「空白の7年間を追って」
境内に入った途端、にわかに風が起こった。木々がサワサワと音を立て、枝を大きくしならせている。
夕暮れどきの奈良の大安寺。そのひっそりとした境内の一角で、足が止まった。供養塔のそばにある碑文に、空海という文字を見つけたからだ。
奈良時代の南都七大寺(平城京やその周辺にあり、朝廷から庇護を受けていた大寺)の一つだった大安寺は、当時仏教の総合学問所のような役割を果たしていた寺。国内外から多くの僧が集い、最盛時の天平年間(724~749)には、887人もの僧侶が壮大な伽藍で居住し、仏教教学を学んでいたという。
碑文には、そんな活気ある様子を物語るように、錚々たる僧侶の名前が並んでいる。たとえば唐の長安、西明寺で学び、若き空海が熱心に修法した『虚空蔵求聞持法』を日本に伝えたとされる道慈や、東大寺の大仏開眼の供養会の際、導師を務めたインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)。さらに、勤操(ごんそう)という名も、空海の隣に記されていた。
奈良時代に南都六宗の一つとして栄えた三論宗の僧、勤操大徳は、空海の著作『三教指帰』の中で、
「ここに一の沙門あり、余に虚空蔵聞持の法を呈(しめ)す」
と記されている、「一の沙門」だったのではないかとされる人物。空海より20歳年上で、一説では、空海の出家剃髪を行った、いわば師のような存在だったとも言われている。
もっとも、いずれも伝承の域を出ず、「一の沙門」にしても、空海の出家にしても、いくつかの説が存在する。だが、後年空海は、勤操の一周忌に追悼文を寄せている。その中で、自身との直接の関わりは記されていないものの、勤操に対して深い敬愛の情を抱いていたことが、文章の端々から伝わってくる。
「『一の沙門』に関しては、戒明(かいみょう)だったのではないか、など諸説ありますが、いずれにしても、大安寺にゆかりのある人物だったことはまちがいないと思います」。ご住職の河野良文さんは言う。
空海が叔父の阿刀大足の導きで、当時平城京にあったとされる官僚育成のための大学に入学したのは、18歳のとき。以後、猛烈に勉学に励むものの、徐々に立身出世を目指す環境に疑問を抱き、仏道に惹かれて山林修行に身を投じていく。
奇しくも、空海が奈良で拠点にした佐伯院は、大安寺から2kmにも満たない距離にあった。
「佐伯院はもともと大安寺の寺領だった場所を、中央佐伯氏の佐伯今毛人(いまえみし)が、氏寺を建てるために買い取ったようです」とご住職。仏道に興味を抱いた空海がこの寺の門をくぐるのは、自然な流れだったと言えるだろう。
本堂から夕のお勤めをする声が聞こえてくる。その声を聞きながら、若き空海の姿を思い浮かべた。
自分の進むべき道を模索しつつ、壮大な伽藍に身を置いてさまざまな渡来の僧と交流し、生きた中国語に触れ、一方で勤操などの先人たちから教えを受け、多くの仏典をむさぼるように読み耽る。すべては想像の世界だが、後世に名を残す偉大な人物、空海にも、迷い、悩む時代があったことを、この寺は伝えている。
空海が唐に渡ったのは、延暦23年(804)、31歳のとき。もっとも、『三教指帰』を著した24歳から入唐するまでの期間は、多くの謎に包まれ、「空白の7年間」と呼ばれるほど。
なかでも最たる謎は、当時一介の私度僧(国家の許可を得ていない僧)にすぎなかった空海が、なぜ遣唐使の一員として唐に渡ることができたか、ということだ。いくら大器を感じさせる人物だったとはいえ、ある意味唐突に歴史の表舞台に躍り出た、その背景には何があったのだろう。手がかりを得るべく、大阪・和泉市にある槇尾山寺(現在は施福寺)に向かった。
標高約600mの槙尾山山頂近くに位置する槇尾山寺は、空海が延暦12年(793)、20歳のときに、勤操を戒師として出家剃髪したと伝えられてきた場所。もっとも、現在は、空海の出家は入唐の前年である延暦22年 (803) か、入唐直前の延暦23年(804)に急遽行われたとする説が有力視されている。加えて大同元年(806)の帰国後も、空海はしばらくこの地に滞在したという。
ともあれ、境内は徒歩でしかたどり着けない山中にある。まずは駐車場からなだらかな坂を登り、山門へ。
そこからひたすら自然石の階段を登った。
途中振り返ると、海が見えた。
現在の施福寺のご住職、津守佐理(つもりさり)さんによれば、この山の本来の名前は「巻尾山」。もともと奈良の巻向(まきむく)山に鎮座する穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社の神様を山頂にお招きして祀っていることから付けられた名前という。ヤマト王権時代は、この山を源とする槇尾川を下った河口(現在の泉大津付近)に重要な港があり、出航前はここで航海の安全を祈る、祈願所の役割を担っていた。平安時代初期に編纂された『日本霊異記』にも、この寺は「血渟(ちぬ=大阪湾やその周辺を指す)の山寺」と記されている。空海の時代は、港が泉大津から北の難波津に移ってはいたものの、変わらず航海の安全を祈願する場所として知られていたのだろう。
