西洋文化にも影響を与えた浮世絵
「江戸庶民文化の華」と称される浮世絵。最近では、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が新紙幣の図柄に採用され話題となっています。大胆な浪の描写が印象的なこの作品が、今からおよそ120年前、遠く離れたフランスの作曲家クロード・ドビュッシーにも影響を与えたことはご存じでしょうか。1905年に発表された交響詩「海」の初版スコアの表紙には大浪の部分が描かれており、ドビュッシーが北斎の作品から着想を得たことがうかがえます。北斎や歌川広重の浮世絵作品は、ゴッホやモネなど印象派の画家たちにも影響を与え、西欧ではジャポニスム(日本趣味)という流れが生み出されました。
世界一著名な浮世絵版画と言っても過言ではない一図。木更津あたりからの風景と考えられ、海産物を高速で運ぶ押送船(おしおくりぶね)を今にも飲み込もうとする大きな波が印象的。波頭などの細かな描写に彫師、摺師の技が光る。老舗の板元、西村屋与八より刊行。「冨嶽三十六景」は富士山をモチーフにした揃物で、ベロ藍と称された、発色の良い舶来の絵の具が用いられる。好評につき追加で10図が刊行され、計46図が確認される。
海外からの評価も高い浮世絵について、「芸術品」という印象を持つ方も多いと思います。巧みな構図や鮮やかな色彩など、現代の私たちが見ても楽しい浮世絵版画は、実は江戸時代にはメディアとしての機能を担っていました。「冨嶽三十六景」のような風景から大人気の歌舞伎や最新のおしゃれ、旅の情報や人気の小説、さらには災害や社会風刺まで、その題材は多岐にわたり、多様な情報を発信した浮世絵は庶民たちに支持されました。江戸大衆文化の代表とも呼べる浮世絵は、現代の「サブカルチャー」のような存在だったというと、分かりやすいと思います。
浮世絵をじっくり鑑賞すると、江戸時代の豊かな文化やその暮らしぶりが分かってきます。この連載では、浮世絵の持つ「情報」に焦点を当てつつ、「芸術」として評価されるほど工夫を凝らした浮世絵の表現にも注目して、作品を紹介していきます。
肉筆画と版画
浮世絵は、17世紀後半に菱川師宣により大成され、江戸の名産品として人気を博しました。師宣の代表作「見返り美人」は注文制作で一点物の肉筆画ですが、師宣は百人一首や人気の職業などを題材にした版本の挿絵や、本の挿絵から独立させた木版画も手がけ「浮世絵の祖」とも称されています。木版画には、大量生産が可能という利点があります。多くの人が同じ情報を手に入れることができる版画作品に主軸を置き、浮世絵はメディアとして発展していきました。
浮世絵版画の制作には、実に多くの人が関わります。出版社である板元(版元)が絵師に作画を依頼し、その下絵をもとに彫師、摺師といった職人の手を経て完成します。板元といえば蔦屋重三郎が著名ですが、板元たちは当時の庶民たちの需要を見据えて企画を立て、絵師もまた個性を磨きながら作品を手がけました。
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浮世絵の販売事情
それぞれの板元から売り出された浮世絵は、町中にある絵草紙屋でも購入することができました。第1回では、その様子がわかる「江戸土産之内 絵さうし見世」という作品を紹介しましょう。
絵草紙屋は、浮世絵や婦女子向けの草双紙(絵入りの小説)を販売する小売店です。この絵の上部には紺色に染め抜かれた暖簾に店名が見え、浅草蔵前にあった森本(円泰堂とも)という絵草紙屋を描いていることが分かります。店内には、遠くからでも見えるよう浮世絵版画が吊り下げられており、浮世絵師が作画を担当した草双紙の広告も確認できます。右奥から黒い前垂れをして出てきた若衆は束ねた版画を手にしており、女主人が店番をしています。蔦屋重三郎をはじめとして板元の主人は男性でしたが、女性客がよく立ち寄る絵草紙屋では女性が接客することが多かったといいます。この絵の店先にも、女性が集まっています。武家屋敷に奉公する奥女中らしき人物も描かれ、浮世絵の購買層もうかがえる表現となっています。
この絵には、実際に刊行されていた揃物が描かれています。楕円形の枠の中に人物を配した構図から、鏡の中に歌舞伎役者を描いた三代歌川豊国の「今様押絵鏡」だと分かります。安政6年(1859)に刊行が始まり、30点以上が刊行された人気シリーズです。このように絵草紙屋の図に描かれることで、宣伝効果も期待されたのでしょう。浮世絵には多岐にわたる主題がありますが、実は歌舞伎に関する作品はその数が突出しています。当時の大スターであった歌舞伎役者は、江戸中期以降には容貌の特徴をとらえた似顔絵で表現されるようになり、ブロマイドの役割を果たしました。贔屓の役者の絵姿を買い求めるファンの心理は、現在の「推し活」にも通じるのではないでしょうか。
「江戸土産之内」シリーズは、他に浅草の仲見世、吉原遊廓を描いたものが確認できる。 画中右側には『しらぬひ譚』『四谷雑談』『池園文庫』といった、浮世絵師が作画した小説の名も見える。画面中央の目立つ位置に記載される『いろは文庫』は、本図を描いた芳幾が挿絵を担当しており、特に宣伝をする意図があったのだろう。
「江戸土産之内 絵さうし見世」の店内上部に描かれると思われる、鏡の中に人気役者を描くシリーズの一つ。三代歌川豊国(初代歌川国貞)は役者絵の名手として知られた。本図は万延元年上演の歌舞伎「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」に取材し、十三代目市村羽左衛門扮する白瀧佐吉を描く。似顔表現が用いられ、腕に施された彫り物も鮮やかである。上部には羽左衛門の句も添えられている。
その他にも注目ポイントがあります。女主人の左側に、この「江戸土産之内 絵さうし見世」らしき作品が描かれているのです(拡大図参照)。板元の店先を描く作品は他にもありますが、その作品自体を画中で示す例はめずらしく、思い切った発想が楽しい一図となっています。
この作品からは、多様な情報を読み解くことができます。「江戸土産之内」というタイトルからは、浮世絵の持つ江戸の名産品としての存在価値が示されており、店頭に並ぶ作品からは歌舞伎役者の絵に加え、草双紙も人気を集めていたことが伝わります。浮世絵の情報に注目すると、当時の社会の様子を垣間見ることができます。
次回以降も、さまざまな視点で、江戸文化の奥深い世界を紹介していきたいと思います。第二回は伊勢参りをする、ある動物を描いた作品を取り上げます。
次回配信日は、10月9日です。
藤澤茜(ふじさわ・あかね)
神奈川大学国際日本学部准教授。国際浮世絵学会常任理事。専門は江戸文化史、演劇史。著書に『浮世絵が創った江戸文化』(笠間書院 2013)、『歌舞伎江戸百景 浮世絵で読む芝居見物ことはじめ』(小学館 2022年)、編著書に『伝統芸能の教科書』(文学通信 2023年)など。