親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞―生涯と名宝」 京都国立博物館

アート|2023.5.18
坂本裕子(アートライター)

史上最大級の規模でたどる親鸞の生涯と「寺宝」の意義

 2023年は浄土真宗の開祖・親鸞聖人(1173~1262)の生誕850年にあたる。
 これを機に、浄土真宗各派の寺院が所蔵する親鸞ゆかりの品々が京都国立博物館に集結している。
 史上最大の親鸞展「親鸞―生涯と名宝」だ。

 親鸞といえば、鎌倉時代の新興仏教浄土真宗を創始し、仏教を広く庶民に拓いた僧だが、その教えは、いまなお多くの信者を擁する真宗各派はもとより、信徒ではない人びとにも大きな影響を与えている。彼のことばを遺した『歎異抄(たんにしょう)』の口語訳や解説書は、僧侶や研究者にとどまらず、小説家・五木寛之や哲学者・梅原猛、思想家・吉本隆明も手がけ、現代ではマンガにもなっている。また、小説家・司馬遼太郎の「無人島に一冊の本を持って行くとしたら『歎異抄』だ」という言葉もあるように、愛読者も多い。

 これほどに、宗教を超え、時代を超えて人びとを魅了する親鸞その人とその思想とはどういうものなのか。

 本展は、京都・西本願寺と東本願寺、三重・専修寺が所蔵する国宝をはじめ、会期を通じて、国宝11件、重要文化財75件を含む過去最大の出陳件数の寺宝でその生涯と魅力をたどる。
 そこには、親鸞の唯一無二の根本聖典、自筆の『教行信証(坂東本・東本願寺)』と、自筆本とほぼ同時代に書写されたと考えられている西本願寺本、高田本(専修寺)がはじめて一堂に会する。親鸞直筆の書もこれまでにない数が集められて、件数のみならず、内容も空前の規模だ。

「親鸞 生涯と名宝」 会場入り口から

 会期は一部に細かく展示替えがあるも、大きく前期・後期、第1期・第2期・第3期に分かれている。現在は4月24日の前期・後期、5月1日の第2期・第3期の展示替えを合わせて55件が展示替えされた。前後期とも超名品がバランスよく配されて見どころは遜色なく、前期を訪ねた人にも改めて新しい空間が楽しめるようになっている。

 前期の展示風景とともに後期の見どころを、本展を担当した京都国立博物館研究員・上杉智英氏(以後敬称略)のコメントを交えて紹介したい。

 導入としての「第一章 親鸞を導くもの―七人の高僧―」では、親鸞が拠り所とした阿弥陀仏とその救いを説く浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)に、その教えを伝えた先達として親鸞が「信ずるべし」と讃えた7人の高僧が紹介される。

第一章 親鸞を導くもの―七人の高僧― 前期展示風景から(3月25日~4月23日展示)
光明本尊 室町時代(15~16世紀)福井・毫攝(ごうしょう)寺
名号を中心に、インド・中国・日本の高僧を左右に配したもの。修理後初出展。後期には、親鸞によって作られたとされる報恩寺本が展示されている。
第一章 親鸞を導くもの―七人の高僧― 展示風景から
左:重要文化財 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 承久3年(1221) 奈良 光林寺
阿弥陀如来立像は快慶晩年の作とされるもの。
右:『浄土三部経』の展示。

 7人の高僧とは、インドの龍樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)、中国の曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)、そして日本の源信(げんしん)・源空(げんくう、法然)。各僧の思想のポイントとともに関連する寺宝が紹介されており、名前だけではない展示で、いにしえの高僧たちにより近い印象をもって接することができるのが嬉しい。

第一章 親鸞を導くもの―七人の高僧― 前期展示風景から
親鸞が讃えた7人の高僧が紹介される空間。インド、中国、日本の国別に、それぞれの僧が、その人物を伝える一文とともに紹介され、わたしたちには遠い存在に思われがちな高僧と親鸞との関係が近しく感じられるだろう。

