京都から特急を乗り継ぎ山陰本線で城崎温泉(きのさきおんせん)へ。そこから各駅停車で40分ほど列車に揺られると、日本海を間近に望む鎧(よろい)駅に到着する。
鎧は三方を山に囲まれ、北側に小さな漁港と集落があるだけの無人駅だ。ここにはかつて、港から水揚げされた水産物を駅に運び上げるインクライン(傾斜鉄道)があり、今もその遺構がある。今回はそのインクラインと駅から眺める絶景を味わう土木旅である。
(記事内の写真は、2023年5月に撮影したものです。)
旅のポイント
💡駅に隣接した土木遺構なら遠方でも日帰り可
💡目的地の地勢を知ると旅が豊かになる
💡途中駅の車窓から見えるお宝にも注目
本日の旅程
旅程の組み立て
目的地の鎧駅までは、列車の乗り換え以外に途中下車もしないシンプルな旅程である。
7:00
東京駅から新幹線で京都へ 鎧駅は、兵庫県北部の海沿いの駅だ。新幹線で東京から京都(map①)まで行き、山陰本線の特急に乗り換える。
京都から北西方向の福知山(map②)を経由して、城崎温泉(map④)に向かうのだが、その途中の和田山駅(map③)に気になるモノがある。
※mapは記事の一番下にあります
11:15
和田山駅のレンガ機関庫 山陰本線の和田山駅(兵庫県朝来市)は、播但(ばんたん)線との合流駅だ。開業した1906(明治39)年から、蒸気機関車の拠点となっていた。1912(明治45)年には、レンガ造りの機関庫が建設されたが、その機関庫が今も土木遺構として残っている。
時間の関係で、和田山駅で途中下車はできない。幸いなことに機関庫はホームのすぐ北側にあり、視界を遮るものなく列車の中から見ることができる。
すでに現役使用はされておらず、屋根も取り払われているが、廃屋と呼ぶには美しく堂々としたたたずまいに、圧倒されてしまう。
機関庫の西側には当時使われていた給水塔が残っている。一見するとコンクリートの設備のように見えるが、実はこの給水塔はレンガでできていて、2段構造の下部には人が入れる空間がある。いつの時代かはっきりしないが、レンガの給水塔の全体をモルタルのようなもので塗り固め、現在の姿になったようだ。地味ながら、これも貴重な土木遺産なのだ。
12:38
鎧駅に到着城崎温泉で普通列車に乗り換え約40分。ようやく鎧駅に到着した(map⑤)。自宅を出たのは5時台なので片道7時間かかったことになるが、これから冒頭の写真のような絶景が眺められると思うと疲れは感じない。
そもそも、駅名の「鎧」が印象的だ。この名前はいったいどこから来ているのか。
鎧駅は入り江になっている鎧港のすぐ南にあり、鎧港の東西にはそれほどの高さはないものの切り立った崖が迫っている。東側の小山の一角には、「鎧の袖」と呼ばれる国指定の天然記念物があり、これが駅名の由来となっている。詳しい説明は省くが、『ブラタモリ』をご覧になっている方なら聞き覚えがあるかもしれない「柱状節理」や「板状節理」の崖が、武士の鎧のように見えることから名づけられたものだ。
駅のホームから東と西の方向を見ると、低山が間近に迫っているのがよくわかる。
現在の鎧駅は、1面1線といって1つのホームに1つの線路がある構造だ。鎧駅がある区間は単線なので、上りと下り両方の列車が同じホームと線路を利用している。
実は、比較的最近(2008年)まで、鎧駅は2つのホームを利用していた。次の写真、右側にかつて利用していたホームが写っている。
13:00
駅の地下道を通り絶景スポットへ海側のホームはもう使われていないのだが、今も連絡通路の地下道を使うことができる。
地下道を通り反対側のホーム側に出てきた。ホームの海側はすぐ崖になっていて、絶景を楽しめるようベンチも置かれている。
絶景ポイントになっている小さな広場からは、鎧港の様子がよく見える。碧色の海が美しく、なんだかとても懐かしい気分になる。
この駅は、それほどの知名度があるわけではないが、小説やドラマ撮影などに幾度か登場している。2001年冬の「青春18きっぷ」のポスターに採用されたのは、暮れなずむ鎧駅ホームと海の光景だった。キャッチコピーの「なんでだろう。涙がでた。」がしっくりくるのは、この地がひそやかで旅情あふれる場所であるがゆえだろう。
13:20
インクラインはどこに?ドラム缶がある場所から数m先は、何もない空間だ。もちろん、手すりなどもない。おそらく、ここにインクラインがあったのではないかと、注意しながら下をのぞき込んでみる。
あった!
