天職と思った家庭裁判所の職務の枠内に留まらず、地方裁判所での勤務を自ら希望した、その理由とは。
NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」の物語も中盤に入りました。
戦後、再び司法の仕事に就き、念願の裁判官になって、家庭裁判所で活躍する寅子。
別冊太陽「日本初の女性裁判所長 三淵嘉子」では、その寅子のモデルとなった三淵嘉子の生い立ち、弁護士・裁判官としての活躍、そして家族やともに働いた同僚や教え子たちの声などを紹介し、多面的に彼女の人物像に迫っています。
嘉子は、1949年に東京地方裁判所民事部の判事補に採用され、その翌年にはアメリカの家庭裁判所を視察しています。
「虎に翼」では、そんなアメリカ帰りの寅子の姿も描かれていました。
実際に嘉子が裁判官になったのは、ドラマでの設定よりは遅く、1952年、38歳の時でした。
女性法曹の第一世代の一人である嘉子は、戦後に開設された家庭裁判所で活躍する女性判事補として知られるようになり、後輩女性たちのロールモデルにもなっていました。
一方で、司法の現場はまだまだ男性が中心の社会。
女性裁判官は刑事、民事事件よりも家事に向いているとする風潮もあるなか、嘉子自身は「先輩の私が家庭裁判所にいけばきっと次々と後輩の女性裁判官が家庭裁判所に送り込まれることになろう」と、自ら、訴訟事件を扱う地方裁判所で裁判官の修業を十分に積んだ上で家庭裁判所の裁判官になろうという方針を立て、実際にその後13年あまり地方裁判所の裁判官を務めたのです。
別冊太陽「日本初の女性裁判所長 三淵嘉子」では、嘉子のそうした裁判官としての軌跡を時系列に沿って、赴任地別に紹介しています。
右は霞が関、東京地方裁判所の初代庁舎。1947年に施行された「裁判所法」により、裁判所の体制は一新された。写真提供=最高裁判所
初の地方赴任先は名古屋地方裁判所。その後、初の女性裁判所長として赴いた新潟の地。
「虎に翼」では寅子は、新潟県の三条支部に赴任しますが、嘉子が最初に地方に赴任したのは、1952年、名古屋地方裁判所でした。そして、この時に、判事補から判事となったのです。
赴任時に嘉子は、一人息子の芳武とともに名古屋に移住。芳武は当時9歳でした。
しかし、新潟という土地は嘉子と無関係なわけではなく、1972年、彼女が58歳の時に日本初の女性裁判所長として赴任したのが新潟家庭裁判所だったのです。
それは、名古屋地裁着任の20年後のことでした。
三淵乾太郎との再婚、そして三淵家の家族団欒の場となった小田原の家・甘柑荘。
名古屋は、嘉子にとって、後に再婚する三淵乾太郎との交際が始まった土地でもあります。
お互いに配偶者を亡くし、そして裁判官である二人は、1956年、嘉子41歳、乾太郎50歳の時に再婚します。
「虎に翼」では、岡田将生演じる裁判官・星航一と寅子のラブストーリーと、結婚に至るまでがどのように描かれるかは興味津々ですが、別冊太陽「日本初の女性裁判所長 三淵嘉子」には嘉子・乾太郎夫妻の新婚時代の仲睦まじい写真が何点も収録されています。
裁判官は転勤の多い職業。嘉子は新潟、浦和、横浜と各地の裁判所長を歴任し、乾太郎も地方赴任が多かったので、夫妻は長い期間、別居生活を強いられました。
また、嘉子には一人息子の芳武が、乾太郎には男女合わせて4人の連れ子がいたので、再婚後の家族生活は平穏なものではなかったようです。
その時期の家族の憩いの場所となったのが、小田原にある乾太郎の父・最高裁判所初代長官を務めた三淵忠彦が建てた家・甘柑荘(かんかんそう)でした。
建築家・佐藤秀三の設計による昭和初期築のこの家は、簡素を旨とする三淵忠彦の要望により「玄関のない、床の間のない、一切の装飾のない家」。
高台の日当たりのよい庭には、みかん、レモンなどさまざまな柑橘類や梅などの樹が茂り、毎年実をつけているそうです。
別冊太陽では、この甘柑荘も取材撮影。
嘉子の後半生における大切な場所となったこの家が、今後どのようにドラマで描かれていくのか楽しみです。
日本初の女性裁判所長 三淵嘉子
2024年春のNHK連続テレビ小説「虎に翼」のヒロインのモデル・三淵嘉子(1914〜84)。日本初の女性裁判所長の果敢な生涯をたどる。
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