感じるのである。
濃い茶色の階層のなかに浮かび上がる女性は、抑えた色彩に、長い首と、憂いを帯びた瞳、左顎に描かれたホクロが魅惑的な、肖像画の優品である。おそらくは注文により描かれたと考えられる一作で、いっとき《ヴィクトリア》というタイトルが付されていたこともあったそうだ。
モディリアーニが描く少女像のなかでも人気の一作。第一次世界大戦を避けて、藤田嗣治夫妻とともに南仏に避難していた時に描かれたものともいわれている。まっすぐにこちらに向けられた青灰色の瞳と、白い歯を見せる開きかけた口元が、活き活きとした少女の純粋さを伝える。背景を二分するドアの茶と、壁の青が、それぞれ少女のセーターと瞳の色に呼応して、心地よい画面を構成している。
肖像のほかに、1916年頃からズボロフスキの案により手がけたのが、裸婦の連作である。
3年ほどをかけて描いた裸婦像は現在30点余が知られ、背景を極力排し、クローズアップにして物語性を排除することで、ひたすら人物の存在感を強調するこれらは、豊かな肉体とともに強い瞳が圧倒的な人体の生命感を伝えてくる。
その代表作のひとつが同館所蔵の《髪をほどいた横たわる裸婦》だ。
今回、同じモデルを描いたとされるベルギーのアントワープ王立美術館所蔵の《座る裸婦》と並ぶ。
大阪ではじめての競演は、貴重で嬉しい機会だ。
photo: Rik Klein Gotink, Collection KMSKA - Flemish Community (CC0)
画面いっぱいにその肢体を横たえる黒髪の美女は、ウフィツィ美術館にあるティツィアーノの傑作《ウルビーノのヴィーナス》に、そして近代ではマネの《オランピア》にも通じる。
横ずわりの女性の周囲には、絨毯や水桶のようなものも描かれており、モディリアーニの作品としては、珍しく情景描写がしっかりしている。たわわな胸やはちきれそうな腰回りの描写とともに、誘うような流し目のまなざしが官能的だ。
イタリアに生まれ、伝統的な作品にも多く触れていたモディリアーニは、新しい表現を求めていたが、決して古典を否定していない。
伝統に培われたものをいかに消化し、自身の表現へと昇華させるか、そこにこそ、モディリアーニのたぐいまれな独自性と魅力がある。
同じモデルを描いたとされる裸婦作品が並ぶ。嬉しい再会に立ち会って!
モデルは、フランスの高級チョコレートの製造販売で成功したムニエ一族の女性。モディリアーニの裸婦像を入手する際に依頼された肖像画と考えられている。この作品の後には、次男の肖像もモディリアーニによって描かれたそうだ。黒と灰のトーンのなかで、夫人の金髪と赤い頬と唇が精彩を放つ、上品で美しい作品。ほんのりとほほ笑んだ表情と組まれた手が魅惑的なニュアンスをまとう。
1920年、貧困に加え、重度のアルコール依存や薬物の摂取、結核の悪化により、意識不明のところを発見され、そのまま病院で帰らぬ人となる。その時35歳。余りにも早い、惜しまれる死だ。
二人目の子どもを宿していたモデルで内縁の妻だったジャンヌ・エビュテルヌは、2日後、お腹の子とともに実家のバルコニーから身を投げて後を追う。女性遍歴でも知られるモディリアーニだが、もっとも多く描いたのはジャンヌだった。結婚のための書類申請をしていたものの、戦後の混乱で手続きは間に合わなかった。
パリの敬虔なカトリックの家に生まれたジャンヌは、絵の才を持ち、モンパルナスの画塾に学んでいた。その頃にモディリアーニと出会ったのだろう、14歳の年の差も超えて、ふたりは強く惹かれ合い、ジャンヌの両親には反対されながらも一緒に暮らした。以後、彼の専属モデルとなり、精神面、生活面ともに献身的に彼を支えることになる。
よく知られているこちらの作品は、ジャンヌが20歳頃のもの。顎に指を当て、少し首をかしげる姿には、少女から大人の女性へと成熟していくあわいを読みとれる。
会場の最後は、ハリウッドの伝説的女優グレタ・ガルボが秘蔵していたという《少女の肖像》が飾る。
その美貌と圧倒的な存在感で人々を魅了したグレタは、36歳で引退、以後はニューヨークでごく親しい人とだけ交流する隠遁生活を貫いた。
彼女の生活を彩ったのが美術品で、自身の好きなものを収集し自宅で愛でていたという。死後、それらのコレクションは市場に公開されたが、《少女の肖像》は親族の手元に残され、現在ファミリー・コレクションとなって大切に保管されている。
この作品が世界初公開。
《髪をほどいた横たわる裸婦》とともに、撮影もOKという大判振る舞いなので、じっくり作品と対話してから、ぜひ記念に持ち帰りを。
彫刻を絵画に写したような素朴な造形が印象的な、愛らしくもどこか聖性を感じさせる少女は、カンヴァスではなく紙に描かれている。毎日このほのかな微笑みを見つめて過ごしたグレタは、何を話しかけたのだろうか。会場にはグレタの居室の写真も巨大なパネルになっている。併せて想いを馳せてみるのもよいかもしれない。
大阪中之島美術館では、「大阪と関わりのある近代・現代美術のコレクション」をひとつの指標として収集を続けてきたことも特筆される。
世界最大のコレクションとなる佐伯祐三の展覧会のほか、戦後の大阪で爆発するように開花し、現在世界的に見直しが進む「GUTAI(具体)」の展覧会も、隣接する国立国際美術館との共催で予定されている。
これからも注目の美術館の誕生を喜びたい。
展覧会概要
大阪中之島美術館 開館記念特別展「モディリアーニ ―愛と創作に捧げた35年―」
新型コロナウイルス感染症の状況により会期、開館時間等が
変更になる場合がありますので、必ず事前に展覧会ホームページでご確認ください。
会 期:2022年4月9日(土)~7月18日(月・祝)
開館時間:10:00‐17:00 (入場は閉館の30分前まで)
休 館 日:月曜(7/18を除く)
入 館 料:一般1,800円、高大生1,500円、小中生500円
未就学児は無料
障がい者手帳などの提示者と介護者1名は当日料金の半額(要証明)
問 合 せ:06-4301-7285(大阪市総合コールセンター)
展覧会サイト https://www.modi2022.jp.