写真では伝えきれないが、下をのぞき込んだとき、そのまま落ちてしまうような怖さがあり足がすくんだ。そろそろと後ずさりして、別の小道をたどり3本レールの下にある開けた場所まで行ってみた。
ここで、インクラインとはどういうものか確認しておこう。ひとり土木旅の第1回で紹介した琵琶湖疏水にも、インクラインが登場した。琵琶湖疏水には、水路に大きな高低差があるために船が航行できない場所があった。そこにレールを敷き、船を載せた台車をレール上で引き上げる仕組みをインクラインと呼んだ。
鎧駅のインクラインは、崖のような傾斜地に写真のようなレールを設置し、漁港で水揚げされた水産物を載せた台車を、山陰本線の貨車に積み込める高さまで引き上げていたのだ。インクラインが現役のときは、先ほどのドラム缶の近くに台車を上げ下げできる機械が置かれていたのだと思う。
13:50
インクラインができたワケ急傾斜の小道を降りて、漁港の入り江近く、集落がある場所まで降りてみる。
ちょうどインクラインの真下につながる場所が次のストリートビューだ。おそらく、インクラインの開始点には水産物を台車に積む作業場のような場所があったはずだが、今はそうした痕跡も確認することはできない。
中央にある木造の建物の右奥に、さきほど見たインクラインが見える(map⑦)
不思議だったのは、なぜこの場所にインクラインが設置されたかだ。鉄道が通る駅と漁港の高低差がある場所はほかにもある。でも、そういう場所にこうしたインクラインが設置されている例は少ない。私が知っている限り、鎧駅だけだ(もちろん、ほかにもあるかもしれない)。
インクラインが設置されたのは、1951(昭和26)年頃なのだが、どうもその時点では水産物を運搬する手段に「車」が利用できなかったようなのだ。貨車に積み込むにしても、水産物を車に載せて駅まで運べば効率がいい。ところが、集落から駅に向かう車道がなくては運べない。
Google Mapなどでこの地区の地図を確認すると、駅の東側に線路の下をくぐる小さなトンネルがある(map⑧)。ただしこのトンネルができたのは昭和40年代らしい。となれば、このトンネルができる以前は、集落の外部に出るには、徒歩か船しかなかったことになる。
インクラインが造られた理由は、必要に迫られ選択の余地がないような状況だったから、ということだろうか。
突堤の先には赤い鎧港防波堤灯台がある。近くに寄ると、塗り一色と思われた灯台は小さなタイル張りであることがわかる。これがまた萌えポイントなのである。
14:25
日帰りにするか、一泊するか、それが問題だ 鎧駅に戻ってきた。帰りの列車は14時30分。反対の鳥取方面に向かう列車は14時52分の発車だ。目的は果たしたので、このまま帰ってもよいのだが、鳥取寄りの1つ隣の餘部(あまるべ)には、これまた大変貴重な土木遺構がある。ただし、餘部に行ってしまうと、日帰りは極めて厳しいことになる。
どうしよう……行っちゃおうかな。
餘部と鎧は歴史的にも深いつながりがあり、そうした話もまたぜひ別の機会にお話しできればと思う。
※掲載しているタイムスケジュールは探訪時のものです。
牧村あきこ
高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/