撮影:串田明緒

串田和美 自由の練習帖 第6回

「上海バンスキング」誕生から封印まで

カルチャー|2026.1.15
聞き手=草生亜紀子

「オンシアター自由劇場の代表作」「日本の音楽劇の金字塔」などと評される『上海バンスキング』は、1979年1月の初演から、銀座・博品館劇場での公演や全国100カ所への巡業も合わせて、計435回上演され、斎藤憐さんによる戯曲が岸田國士戯曲賞を受賞し、大手レーベルからレコードが出され、NHKの番組になり、上海に向かう客船でコンサートが開かれるなど、伝説的なヒット作となった。当時この作品をライブで観た人たちは、30年以上前に受けた衝撃を今も昨日のことのように語る。しかし、串田さんはこの作品を1994年にいったん封印する(2010年、16年ぶりに再演)。『上海バンスキング』とはどんな作品だったのか、熱狂的なファンがいる時になぜ封印されたのか、聞いた。

「魔都・上海」に空想を膨らませて

――1920年代のシカゴを舞台にした『もっと泣いてよフラッパー』にバンドシーンがあって、役者さんたちの演奏がどんどん上手くなるのを見ていた斎藤憐さんとの話の中から、ジャズバンドを入れ込んだお芝居の構想が生まれたそうですね。

 ジャズに親しんでいたのは高校時代から。吉祥寺に「ファンキー」というモダンジャズ喫茶があって、ぼくは学校をサボって入り浸っていた。斎藤憐は2学年上で、どちらかというとクラシック音楽をよく聴いていたんだけど、ファンキーにも一緒に行った。当時は渋谷の道玄坂を上ったところにスイングジャズとモダンジャズの店が向かい合って対抗していた。ドアを開けると、こっちからはスイング、あっちからはモダンジャズが聴こえる感じで張り合っていましたね。客同士も「お前そっちに入るのか」みたいな視線を飛ばしたりして。ぼくらはスイングジャズの店のレコードの通し番号を暗記していて、「5番のB面かけてよ」とか言うわけです。通ぶってね(笑)。

 スイングジャズをやるにあたって、戦前の上海がちょっと不思議な街だったらしいというのを耳にして、そこを舞台にしようと思った。でも今と違ってなんでもネットで探せる時代じゃないから、とにかく戦前、戦中の上海を知っているいろんな人の話を聞いて情報を集めていった。あるお婆さんが戦前の上海にいたというので話を聞きに行って、古い写真や絵葉書を見せてもらったり、租界(外国人居留地)のことを聞かせてもらったり。日本が占領していた間(1937〜1945年)は、パスポートなしで上海に行ったという経験談を聞いたりして、想像を膨らませていった。作家が「魔都・上海」という言葉を使って小説を書いていたのも参考にした。

 それから、いろんな国の人が入り混じる自由都市・上海で腕を磨くミュージシャンのことや、彼らが博打で金をなくして翌月の給料を前借りする「バンス(アドバンスから)」という言葉を知って、さらに物語を膨らませていった。当初、タイトルは「ガーデンブリッジに赤い月」という案もあったんだけど、みんなでワイワイ話し合って、バンスという言葉を知ってから「バンスキング 夢の前借り」でいこうということになった。

――前回うかがった「ぼくらはもうヨットで世界一周している」という言葉とも重なると思うのですが、串田さんの「いつか」ではなく先に欲しいものを手に入れるという考え方は、まさに「バンス(前借り)」の「キング(王様)」ですよね。

 アハハハ、そうだね。

――物語は1936(昭和11)年に始まり、フランスに行く途中で立ち寄ろうと社長令嬢のまどかを言いくるめて上海にやってきたバンドマンの波多野四郎が、博打好きのトランペット吹き、バクマツこと博打の松本らとアメリカ人ガチャンコ・ラリーが経営するダンスホール「セントルイス」に出演するようになる。やがて、まどかもそこで歌うことになる。日中戦争、太平洋戦争を背景に、陸軍中尉、左翼学生、使用人と思っていたら実は家主だった中国人、バクマツが結婚することになるラリーの愛人のダンサー……『上海バンスキング』は歴史に翻弄される人々の人生が交錯していく音楽劇ですが、なかなか脚本が仕上がってこなかったとか?

