第1回
ヨーロッパに対するアラビア人たちの影響(2)
4
当時の東西の関係はどうだったかというと、1096年に教皇ウルバヌス2世によって第1回十字軍が始まった(-99年)。軍隊がエルサレムに向かうためには、道路の整備が必須だったはずだ。おおざっぱに言えば交通網の整備である。文化は、ローマとギリシアの事例にみるまでもなく、「東高西低」で、西欧・南欧の知識人は競ってアラビア語を学んで、ラテン語への翻訳にやっきとなった。その結果これまで知られていなかった、プトレマイオス、ユークリッド、ピュタゴラス、アルキメデス、もちろんアリストテレス等々の著作が西方で読めるようになる。この一大翻訳文化運動を「十二世紀ルネサンス」(次回、詳述)という。東方の知が学術的辺境の地であった西方の諸地域を文化的に豊かにして、日本でいう明治維新での翻訳文化と同じく、ヨーロッパでも「文明の飛躍」(伊東俊太郎)が起きる。
さて「哲学者」といえば当時アリストテレスを指したが、これは哲学が初めて独立した教育教材になったことを含意している。ラテン語に翻訳されたアリストテレスの著作集に、アヴェロエスなどアラビア人による注釈書が、曖昧模糊としていたキリスト教神学の基礎となる。大学で学ばれていたスコラ神学(「スコラ」は英語のschoolの語源)の欠陥を補填することになる。霊魂の探究を自然の究極の目的とみなし、この見地から自然そのものを種々の段階に分けて考察する、アリストテレス哲学が典型的な神学的自然観を提示していたから、大学での神学教育に都合よく、大学(スコラ)での神学・哲学教育の礎となった。
もっと具体的に述べると、アリストテレスの自然観は「目的論的自然観」といって、自然現象の生起を何らかの目的から説明するものだった。
13世紀に生まれたトマス・アクィナスは、このアリストテレス哲学とキリスト教神学との「調和」を試みる。ここに、信仰と理性の融和を謳った「スコラ神学」が誕生する(アヴェロエスの説では、信仰〈霊魂〉と理性〈真理〉はべつべつだとみなされていた)。
この神学の中心はパリ大学で、同大学神学部教授にトマス・アクィナスが在籍していた。当時の大学を中核的な専門領域で分類すると、以下のようになる。
・パリ大学―アリストテレス哲学(神学・自然学)
・オックスフォード大学―倫理学
・パドヴァ大学―医学
・ボローニャ大学―法学
3番目のパドヴァ大学は、イタリアでのアリストテレス主義の中心都市で、理性的理論に感覚的認識経験が加わって、一種の経験主義を形成した。ポーランド人コペルニクス(1473-1543年、『天球回転論』の著者)も、ベルギー人ヴェサリウス(1514-64年、『人体構造論』の著者)も、パドヴァ大学で学んでおり、なによりもかのガリレオ・ガリレイ(1564-1642年)が16世紀末期から一時期、数学科教授を務めている。
ルネサンス文化は(以後の回で綴っていくが)反アリストテレスといわれるが、その内実はアリストテレスの権威と、中世のアラビア人も含めたアリストテレス哲学の註解(者)への反抗であったものの、本当のところ、この連載の登場人物である一連の(自然)魔術師たちは最終的にアリストテレス主義を打破できず、わずかに窪みをうがったにすぎなかった。
本格的な攻撃はガリレイの数学的自然観の登場から始まる。
5
スコラ神学が中世の神学の主役となった13世紀の西欧・南欧に、イベリア半島で熟成した上述のアヴェロエスの思想が入ってくる。フランス(パリ大学)、南イタリア(パレルモからコゼンツァへ)、北イタリア(パドヴァ大学)の3(4)方向に向かう。
アヴェロエスの思想は、信仰と理性を引き離したものだったから、スコラ神学至上主義のパリ大学では異端視されて撥ねつけられる。
さて、南イタリアやシチリアは、その頃、宗教的に寛容な都市であるパレルモを(ユダヤ教のシナゴーグ、キリスト教の教会、イスラームのモスクが共存していた)首都とした、北フランスからやってきたノルマン王朝の支配下にあった(1130年、両シチリア王国=南部イタリア+シチリア)。3代100年余で終わったが、文化面では「十二世紀ルネサンス」期に当たり、繁栄を極めた。ところが3代目の善王グリエルモ2世に男子がなく、初代のルッジェーロ2世の三十路の末娘コススタンツェと、神聖ローマ帝国のハインリッヒ6世が結婚した。2人の間に生まれたのが英邁な君主で最初のルネサンス人と呼ばれるフェデリーコ(独名、フリードリヒ2世(1194-1250年)である。王の功績は絶大だった。まず、イスラーム(アラビア)文化を継承、第5回十字軍(1228-29年)を決行してエルサレムに無血入城を果たしている。ナポリ大学を創設(国立、1224年)。ゲルマン民族によるローマ帝国再建のため半島を北上して各都市を掌中に収めたが、途中で病死。王みずからが数ヶ国語を話し、文学ではシチリア派を誕生させ、これが北上してダンテらの清新体派となる。南の知が北に文化を伝えたことになる。
