三代歌川豊国画「御好三階に天幕を見る図」文久元年(1861)筆者蔵

藤澤茜の浮世絵クローズ・アップ

「絵解き・江戸のサブカルチャー」
第2回 浮世絵と東海道

アート|2024.10.9
文・藤澤茜

風景画の名手、初代歌川広重

 浮世絵の主題は多岐にわたり、それぞれの分野を得意とする絵師がいました。
 今回取り上げる初代歌川広重(1797~1858)は、葛飾北斎(1760~1849)とならび風景画の名手として知られています。15歳で歌川豊広に入門した広重は、「東都名所」というシリーズの刊行を経て、天保4年(1833)頃に出世作となる「東海道五拾三次之内」シリーズを手掛けました。版元名から「保永堂版」と称されるこのシリーズは、53の宿場と起点の江戸日本橋、終点の京都三条大橋をあわせた計55図が刊行されています。かなりの枚数におよびますが、美しい風景だけでなく土地の名物、武家や庶民の旅姿など宿場ごとに描く対象が選ばれ、見る者を飽きさせない工夫がこらされています。
 保永堂版の中でも風景描写に定評のある「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」を紹介しましょう。箱根(現、神奈川県足柄下郡箱根町)の山がそそり立つように描かれており、色とりどりのパッチワークを施したような表現が、その険しさをさらに際立たせています。よく見ると、山間を大名行列が進む様子も描かれており、「天下の嶮」と称された、東海道最大の難所の旅の厳しさが伝わってきます。
 風景画は、実際の景色をリアルに描いた写真のようなものだろう、と想像する人は多いと思います。しかし、この絵のような誇張をまじえた描写もしばしばあり、実際には浮世絵師がかなり自由な感覚で作画に取り組んでいたことが分かります。

初代歌川広重画「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」天保4年(1833)頃 メトロポリタン美術館蔵
副題に「湖水図」とあるように、左手に芦ノ湖が描かれている。その奥には、輪郭線を用いずに真っ白な姿で表現される富士山が浮かび上がるように配されている。東海道のシリーズ物は、53の宿場に起点の江戸日本橋、終点の京都三条大橋を加えた、計55図が刊行されている。

人気を博した東海道シリーズ

 東海道の浮世絵が人気を博した背景には、弥次さん、喜多さんの伊勢参りを描いた小説『東海道中膝栗毛』(1802~14)の人気がありました。旅ブームが起こり、伊勢参りや病気を治すための湯治などを主な目的として、庶民たちが旅を楽しむ時代となったのです。東海道の道中記や、旅行の心得をまとめたガイドブックも刊行されました。
 広重は保永堂版を含め、東海道のシリーズを20種類以上描きました。同じ宿場を取り上げる場合でも、どの場所を選択するのか、また「何を描くのか」という点が異なっていることが多く、そこに面白さがあります。四日市(現三重県四日市市)を描いた広重作品を例に、見てみましょう。
 四日市は三重川(現三滝川)の河口にできた港町です。保永堂版の「東海道五拾三次之内 四日市 三重川」は三重川(現三滝川)の情景で、左奥の帆柱が描かれるあたりが河口付近と考えられます。一見、穏やかな景色に見えますが、柳の葉は大きく揺れ、笠を飛ばされて慌てる旅人の姿により、かなりの強風であることがうかがえます。このシリーズには珍しく、風をモチーフにした、動きのある作品となっています。

初代歌川広重画「東海道五拾三次之内 四日市 三重川」天保4年(1833)頃 メトロポリタン美術館蔵
広重の代表作、保永堂版の一図。四日市は東海道の43番目の宿場で、三重川(現三滝川)の様子が描かれている。保永堂版は、この絵のように旅人をユーモラスに表現した作品も多く、浮世絵を通じて旅を疑似体験できるのも、鑑賞の楽しみの一つである。

 同じ四日市の宿場でも、「隷書版」と称されるシリーズでは日永追分が描かれています。追分は街道の分岐点という意味で、四日市は日永追分で伊勢神宮に続く伊勢参道に分かれており、伊勢参りの旅人でにぎわいました。伊勢参りは、江戸っ子のあこがれでした。広重は、伊勢参道を示す鳥居を描き大きく中央に配し、饅頭屋が軒をつらねるにぎわう町の様子を描くことで、四日市の土地柄を伝えています。笠をかぶっているのは伊勢参りの旅人でしょう。人懐っこく、後ろ姿で尾を振る白い犬も印象的な構図です。