 うん。話し合っては修正を重ねていたから。あの時は台本より前にテーマ曲ができていたなあ。横浜のホテルニューグランドに泊まって、山下公園から氷川丸を眺めながら歌詞を書いた。

――吉田日出子さん演じる「まどか」の甘い歌声が耳に蘇ります。まどかの歌声について、吉田さんは著書『女優になりたい』にこう書いています。
〈当時のレコードも手分けしてさがしまわった。そして、その中に川畑文子さんの歌っている「貴方とならば」があったの。
 私はその歌を聴いて、ものすごく感動した。本当はアメリカの曲で、それを日本語に訳したもの――。
(中略)
 川畑さんが「ふわーん」とした、聴いてると、まるで気があるんだかないんだかわからないような、とても無責任な歌い方をしていた。
「ああ、これすごくいい。ねえ、レン(注・斎藤憐)、わたしこの歌うたいたい。こんな女の人を演じてみたい」〉
 それから気持ちが悪くなるくらいこのレコードを聴き込んだと。
 この本に、串田さんの楽器の割り振りのエピソードも出てきます。出演者の顔と性格で楽器を決めていったとか?

 そういうこともあったけど、全員が初心者だったわけじゃなくて、(トランペット奏者のバクマツを演じた)笹野高史は吹奏楽部にいたんじゃなかったかな。新しく入ってきた劇団の研究生の中には、楽器を演奏したくて入ってきて「ぼくは何をやったらいいでしょう?」というのもいたから、そういう時はトロンボーンやサックスを並べておいて、「どれやってみたい?」と聞く。「じゃあ、これ」って選ぶと、だいたいそれが当たる。興味がある楽器を選ぶのが頼りになる。まあ、間違うこともあるし、途中で変えたこともあったけど、自分で選ぶと責任を持つ。楽器ごとに性格も出てきておもしろかった。トランペットのグループは、スタンドプレイとか決めるのも、「じゃあ、ここで立ちあがろう」とかサッと決まるのに、なぜかサックスのグループはぜんぜん話がまとまらない、とか。あれ、おもしろいね。

――それで言うと、クラリネットを吹いた串田さんの性格は何を表してるんですか?

 うーん、なんだったんだろう? クラリネットは音色がオシャレだと思ったね。

――初心者が多かったバンドの練習初期は「不協和音が響いて前衛音楽のようだった」と斎藤憐さんが書いていらっしゃいます。

 楽譜が読めないから、ドレミはもちろんリズムもカタカナで「ンタッタ、タタータ」とか書き込んでいく。繰り返し記号を読み間違えたり、リズムが合ってなかったりして、最初はなかなかみんな一緒に終わらなかった。「どこやってるの?」みたいな感じで迷ったり、先に終わっちゃったやつは仕方ないから最初に戻ったり、勝手に吹いてるから合うわけがない。そもそもリズムが取れていなかった。初めて一緒に終わった時は「なんか一緒に終わったじゃないか!」みたいな感じで、それだけで喜んだ。まずそこからでしたね。楽器も中古で安いのを探してきたから、本番中に吹いてるとクラリネットの朝顔(先の開いたところ)がポトンと落ちたこともありました。そのくらいボロかった。

 自由劇場ではあの頃、フォークの人たちがコンサートをやったりしていて、ぼくらもそれを手伝うことがありました。あるコンサートでは、笹野がトランペットで間奏を入れることになったんだけど、ものすごく緊張しちゃって、「あ、そろそろだ」と思ってトランペットを構えるんだけど、違ってトランペットを下げる。それを何度も繰り返したものだから、お客さんが歌手じゃなくて笹野の方を見てクスクス笑い出すなんてこともありました。

――以前、『上海バンスキング』の話をされる中で、「時代背景として、テクノ音楽全盛の後にスイングジャズを出したことが新鮮に受け止められたのではないか」とおっしゃったことがあります。

 そう。フォーク全盛の後に、坂本龍一さん、細野晴臣さん、高橋幸宏さんのYMOのテクノミュージックがすごく流行した。当時は何かが流行するとみんな一斉に髪型から服装から真似して、テクノが一世を風靡した。そういうのにちょっと飽きた頃に『上海バンスキング』を始めたのはラッキーだったと思う。テクノと違うものとして古いジャズ、しかもひとりのプレーヤーがバーンとやるモダンジャズじゃなくて、ビッグバンドみたいなものだったのも懐かしい感じがして良かったんじゃないかなあ。

六本木の自由劇場での演奏風景 
撮影:タカオカ邦彦

徐々に口コミで評判が広がっていった

――でも、1979年1月の初演は満席で始まったわけではなかったんですよね。

 最初は30人足らずのお客さんだったんじゃないかな。斎藤憐が「もっとチケット売ってこなきゃダメじゃないか」みたいな檄を飛ばした。まったく知られていない頃は、「なんだこれ? 海上バイキング?」とか言ってる人もいた(笑)。

