第19回 有職覚え書き

カルチャー|2022.4.18
八條忠基

季節の有職植物

●ヤエザクラ

4月の中頃、ソメイヨシノが散った後に盛りを迎えるのがヤエザクラです。

『源氏物語』(幻)
「山吹などの、心地よげに咲き乱れたるも、うちつけに露けくのみ見なされたまふ。他の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、藤は後れて色づきなどこそはすめるを……」

千年変わることのない季節の移ろい。ヤエザクラは花弁が重なる八重咲きサクラの総称です。一般的な一重咲き桜の花弁は5枚ですが、雄しべが花弁に変化したという説もある八重咲き品種は花弁が10枚から100枚にもなり、ぽってりとした姿は作り物のように豪華です。その八重桜というと思い出すのが、伊勢大輔の歌です。

『詞花和歌集』(1151年)
「一条院の御時、ならの八重桜を人の奉りて侍りけるを、そのをり御前に侍りければ、その花を賜ひて歌よめとおほせごとありければ
 いにしへの 奈良の都の八重桜
   けふ九重に にほひぬるかな」

これを詠んだときの状況を詳しく書いてあるのがこれ。

『古本説話集』(平安末期)
「伊勢大輔、歌の事  今は昔、紫式部、上東門院に歌詠み優の者にて候ふに、(中略)いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにて候ふほどに、伊勢大輔参りぬ。それも歌詠みの筋なれば、殿、いみじうもてなされ給ふ。奈良より年に一度、八重桜を折りて持て参るを、紫式部、『今年は大輔に譲り候らはむ』とて、譲りければ、取り次ぎて参らするに、殿、『遅し、遅し』と仰せらるる御声につきて、
 いにしへの 奈良の宮この八重桜
  今日九重に 匂ひぬるかな
『取り次ぎつるほどほどもなかりつるに、いつの間に思ひ続けけむ』と、人も思ふ、殿もおぼしめしたり。」

紫式部が「今年は取り次ぎ役を伊勢大輔に譲りましょう」と、お局様風イケズな無茶振りをしたところ、大輔は見事に詠みあげ、人々は「準備無し、打ち合わせ無しの無茶振りに、見事なものだ」と感動したというのです。

このように、平安中期においての八重桜は、京都にはなく奈良にしかない特別な品種であったのです。しかし時代がたつと京都でもポピュラーになったようで、これを嫌ったのが兼好法師です。

『徒然草』
「家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。虫の付きたるもむつかし。」

「異様」、「こちたく」(派手)、「ねぢけたり」(ひねくれている)……などと八重桜をまるっきり否定的に言ってます。兼好法師は「素直が一番」をモットーにしていたのでそういう感想なのかもしれませんが、八重桜の豊かで華やかな美しさもまた人々に愛されたことは、数々の和歌でわかります。

ヤエザクラ(関山)

●キリ(桐、学名:Paulownia tomentosa)。

晩春に紫色の特徴的な花を咲かせる桐は、日本では古くから天皇の象徴でした。これは古代中国の伝承で聖王の出現と同時に現れるといわれる鳳凰が、桐の木に住み、竹の実を食べる、とされたことによります。

『韓詩外伝』(韓嬰/前漢)
「鳳乃止帝東園、集帝梧桐、食帝竹実、没身不去。」

このことを清少納言もこう記しています。

『枕草子』
「桐の木の花、紫に咲きたるはなほをかしきに、(中略)唐土にことごとしき名つきたる鳥の、えりてこれにのみいるらん、いみじう心ことなり。」

 ……桐の木は、紫色の花が咲くというだけでも素敵だけれど、中国で仰々しい名前の鳥(鳳凰)が、この木だけを選んで住む、なんて、もう大変なことね……。しかし実はこれ、勘違いなのです。鳳凰が住むとされるのはアオギリ(梧桐、学名:Firmiana simplex)、紫の花が咲くのはキリ(桐、学名:Paulownia tomentosa)。生物分類学的に科が違う、かなりかけ離れた植物です。清少納言だけでなく、当時の日本人全体の勘違いでした。

