猫を通して日本を知る、「ゆかし日本、猫めぐり」。第22回は、詩人・金子みすゞの詩に、猫ちゃんを重ねてお届け。
「さびしいとき」
ときどきハッとさせられる。
気ままで勝手。
そんな思い込みで、猫を見ていなかったかと。
さびしさ、悲しさは猫にもある。
ただ、人間が気づいていないだけ。
ときに猫は、絶妙の間合いで人に寄り添う。
それは、何より猫自身が、心の機微を感じている証。
おそらく人間以上に。
好きな相手がさびしいとき、
自分もさびしい。
猫とはそういう生き物かもしれない。
さびしいとき
私がさびしいときに、
よその人は知らないの。
私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。
私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。
私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。
金子みすゞ 別冊太陽―― 日本のこころ122 『金子みすゞ』より
本名は金子テル。「みすゞ」は雑誌に詩を投稿するときのペンネームで、「信濃の国」にかかる枕詞「みすゞ刈る」の美しい響きに惹かれ、決めたものという。
どこかふんわりとあたたかく、読み終えるとちぢこまっていた心がひろびろとする。そんな詩を数多く遺した金子みすゞが、童謡詩人として活躍したのは、大正12年、20歳からのこと。当時日本の童謡界は、『赤い鳥』創刊を皮切りに黄金時代を迎え、『金の星』では野口雨情、『童話』では西條八十が、自作を発表しながら投稿の選者を務めていた。20歳のみすゞは、下関の小さな本屋で一人店番をしながら、心に浮かんだ言葉を書きとめ、雑誌に投稿。西條八十から「若き童謡詩人中の巨星」と絶賛され、一躍投稿仲間の憧れの星となった。
そんなみすゞの詩の世界を育んだのは、生まれ故郷の山口県長門市仙崎。日本海に面するこの小さな漁師町は、明治初期頃まで捕鯨で栄える一方、漁師たちは、生計のために生き物のいのちを奪うことへの償いの気持ちから、海の見える場所に鯨墓(くじらばか)を建て、鯨の霊を鎮魂するための法会を営んできた。みすゞが自分中心、人間中心ではなく、常に生きとし生けるものそれぞれの目線に立ち、寄り添い、同化するまなざしを持ち続けた背景には、生まれ育った仙崎の精神風土も、少なからず影響しているのだろう。
その一方、別れの多い人生でもあった。祖母と両親、兄と弟という、愛情豊かな家で育ちながらも、みすゞが3歳のときに父が他界。翌年には弟が養子にもらわれ、のちに母も、弟の養子先へ後妻に入るため家を去った。さらに、兄の結婚を機に、母と弟が暮らす下関に移り住んでからは、母の再婚先の家の都合で決められた相手と結婚、出産、そして離婚。その間、親友や祖母も帰らぬ人となった。「私は好きになりたいな。誰でもかれでもみいんな」―。そんな「みんなを好きに」という詩を作ったみすゞにとって、数々の別れは心に暗い影を落としただろう。弱い者や普段見向きもされないもの。みすゞの心が、ものごとの影の部分を掬い取ることができたのは、何より自身が、深いさびしさを内に秘めていたから。そう思えてならない。
享年26。みすゞは命を絶つ1年ほど前、夫に詩作を禁じられ、自作のすべてを3冊の手帳に清書し、1つは師である西條八十に、原本はみすゞの一番の理解者で、よきライバルでもあった弟に託した。金子みすゞという名前や詩は、こうして人々の記憶から消え去った。
そんなみすゞの500編を超える詩が、再び知られるようになるのは、死後半世紀以上も経ってから。1人の詩人によって見出され、探し出されたみすゞの詩は、自死をもって守り抜いた娘の生命と同じように、今につながったのである。
庭先の小さな蜂から、空や海、宇宙まで。広大で深い世界観を持つみすゞの詩は、言葉に宿るぬくもりとともに、今も多くの人々の心に寄り添い続けている。
今週もお疲れさまでした。
おまけの1枚。
「明るいほうへ
明るいほうへ。
一分もひろく
日のさすとこへ。
都会(まち)に住む子らは。」
―金子みすゞ「明るいほうへ」より抜粋
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。