 でも、だんだん口コミで人が来るようになって、翌年の再演で自由劇場での盛況ぶりを見た銀座・博品館の人からもう少し大きな劇場でやらないかと声がかかりました。それに加えて、いくつかのレコード会社からレコーディングをしたいと言われた。「ぼくらのレコードなんて!」と最初はびっくりした。「え、無理、無理!」とか言って。ミュージシャンじゃないからスタジオでバラバラに録るなんて絶対できない。そこで六本木のライブハウス「ピットイン」で演奏会みたいなのをやるから、それをライブ録音しようということになった。テクノと違って雑音が入ってるし、お客さんの笑い声もちょっと入ったりしている。でもそれがおもしろいとウケて、賞までもらっちゃった。それが1枚目のレコード。

 そのうちプロの人まで興味を持ち出して、仲間に入れろと言って集まってきた。ジャズギタリストの渡辺香津美さんとも一緒にやったことがある。前田憲男がやっているNHKの音楽番組に呼ばれた時は、「白丸(全音符)が〜」とか専門用語を言われても誰もわからない。挙句に撮影中は、大きなカメラを担いだカメラマンが背後から撮ろうとする。ぼくらの譜面は音階やリズムがカタカナで書いてあるからおもしろい。それを撮るものだから、すごく恥ずかしかった。

 これとは別にNHKが博品館での公演を撮影して放送した番組もありました。ただ舞台を中継するんじゃなくて、その劇場の「その日」を撮ってるという感じにしてほしいとリクエストして、楽屋を撮ったり練習風景をはさんだり、お客さんが劇場に入ってくるところや出ていくところも含めて編集してもらいました。番組として結構評判になったそうです。

阿片に溺れてしまった四郎を解放するまどか
撮影:タカオカ邦彦

――NHKでの放送について、『広告批評』(1981年10月号)の取材に対して、こう話していらっしゃいます。
〈僕の希望としてはどんなにカットしてもかまわないから、とにかくカットしてある、ということがわかるようにカットしてくれ、と言ったんです。これは影です。芝居というものは劇場に行って、見たものと自分との間にある空間、その中にあるものが芝居です、というようなことがなんとかわかるようにしてほしい――。それを、望みとして、はかない望みとして伝えた。
 それと、普通の劇場中継と違って、客席が映ったり楽屋が映ったりロビーにお客さんが入ってくるのが映ったりする。そこのところが僕としては救われる。そういうものが映ることによって、テレビを見る人が自分もあの観客の中の一人になりたかったなあ、と思ったり、あの人にはどんなふうに見えたんだろう、と思ったりする。そういう感じが同時に映るんじゃないだろうか……。
 芝居というのは、ストーリーでもないし、戯曲でもないし、プランでもないし、譜面でもない……。それを、その日、その人たちが、楽しみにしてたにしろ義理で切符を買ったにしろ、その時刻に駆けつけて見てくれる、その自分という条件の中でその人たちがその日そこで生きてるっていう、そこのところが芝居なんであってね。あとはすべて手段、材料なんですよね。〉
 串田さんの芝居論が如実にでています。

 そうだね。今も同じことを言ってる。変わらないね。

――それにしても、SNSもない時代に口コミで客足が伸びていったってすごいですよね。いつ頃、人気に火がついたんですか?

 初演の時は後半になってだんだん人が増えてきて、翌年、六本木での再演の時には入り口に行列ができて、劇場に人が入りきれなくなった。それで客席が3倍以上の博品館でやろうということになった。大丈夫かなあと思ったら、博品館での前売り券の売り出し日には長蛇の列ができたという情報が入ってきて、みんなで「うわー」「やったー」と喜びました。

練習風景
撮影:タカオカ邦彦

――83年3月の4演目の時は、「前売り初日、自由劇場事務所には早朝6時からお客さまが並び、博品館劇場のチケット売り場は1階から7階まで行列ができ」、伝説のように語り継がれていると、Webサイト「自由劇場ものがたり――(4)拡充期篇」にあります。5月までの3カ月間のチケットのほとんどがその初日たった1日で売り切れたとも。社会現象になったわけですね。