「鳳凰は梧桐にあらざれば栖まず、竹実にあらざれば食わず」といわれたことで、今に伝わる天皇の袍の文様「桐竹鳳凰」が平安中期、一条天皇の時代に創案されました。

『権記』(藤原行成)
「長保二年(1000)七月四日己卯。参院并左府。召采女正巨勢広貴。仰図五霊鳳桐。画様可給織部司之由。一昨織部正忠範令奏事由、仍随勅所仰也。」

残念ながらこのときの「五霊鳳桐」の図がどのようなものであったかは不明です。しかし遅くとも鎌倉時代には存在したと思われる「桐竹鳳凰麒麟」の文様を見ますと、桐の花は家紋で描かれるような桐。これは紫の花の咲くキリです。間違いと言えば間違いなのですが、清少納言も間違えたくらい「伝統のある間違い」ですから、これはこれで立派な有職故実と言えるでしょう。

それにしても、キリの花のボリュームと高貴さ。鳳凰が住むにはこっちのほうが絶対に合っていると思います。

キリ
桐竹鳳凰麒麟文様

●コウシンバラ

コウシンバラ(庚申薔薇、学名:Rosa chinensis)。バラというと西欧のイメージがありますが、じつは古くから日本にありました。平安時代中期までに中国から色彩の派手な赤いバラが輸入されます。このバラの花は四季咲きで、まるで60日に1度の「庚申」(かのえさる)の日のように咲くと言うことから「庚申薔薇」と呼ばれたのです。平安時代は「バラ」(これは茨、つまりイバラのこと)よりも「薔薇(そうび)」という名称で愛されました。

『古今和歌集』(紀貫之)
「我はけさ うひにぞ見つる花の色を
  あだなる物と いふべかりけり」

「けさ初(うひ)にぞ見つる」の中に「さうび」を隠しています。

『源氏物語』(賢木)
「階(はし)の底(もと)の薔薇(そうび)、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。」

これについて、鎌倉時代の源氏物語解説書『紫明抄』では、

「くろきのはしのもとのさうひけしきはかりさきて  甕頭竹葉経春熟、階底薔薇入夏開」

と、白楽天の「薔薇正開春酒初熟」で始まる漢詩

「甕頭竹葉経春熟
 階底薔薇入夏開」

を引いて解説しています。この詩は『和漢朗詠集』にも入っていますから、平安貴族たちには周知のことだったのでしょう。実際、この「階のもとの薔薇」というフレーズは、当時流行だったようです。

『枕草子』(草の花は)
「さうびは、ちかくて、枝のさまなどはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水のつら、黒木のはしなどのつらに、乱れ咲きたる夕映え。」

「枝のさまなどはむつかし」というのは、トゲを嫌ってのことでしょうか。

『栄花物語』
「長和三(1014)年に成ぬ。正月一日よりはじめて新しく、めづらしき御ありさまなり。(中略)階の下の薔薇も夏を待ち顔になどして、さまざまめでたきに、(後略)」
この「黒木のはし」が何を意味するのか。皮付き丸太の橋か階段かなど、さまざまな解釈がなされているようです。

『安元御賀記』(藤原隆房/1176年)
「六日。けふは後宴なりとて。其つとめて。蔵人しんでんの御さうぞくをあらたむ。女院の御方の打出。唐ぎぬ。うはぎもえぎ。青むらご。色色の糸にて。さうびん(薔薇)のまろをぬひたり。すほう村ごの裳のこし紅。むら濃の打ぎぬ。青むらごのきぬ。紅のむらごのひとへ。をのをのさうびんの花を結びて付たり。」

後白河法皇50歳の祝賀会の様子です。「薔薇の丸」文様の刺繍をしたり、薔薇の花をコサージュにしたり、なかなか素敵なローズファッションを楽しんだようです。時は旧暦3月。果たしてコサージュは生花だったのか造花だったのか…?

日本で薔薇を描いた最も古い絵画とされるのが『春日権現験記』(1309年)で、これが平安時代の「薔薇」であったと想像されます。

次回配信日は、5月9日の予定です。

コウシンバラ
『春日権現験記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

八條忠基

綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。

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