 本展の主となる空間が「第二章 親鸞の生涯」だ。

 親鸞は多くの著作を遺したが、自身については多くを語っていない。それを補うかのように、親鸞の没後、その弟子たちによってさまざまな伝記が編輯されてきた。
 ここでは、親鸞没後33年となる永仁3年(1295)に、曾孫の覚如(かくにょ)により編纂された親鸞伝の絵巻『親鸞伝絵(でんね/でんえ)』と関連する法宝物から、親鸞の生涯の転機となる4つのエピソード(出家得度、法然との邂逅、念仏弾圧と越後流罪、京都での往生)を追う。

第二章 親鸞の生涯 前期展示風景から
手前は南北朝時代に制作された「親鸞聖人坐像」重要文化財 親鸞聖人坐像 鎌倉時代 14世紀 新潟 西照寺(4月18日~5月21日展示)
奥は親鸞の生涯を数幅の軸絵にした「親鸞聖人絵伝」(各期で展示替えあり)。
第二章 親鸞の生涯 前期展示風景から
親鸞の生涯は、永仁3年(1295)、曾孫の覚如によってまとめられた絵巻『親鸞伝絵』に描かれたものを基本に、多くの写しが制作され、各寺に伝わっている。本展では、それらから優品が集結し、3期の展示替えで紹介される。なかでも、最終版とされる康永2年(1343)に制作された覚如の詞書の重要文化財「本願寺聖人伝絵(康永本)」は、現在展示中。
右は、焼失した初校本を元に制作されたと考えられている、重要文化財「善信聖人親鸞伝絵(高田本)」(巻第一、巻第五 (詞書)覚如筆)の展示(後期は巻五を展示)。

 親鸞は、平安時代を代表する貴族・藤原家に連なる公家の家に生まれ、9歳の時に慈鎮(慈円)のもとで出家する。

 「彼は長男で、その下に3人とも、4人ともいわれる兄弟がいましたが、全員出家しているんです。年齢を考えると本人の意志とは思えませんが、理由は分かっていません」(上杉)

 比叡山で修行するも、そこでは救いを見いだせず、29歳で下山。その後、法然上人の弟子となり、師の称える、すべての人間が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏に出遇う。元久2年(1205)、33歳の時に法然の主著『選択(せんじゃく)本願念仏集』の書写を許され、自身の名「釈綽空(しゃくのしゃっくう)」を法然に揮毫してもらう。また法然の絵像を預かり図画して賛ももらう。現代ならば卒業証書だ。

 しかし、念仏に偏ったその教義(専修念仏)は既存宗教からの弾圧を受け、師とともに親鸞も罪人として俗名を付され還俗させられて流罪となる。親鸞35歳の春だった。法然は土佐国に、親鸞は越後国に生き別れ、以後ふたりがまみえることはなかったそうだ。

 「別れた後、法然とのやり取りは残っていません。もし見つかれば世紀の大発見ですね。ただ、親鸞が法然の遺文を編集したとされる『西方指南抄』は、親鸞84~85歳の書写本が伝わっており、晩年まで法然への信仰を持っていたことを伝えます。それは弟子たちにもよく伝わっていたのでしょう。火葬後は、法然の終の棲家であった東山大谷、現在の知恩院付近に埋葬されたこともそれを表していると思われます」(上杉)

 この流罪以降、「僧にあらず、俗にあらず」として、愚禿(ぐとく)親鸞を名乗ったとされる。この非僧非俗の名乗りを図像化したと思われる有髪の姿を描いた絵像も残されている。
 建暦元年(1211)には罪を赦されたが、翌年には師・法然が京都・東山大谷で往生した。それもあったのだろう、すぐに京に戻ることはなく、関東で布教を始める。
 また、「専修念仏」に対する他宗派の批判は、親鸞の思想を深める契機となったようで、この頃に『教行信証』が書かれたと考えられている。