 あの頃は「チケットを取るのが大変だ」と、よく知り合いから言われました。取ってあげるとすごく感謝された。今は公演のチケットを「買ってくれ」って頼むんだから大違いだよね。もう今、あんなことは起きないのかな。ともあれ、1981年に博品館で上演したあと、大阪や京都、名古屋、新潟、札幌など全国を回った。1983年の第4演のあとは岡山、徳島、高知、鳥取、倉敷、富山、和歌山などもっと多くの場所を巡回した。それで少しお金が貯まったので、自由劇場を改修しました。

お客さんが「ずーっと向こうの方にいる」感じ

――改修の話に行く前に、100席足らずの地下の自由劇場から大きな博品館に移った時のことを少し聞かせてください。串田さんにとってお芝居は舞台の上だけでなく、「観客を含めて」のものだと日頃からおっしゃっています。著書『幕が上がる』にもこんなくだりがあります。
〈小さな劇場では、観にきたお客さんが、いつもすぐ目の前にいる。広くて暗い客席の向こう側に、漠然とした「観客」という存在があるのでなく、はっきり、顔を持った「人」が、すぐ目の前でこっちを見つめているのがわかる。ネクタイをしたサラリーマン風のおじさんだったり、可愛い女の子だったり、眠そうな顔だったり、笑っていたり、怖い顔で睨んでいたり……とにかくすごく具体的な人が、自分の演技を、いや演技している自分を観ていることを、いつも意識させられる。大きな劇場とは、観客というものの実感の持ち方が全然違う。これは大きなことだと思う。
 観客の方にしても、遠い舞台の抽象的な役者ではなく、目の前の「人」を、ずっとリアルに実感しながら芝居を観ているわけだ。汗をかいている、緊張している、役とは別に優しそうだ、神経質そうだ……。少し照れくさいような、楽しいような、怖いような、人と人とが向かい合っている気分を、観る方も演じる方も少しずつ共有しながら、劇場にいる。
 僕らはそういう気分を、あるときはすごく意識しながら、あるときは一所懸命無視して、芝居をした。〉
 こういう感覚からすると、博品館の舞台というのは自由劇場とは大きく違う空間だったでしょうね。

 やっぱりお客さんがずーっと向こうの方にいるっていう感じがあったかな。いや、今になって考えると博品館だって狭いんだけどね。そもそも『上海バンスキング』はあの地下の劇場に合わせて作ってあるから、博品館に移った時は、このセリフを言ってから次のセリフは階段のところだというシーンで、遠くて辿り着かない感じがした。笑い話みたいだけど、仕方がないから走るわけですよ。でも自分の家の中で走ってる人はいないよねって笑った。そんなことがいろいろありました。

――ステージの大きさで言うとどのぐらい違ったんですか。

 自由劇場で体に沁み込んだ移動距離の2倍くらいになった。3演目になるとだんだん博品館に慣れてきたけど、旅公演に出て、地方の公会堂とかになるともっと広いところもあった。

 そんな中で(場所が変わっても、どんなに人が集まるようになっても)「これだけはやめない」と思ったのが、お芝居が終わってからロビーで行った「送り出し」。楽器を演奏しながらお客さんを見送った。ロビーがないところでは、帰っていく観客に向かって、屋上から楽器を吹いたりもした。

――そんなかっこいいことしたんですか!

「壊し屋」

――自由劇場の改装の話に戻ります。改装を担当した建築家の斎藤義さん(斎藤憐さんの兄)が、『幻の水族館』のパンフレットの中でこう振り返っていらっしゃいます。
〈苦労の末ようやく仕上げた六本木・自由劇場の造りはちょっとしたものだった。(中略)なんとか苦心の末、プロセニアムアーチに引割りカーテン、段々の可動客席、狭いながらも音や照明のコントロール室や楽屋を設け、吸音を配慮した有孔ベニアの内装を洒落たカーキ色で仕上げたりして、まがりなりにもミニチュアの劇場らしい小屋ができ上がった。ところが、二つ、三つ、四つと色々な公演が持たれるうちにプロセニアムがなくなり、壁は剥がされ、楽屋の造作まで消えて、何年目かには天井のパイプグリットとガサガサのコンクリートのままの、ひどく汚いが頑丈な真黒い箱の空間になり果てていた。劇場づくりに情熱を傾けた駆け出しの建築屋にとっては、設計したものがどんどんはずされていくというこの経過は厳しかった。自分の苦労など全く役に立たなかったのだろうかと。しかし、考えるうちにやっと解ってきた。自由劇場の連中は、劇場らしい造りを壊しながら真の劇場とは何か、表現できる空間は何かを追求していたのだ、と。〉
 串田さん、壊し屋なんですね。