アヴェロエスの思想はシチリアのパレルモを通過して、カラブリア地方のコゼンツァのテレジオ(1509-88年)に受け継がれる。即ち、「世界霊魂」説を受容したがため、異端的キリスト教の立場を取ることになるが、南イタリアの、一群のこの種の思想の持ち主は回を追うごとに取り挙げていくので、次にいまでも日本で研究者がほぼ皆無である、北イタリアの「パドヴァ学派」に触れておこう。
6
パドヴァは先述したようにヴェネツイアの内陸都市である。アドリア海から入ってくる文化がヴェネツイアで陸に上がり、内陸のパドヴァで咀嚼・熟成される。1222年には西欧でも有数の伝統のあるパドヴァ大学が設立されている。アヴェロエスの「二重真理説」を受容して、「パドヴァ学派」を形成する。著名な人物はもちろん多数いるが、ここではそのなかで最も重要な哲学者で医師でもある、ピエトロ・ポンポナッツィ(1462-1525年)に登場してもらおう。
彼もアヴェロエスも医師であることが共通しており、自然科学的視点を身につけた人材だ。言うまでもなく、パドヴァ大学は医学部で名を成している。ポンポナッツィの主著は『霊魂不滅論』(1516年)である。本書は過去の学説を批判的に紹介し、それを通して人間の本質の解明に迫った著作である。
ポンポナッツィは、アヴェロエスから受け継いだ二重真理説の「二重」をこう解釈している。
1.人間が動物学的存在のなかで最高位にある、という「人間・自然学的存在」
2.人間が神的なもののなかで最下位にある、という「人間・形而上学的存在」
上記の2項目から、人間が自然と神との「中間」に位置づけられるので、人間が独特な霊魂を持つとポンポナッツィは考える。具体的には、動植物と共有する、「生理的な霊魂」と「感覚的な霊魂」。そして人間に固有な「理性的霊魂」、の3種類である。
さて、「中間」とは、人間が完全に死滅すべき霊魂の持ち主でもなければ、完全に不死的な霊魂の持ち主でもなく、両者の真ん中に置かれていて、融和・折衷の状態を保っていることを意味している。この「融和・折衷」の考えは15世紀の、プラトンとアリストテレス両哲学の融和・折衷という、当時の哲学者の最重要関心事に酷似しているが、フィレンツェ・プラトンアカデミー(フィチーノ、ピコなど)の思考形態と違って、医師らしくあくまで一現象として、他の自然現象を解明するのと同じく、信仰をまったくまじえずに、すべて理性と経験にかなうように解こうとした点に特色がある。ピコの著名な『人間の尊厳についての演説』で、「おまえ」を「この世界の中心に置いた」のは神で、いまだ中世的余韻を遺していた。
まとめてみると、人間の霊魂は可死的でも不可死的でもなく、その両方をそなえた中間的な状態にある。即ち、人間がただただ物質的な可死的な存在ではなくて、不死性をも伴った中間的な存在。人間は物質的自然とも異なった独自の存在。中世神学から解放された人間は、人間を自然と同列に置くルネサンスの自然哲学者からも離れて、独自の存在感を自覚するにいたる。
人間性を理性的に追究することによって、神とも自然とも異なる独自の人間性を顕現させる。それは、とどのつまり、人間を中心とみなす自覚を生む。
北イタリアのルネサンスは、ポンポナッツィに鑑みるに、きわめて乾いていて即物的だが、医家の観点が入ると、アヴェロエスもそうだが、こうも合理的な思量におよぶのか、とある意味で新鮮な驚きを覚える。
こうしてイタリア半島は北のパドヴァ学派と南イタリアの、世界霊魂に代表される、アヴェロエスの思想(異端的なキリスト教思想/魔術師たちの思想)に挟まれる格好になる。
〈第1回、了〉第2回の掲載は、8/27です。
参考文献
アメリコ・カストロ著、本田誠二訳『歴史のなかのスペイン』水声社,2020年
清水純一著、近藤恒一編『ルネサンス 人と思想』平凡社,1994年
ジクリト・フンケ著、高尾利数訳『新装版 アラビア文化の遺産』みすず書房,2003年
柏木 治(仏文学) (personal communication, May 12, 2021)
澤井繁男
1954年、札幌市に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
作家・イタリアルネサンス文学・文化研究家。東京外国語大学論文博士(学術)。
元関西大学文学部教授。著者に、『ルネサンス文化と科学』(山川出版社)、『魔術と錬金術』(ちくま学芸文庫)、『自然魔術師たちの饗宴』(春秋社)、『カンパネッラの企て』(新曜社)など多数。訳書にカンパネッラ『哲学詩集』(水声社、日本翻訳家協会・特別賞受賞)などがある。