「忘れられた画家」渡辺省亭

アート|2022.3.4
別冊太陽編集部  写真=齋田家(齋田記念館)の床の間に飾られる省亭作品《雙鶴》

渡辺省亭という画家をご存知だろうか? 江戸末の嘉永4(1852)年に生まれ、歴史画の菊池容斎に師事。その後、花鳥画で才能を開花させて、生前には大変な人気を誇ったが、令和の現在では、美術史にもその名前が挙がることは少ない。

 しかし、日本での知名度の低さに比べ、海外からの評価は高く、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、クラーク美術館、大英博物館、そしてクラクフ国立美術館など、名だたる美術館に省亭の作品はコレクションされている。

省亭初期の代表作である《群鳩浴水盤ノ図》(明治10年、フリーア美術館)。本格的な西洋絵画の流入前にも関わらず、すでに写実性と光の描写に近代的なものを感じさせる。

省亭の生きた時代に、ジャポニスムがヨーロッパを席巻していたことも、省亭が海外に評価される素地を作った理由のひとつだろう。日本画家として初めてパリに渡った省亭は、印象派の画家たちが集うサロンに招かれ、即興で席画を披露することもあった。ためらいなく引かれる筆の線が、たちまちに鳥となり、木となっていく様子は、ゴンクールの日記にも驚きとともに書かれている。また、ドガのために描いた席画なども残っており、パリでいかに省亭が歓待されていたのかを知ることができる。

パリで披露した席画の作品《鳥図(枝にとまる鳥)》(明治11年、クラーク美術館)。左下に「為ドガース君」と記されており、ドガのために描かれたことが分かる。

卓越した技術をもち、海外での評価も高かった省亭が、なぜ忘れられた存在となったのか。いくつかの理由が考えられる。ひとつは、明治30年代以降に盛大に開催された院展、文展へ出品せず、また、日本美術院からも距離をとって、絵師同士の競争や派閥に巻き込まれることを嫌ったこと。そのために、美術史の本流である画壇からは、外れた画家とみなされてしまったのだ。ふたつめに、省亭はパリへ行く以外は、生涯東京を出ることがなかったため、関東大震災、東京大空襲という災禍によって、あらかたの作品が焼けてしまったと思われていたことが挙げられる。

12幅の連作となる《十二ヶ月花鳥図》。別冊太陽誌面では、三つ折りの両観音開きで、12作を総覧できる。

それでも、海外美術館をはじめとして、熱心なコレクターが、遺された作品を大切に所蔵し続け、2021年には、初めての回顧展も開催された。死後100年を経てようやく、「忘れられた画家」の枕詞も外れつつあるのかもしれない。ぜひ誌面にて、「忘れがたき」省亭の画技の確かさを確認してほしい。

迎賓館赤坂離宮の「花鳥の間」に飾られている七宝額30面の原画も、省亭が手掛けた。繊細かつ華麗に描かれた花鳥の数々は、省亭の代表作のひとつといえる。

別冊太陽『渡辺省亭──花鳥画の絢爛』


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