 還暦を迎えた貞永元年(1232)年頃に京へ戻り、以後は京で『教行信証』の増補・改訂とともに多くの書物を著し、『親鸞伝絵』によると弘長2年(1262)、90歳でその生涯を閉じた。
 その間、関東の門弟からは教義上の質問も寄せられ、それらには消息(手紙)で答えている。筆まめを感じさせるこれらの消息からは、親鸞が去った後の関東で、教義の解釈にさまざまな異義が生じていたことがわかる。
 門弟たちの動揺を収めるために親鸞は長男で弟子の善鸞(ぜんらん)を関東に派遣するが、善鸞は自身の勝手な教義を伝えて、関東の門弟をさらに混乱させたという。このため、親鸞は、善鸞を義絶(勘当)した。康元元年(1256)、親鸞84歳の悲劇もまた、義絶状の写しにより確認される。

 そして、親鸞の法語を記して、親鸞没後の誤った解釈を批判したものが『歎異抄』だ。著者は不明ながら、本展では、本願寺第八世・蓮如(れんにょ)による現存最古の写本でその原文を見られる。

 「親鸞の思想は実際、当時としてはかなり変わったものでした。直接の教えであればそれほどに誤解もなかったでしょうが、親鸞が京都に戻ってしまってからは曲解が増えていきます。『歎異抄』は、親鸞の没後に、そうした誤解を解くべく著されたものですが、教えが生活の場で実際にどのようにとらえられたのか、それが見えるところが魅力です。例えば念仏を唱えると喜びの心が湧いてくる、という教義について、弟子が湧いてこないのですが……と師に問う。こんな質問は、普通はできないですよね。未熟者と一喝されるか、禅宗であれば叩かれるかもしれない。それをまっすぐに問える環境に、親鸞の人柄が見えるでしょう。しかも、その問いに対して親鸞の答えは、そうだよね、私も湧かない、という内容だった。親鸞は偉ぶることなく、弟子と等しく、自分に対しても正直であったことを伝えるエピソードです」(上杉)

 親鸞の往生には、末娘の覚信尼(かくしんに)と息子の益方入道が立ち会ったとされる。
 『親鸞伝絵』では、鳥部野の南の延仁寺で火葬され、遺骨を北の大谷に納めたと伝える。弟子の専信と顕智が葬送に参列し、収骨したとされ、その遺物も伝来している。
 納骨された墓所には、10年後の文永9年(1272)に、覚信尼と関東の門弟によって六角形の御影堂が建てられた。この大谷廟堂が発展して、後の本願寺となる。

 「親鸞には、関東を中心に生前からかなりの弟子がいました。彼らが各地に教えを広め、継承していったのです」(上杉)

第二章 親鸞の生涯 前期展示風景から
弘長2年(1262)に親鸞は遷化し、荼毘に付されたとされる。その折に、弟子の顕智と専信が駆けつけて、人びととともに遺骨を拾い集めてその一部をもらい受けて収めたと伝えられる錦の袋と包紙(右・手前)も展示される。現在は遺骨とともに蒔絵箱に収められ、厳重に保管されている貴重な寺宝だ。

 「第三章 親鸞と門弟」では、鎌倉時代から江戸時代までに制作された有力な門弟の坐像や、肖像画を並べて朱線でつないで系譜を示す「絵系図」、親鸞の流れをくむ門弟の名を記した「交名帳(きょうみょうちょう)」などで、親鸞の教えの拡がりを見ていく。

第三章 親鸞と門弟 前期展示風景から
左:親鸞を中心に、ずらりと並ぶ有力な門弟たちの坐像。
右:親鸞聖人坐像 鎌倉時代 13世紀千葉 常敬寺

 比叡山を下りた後、救済を求めた親鸞は、六角堂に100日間の参籠を行う。95日目の暁に、救世観音となった聖徳太子から「私が妻となり寄り添って、臨終には浄土へ導きますよ」との夢告を受け、師を求めて訪ね歩いて法然に出遇い、入門して法然の説く専修念仏を徹底的に学び、自身の思想を深めていったという。
 親鸞の生涯において重要な契機となったこの体験は、『親鸞伝絵』に描かれ、親鸞の聖徳太子への信仰を伝える。