 そうね。壊し屋。『上海バンスキング』も、「それだけやっていればいい」っていう風になってくると、だんだん飽きて、繰り返しが辛くなった。でも、辛いけれど、やらなきゃいけない。だから、しばらく他のことをやったりした。『上海バンスキング』の映画版(1988年)を作ったのも、そんな時期だった。

――串田さんが関わっていない深作欣二監督の映画『上海バンスキング』(1984年)は、「知らないうちに撮影が始まっていた」とか。

 いつの間にか風間杜夫と松坂慶子の主演で撮影が始まっていた。詳しいことは知らない。ともあれ、「冗談じゃねえよ。俺が作ってやる!」と思って自分で映画を撮りました。

 あの頃は『上海バンスキング』を毎日毎日、繰り返しやって、ちょっとうんざりしていた。どうやって自分を奮い立たせようか考えないといけないくらいだった。地方公演の時に、「お前、今日おれと役を代わろう」と言って、ラリー役をやったことがあったな。

――急に違う役をやったんですか?

 そう。ガチャンコ・ラリーは体が大きくて怖い人じゃなきゃいけない。でも僕は小さいから、ピョンピョン飛びながらやった。そんないたずらをしたこともあったな。

――違う役でもできちゃうんですね、急に。ということは、その時の四郎さん役をやった人も急に代役ができたということですね。

 そうだね。あの時は誰が代わってくれたんだろう。もう何回もやってるから、どの役でもわかる。そんな感じだった。本番中も、ちょっとダラダラしてるなと思ったら、即興的にセリフを変えたりしていた。

 ロビーでの送り出しも、知られるようになると、みんないい場所で観たいから芝居が終わった瞬間にダッシュでロビーに向かうみたいなことが起きるようになった。だから、演出を変えて、最後の曲をやりながら通路を歩いていってロビーで待ち構える形にしたこともある。それでも情報を仕入れた人が芝居の途中で抜け出してロビーで待ち受けていたり、なんだかちゃんと観てもらっていないんじゃないかという気持ちが出てきた。

 タイトルだけが知られるようになって、妙なことも起きた。ロンドンを旅している時に知り合った日本人の若い女の子が「私の父はバンスキングなんです」と言う。「え? バンスキングって何だか知ってるの?」と聞くと、どうも「バンドマン」のことだと誤解していた。ちょっと芝居が一人歩きして、自分たちがやりたいことと違ってきちゃったなという思いが出てきました。そんなこともあって、『上海バンスキング』は94年にいったん封印することにしたんです。これが最後ですよ、と。

――前述の『広告批評』の取材で、評判になることの危険性を語っていらっしゃいます。
〈ひとからこれはこれこれのジャンルだって分けられない、「ありゃ、なんだ?」って言われるような存在でありたいと思うのね。
 結局ね、ものを創る人って、分けられることとの闘いじゃないかという気もするんですよね。つまり、そういう分け方に乗っちゃうと、そのときは騒がれたりもうかったりしやすいんだけれど、自分の本当にやりたいことを息長くやろうとしたら逆にやりにくくなるんじゃないかなって思う。だから「バンスキング」みたいにたくさんお客さんが入って、評価していただくのはうれしいし、ありがたいんだけど、それは同時にある危険性もつきまとうということを感じるんです。ある路線というか、あそこはこういうところだ、みたいな色づけでお客さんが来だすというのは、それが一人一人が作ってくれた分け方ならいいんだけどそうでない場合はやっぱり自分で自分をせばめていくことにもなりかねない……。だから、いまは見る人たちを、引きつけていく仕事と裏切っていく仕事の両方を大事にしていかなければダメなんじゃないかなあって気がしてます。〉
 44年前のインタビューですが、今お話しになることとまったく変わらない。ブレてない。時代の空気をとらえて、上演とともにはかなく消える演劇を「風に描く芸術」と評して、常に「ありゃ、なんだ?」と言われるようなものを生み出そうという挑戦を続ける串田さんの演劇哲学が余すところなく表れています。

 進歩がないんだよね(笑)。

(次回はBunkamuraシアターコクーンという大きな舞台をホームグラウンドにしたお話になる予定です)

映画『上海バンスキング1991』(シアターコクーンでの公演を収録したもの)の高画質DVDは2026年春にソニー・ミュージックレーベルズからリリース予定です。

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。

聞き手:草生亜紀子 
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)

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