初代歌川広重画「東海道 四十四 五十三次 四日市 日永村追分 参宮道」嘉永2年(1849)頃 メトロポリタン美術館蔵
タイトルの「東海道」という字の書体から、「隷書東海道」と称されるシリーズの一。「保永堂版」から15年以上後の刊行。東海道から伊勢参道へと分岐する、日永追分を描く。「御まんじゅう」の看板がかかる店で休む人の様子も見える。

 保永堂版と隷書版、同じ四日市の宿場を描いていても、その描写や対象物は異なっています。実際に広重は、これらの場所を訪れたことがあるのでしょうか。
 保永堂版に関しては、広重が東海道を旅して作画したという説もありますが、現在では、先行する『東海道名所図会』などの出版物から図様を引用した可能性が指摘されています。ここに描かれる三重川や日永追分は、広重が実際に見た景色ではないかもしれませんが、その土地の情報を、どのように盛り込んで作品を作り上げるのか、そこに風景画の面白さがあるのではないでしょうか。その面白さを、ふたたび隷書版の作品に戻って紹介してみたいと思います。

広重が描いた「おかげ犬」

 隷書版には、伊勢参りの旅人の前にさりげなく白い犬が描かれていますが、実はこれは伊勢参りをする犬だと考えられます。
 犬の伊勢参りとは驚きですが、江戸中期以降、病気の飼い主の代わりに送り出されて伊勢を目指した犬の姿が見られたといいます(仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年)。伊勢参りは「おかげ参り」ともいい、こうした犬は「おかげ犬」とも称されました。おかげ犬は評判となり、十辺舎一九の『翁丸物語』(文化4年・1807)という小説の題材にもなりました。首に飼い主の名前を書いた書付とお金を入れた袋をしめ縄で結び、伊勢を目指す犬を、多くの人が伊勢へと誘導して助けたといいます。伊勢参りをするのは白い犬が多かったといい、広重もそれをふまえたのかもしれません。伊勢参りのいでたちで旅人に可愛がられるこの犬は、伊勢参道に分岐する日永追分の絵だからこそ描かれたのでしょう。
 ちなみに、このおかげ犬とそっくりな犬の姿が、広重の「伊勢参宮 宮川の渡し」という作品に確認できます。どこにいるか、お分かりでしょうか。伊勢参宮の玄関口といわれる宮川の渡しの様子を描いたこの絵からは、伊勢参りの人々の熱気まで伝わってくるようです。この絵におかげ犬の姿を見つけ、「四日市の絵のおかげ犬だ!」と思った鑑賞者もいたかもしれません。浮世絵に描かれることで、ますます身近な存在になったのでしょう。おかげ犬は、歌舞伎にも取り上げられたことが分かっています。

初代歌川広重画「伊勢参宮 宮川の渡し」安政2年(1855) 神奈川県立歴史博物館蔵
安政2年(1855)は、伊勢神宮に大勢の参詣者が訪れたといわれる。この絵に描かれるように、当時の宮川には橋がなく渡し船で対岸まで移動した。「おかげまいり」と書かれた旗や、「おかげ」と書かれたおそろいの笠や浴衣を身に着けた人々が描かれる。老若男女を問わず、多くの人が参詣に訪れた様子が伝わる。
①四日市の宿場・日永追分の絵に描かれた白い犬。 ②「伊勢参宮 宮川の渡し」(3枚続)の左図手前に白い犬が見える。

 風景画が何を伝えようとしているのか、作品によって盛り込まれる情報はさまざまです。名所を知るガイドにもなる浮世絵は、旅行に行きたくても行かれない人にとっては、旅を疑似体験する一つのツールになったのでしょう。広重の絵を通じて、おかげ犬と行く伊勢参りを想像してみてはいかがでしょうか。
 第三回は、歌舞伎役者のブロマイド、役者絵を取り上げます。

次回配信日は、11月11日です。

藤澤茜(ふじさわ・あかね)
神奈川大学国際日本学部准教授。国際浮世絵学会常任理事。専門は江戸文化史、演劇史。著書に『浮世絵が創った江戸文化』(笠間書院 2013)、『歌舞伎江戸百景 浮世絵で読む芝居見物ことはじめ』(小学館 2022年)、編著書に『伝統芸能の教科書』(文学通信 2023年)など。

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