 「第四章 親鸞と聖徳太子」では、浄土真宗の寺院に伝わる聖徳太子像や、親鸞が撰述した聖徳太子を和語で讃える「和讃」にその思いを感じる。

第四章 親鸞と聖徳太子 前期展示風景から
浄土真宗の寺院に伝わる聖徳太子の木像や親鸞筆の聖徳太子を和語で讃えた和讃などに、親鸞の聖徳太子信仰を想う。
左:左手前は重要文化財 聖徳太子立像(孝養像) 鎌倉時代 14世紀 茨城 善重寺
右は親鸞筆の「皇太子聖徳奉讃断簡(第二首)」親鸞筆 鎌倉時代 13世紀 愛知 蓮開寺(3 月 25 日~ 4 月 23 日展示)(右)と、新たに発見された「浄土和讃断簡(第十三首)」(鎌倉時代 13〜14世紀)。親鸞84歳の真蹟とされる原典の上に薄い紙を重ねて敷き写ししたものの転写本と比較し近似が指摘されており、直筆か写しかのさらなる検証が待たれる一作。

 「聖徳太子は日本の仏教の祖として各宗で信仰されます。しかし、浄土宗ではあまり見られないので、親鸞にとって特別な思い入れがあったのだと思います。親鸞没後には、聖徳太子が親鸞を礼拝する夢を弟子が見たという情景が覚如の『親鸞伝絵』に描かれています。親鸞が聞いたら仰天しそうなエピソード(笑)ですが、教団の布教にあたり、聖徳太子を信仰する人びとに対して、親鸞の聖性をアピールする側面もあったのでしょう」(上杉)

 こうして学び、深めた思想を教えとして人びとに伝えるために、親鸞は最晩年まで旺盛な執筆に励み、多くの著書を遺した。『教行信証』にも多数の加筆・修正が見られ、その思索と推敲は晩年まで続いていたことを教えてくれる。

 本展のもうひとつの大きな見どころ「第五章 親鸞のことば」では、親鸞の自筆や門弟が書写した著作、関東の門弟に宛てた消息、門弟が書き留めた法語などの筆跡や遺されたことばで、親鸞の人となりに迫る。

第五章 親鸞のことば 前期展示風景から
現存唯一の自筆本とされる国宝「教行信証(坂東本)」をはじめ、関東の門弟に宛てた手紙や門弟が書写した著作など、親鸞の筆跡を堪能できる。
右:重要文化財の親鸞筆の断簡「専修寺聖教」(82点から)の展示。後期には別の断簡が展示される。

 「親鸞の直筆がここまで集まる展覧会はこれまでになかったと思います。デジタル化の進む現代では、実際に書かれているものを目にする機会は減っています。殊に寺宝などはなかなか拝めませんので、とても貴重な空間です。その筆跡とともに自らを語る親鸞の息づかいを感じてほしいです。それとともに、これほどに“遺っている”という事実を知ってほしい。800年近くの時を超えてここに在るということの意味。それは、この先にも残していかなければ、という意識につながります。存在を認識できなければ、残していくという意識も生まれないですよね。現在に享受することが同時に、未来への継承に繋がります。その点にも本展の意義があると思っています」(上杉)

 親鸞の教えは多くの人を魅了し、その没後は大谷廟堂を起点に、各地で門流が形成される。やがてそれらは組織や制度を体系化し整えられて、浄土真宗は、戦国期には教団として大きな発展を遂げる。支配者層の帰依や庇護も得られるようになると、親鸞の教えに直接かかわりのある法物(宗教的文化財)だけではなく、寄進や奉納により、多くの名宝(非宗教的文化財)も集まるようになる。