石段はさらに続いている。ほどなく、空海が出家剃髪した跡地と伝わる愛染堂が現れた。
本堂では、ご本尊の弥勒如来が迎えてくれた。左脇侍には十一面千手観音立像、右脇侍には、文殊菩薩立像も安置されている。
奥の部屋に行くと、弘法大師空海の像と、伝教大師、つまり最澄の像が、左右に相対するように置かれていた。施福寺は天台宗の寺院なのだ。
もっとも、当時この山寺に居住していた勤操は、平安の新しい仏教者に理解を示し、空海のみならず、最澄とも親交があったという。
「勤操と伝教大師が懇意だったことから、伝教大師と弘法大師も、入唐前から何らかの交流があったのではないかとも考えられるんです」と津守さん。
空海の出家剃髪は、入唐することが決まった後、留学僧としての資格を整えるためのものだったとされている。当時正式な僧侶になるには、ごく少数の者しか及第できない国家免許が必要で、空海は長らく私度僧のままだったのだ。入唐直前の慌ただしい時期に、空海が正式な僧侶になる準備を急ピッチで進めたのは、前回の遣唐使船の出航からすでに20年以上の月日が経ち、この機会を逃すと、次はいつチャンスが巡ってくるかわからないという切羽詰まった想いがあったのだろう。
考えれば空海の入唐は、自身の熱い想いに加え、遣唐使船が出航するタイミングやその情報の収集力、さらに留学僧に選ばれ、資格もすぐに取得できたという、多くのめぐり合わせがぴたりと重なって実現できたことだった。その背景には、空海が奈良で築いてきた人脈や、叔父の阿刀大足が、桓武天皇の皇子である伊予親王の侍講(家庭教師)を務めていたことも大きかっただろう。また空海の実家である佐伯家が水運業に携わっていたことも、情報収集において貢献したに違いない。
加えて津守さんは、「これは想像ではありますが」と前置きし、もし空海の入唐前に最澄との交流があったならば、最澄その人の人柄から考えて、遣唐使船の出航時期に関する情報を提供するなど、なんらか空海の力になっていたのではないか、と言う。当時仏教界の若きリーダーだった最澄は、国費で通訳を連れて唐へ行き、1年で帰ってこられる還学生(げんがくしょう)としての勅許を、すでに桓武天皇から得ていたのである。
いずれにせよ、空海は正式の長期留学僧として、20年間唐に滞在することを原則に唐に渡った。だが、密教の第一人者、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)によって、『大日経』と『金剛頂経』という、それぞれ別々のルートで中国にもたらされた両経典を体系化し、「両部」と位置づけた密教を、短期間であますところなく伝授され、わずか2年で帰国するのである。
本堂を出て、境内にある展望台から周囲に広がる風景を眺めた。大阪と奈良の県境に位置する金剛山・葛城山系が間近に見える。山伝いに行けば、奈良は思いのほか近いことに気がついた。加えて、この寺から、のちに空海が修禅の道場として開くことになる高野の山へも、直線距離にして約40kmと、驚くほど近い。そんな位置関係が頭に入ってくると、空海が帰国後この地に滞在したのは、伝承ではなく確かなことではないかと思えてきた。
空海は唐からの帰国後、すぐに入京が許されず、しばらく九州の筑紫に留め置かれたとされている。だが、1年ほどのちにはこの地に戻り、約2年の月日を過ごしたという。
おそらく当時の空海には、唐から持ち帰った密教の教えを、この日本というさまざまな祈りのあり方が積み重なる風土に合うものとして、いかに再構築するか、思索を重ねる時間と場所が必要だったはずである。
その点この地は、長年山林修行に身を投じた空海にとって、格好の場所だったことだろう。
しかも、空海の足ならば容易に行ける距離に高野の地がある。すでに平安京に移っていた京の動向も、奈良の人脈を通して探ることができただろう。
さらに、津守さんによれば、この寺からは空海の真筆とされる『御請来目録』の残欠も発見されているという。この目録は、空海が唐から持ち帰った請来品の目録で、現在は最澄によって筆写されたものだけが、京都の東寺に残っている。
「こちらの残欠も、実は伝教大師の真筆かと思うほど、すごく真面目な字なんです」
空海ほどの筆の達人であれば、さまざまな文字を書き分けることは可能だろう。だが、もしその残欠が、最澄の書いたものだったとしたら、なぜここに?
空海と最澄との交流に関して、さまざまな想像が膨らんでくる。
ともあれ、この地で思索を重ねていた空海に、京に上るよう通達が来るのは、大同4年(809)のこと。このときの太政官符は、筑紫国ではなく、槇尾山寺のある和泉国の国司宛に下されている。空海、36歳の夏のことである。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。