 「第六章 浄土真宗の名宝―障壁画・古筆―」では、伝来する数々の名宝のなかでも、特に堂宇(どうう・寺の殿堂)を荘厳する障壁画と、宮廷文化の粋を感じさせる一級品の古筆で、その発展を感じる。

第六章 浄土真宗の名宝―障壁画・古筆― 前期展示風景から
平安時代から明治時代まで、華やかな寺宝の数々は、浄土真宗の拡がりと現代までの歴史を改めて感じさせる。特に、美しい料紙に流麗、ときに驚くほどモダンにあしらわれた書がため息ものの平安時代の国宝「三十六人家集」(京都 西本願寺蔵、右:帖替えあり)は必見。
左:安養六種図 望月玉泉筆 明治時代 明治28年(1895) 京都 東本願寺(右)、重要文化財 桜牡丹図 徳力善宗筆 江戸時代 元和4年(1618) 京都 本願寺西山別院(左)

 「この章は、ここまでの展示空間とはちょっと異なる雰囲気になっていると思います。大きく華やかな障壁画や貴族文化の美意識と技が結集したきらびやかな古筆は、極楽浄土からの来迎が描かれない浄土真宗の図像や、ごく普通の紙に墨で書かれた親鸞の自筆とは対照的です。本展はある意味、地味で質素な展示空間が続きます。そのなかでいっとき休憩してもらう(笑)とともに、その対比を感じてもらえたらと意図しています。だからこそ、最後の7章では、ふたたび親鸞自筆、あるいは自賛の名号と肖像を提示します。親鸞の思想は、その地味な展示にこそ本質があることを感じてほしいです」(上杉)

 「第七章 親鸞の伝えるもの―名号―」では、そのタイトル通り、親鸞が阿弥陀仏の救済のはたらきそのものととらえた名号のうち、親鸞筆とされる4幅と自賛の1幅が各期に1件ずつ展示される。併せて、親鸞像のうち、名品として知られる5点がそれぞれに並ぶ。

第七章 親鸞の伝えるもの―名号― 前期展示風景から
現存4点が確認されている親鸞直筆の名号は、誰に渡されたのかははっきりとしていない。本展ではこの4点の名号と自賛の1幅が各期それぞれに親鸞の肖像画の代表作とともに展示される。まさに親鸞の思想を体現したといえる名号と彼の肖像に、改めて波乱の生涯が生み出した世界観を感じる象徴的な最後の空間。

 その深とした空間は、親鸞が生涯をかけて人びとに伝えようとした、あらゆる人に平等に拓かれた救いの思想のひとつの表象として、会場を後にする者の心に残るだろう。

 「後期は、『歎異抄』のもっとも有名な一文が記された箇所が展示されます。また、肖像画は、親鸞在世中の肖像とされる『親鸞聖人影像(安城御影)』がお目見えします。前期の初めにこの副本が展示されていました。そちらに比べると、損傷が激しく、容貌も定かには見えませんが、こちらが正本です。オリジナルの持つオーラというか、すごさを感じてほしいです」(上杉)

 大切に守られ、残されてきた貴重な法物たちが教えてくれる親鸞の人となりと想い。“ホンモノ”で感じる貴重な空間は、それを未来へと繋ぐための契機でもあることも提示する。

展覧会概要

親鸞聖人生誕850年特別展「親鸞―生涯と名宝」 京都国立博物館

開催内容の変更や入場制限を行う場合がありますので、必ず事前に展覧会公式サイトでご確認ください。

京都国立博物館
会  期: 2023年3月25日(土)~ 5月21日(日)
     ※会期中一部展示替えあり
開館時間:9:00‐17:30 ※入館は閉館の30分前まで
休 館 日:月曜日
観 覧 料:一般1,800円、大学生1,200円、高校生 700円、
中学生以下、障害者とその介護者(1名)は無料(要証明)
問 合 せ:075-525-2473(テレホンサービス)

展覧会公式サイト https://shinran850.jp

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