昭和初期の法曹界から始まる物語
現在放送中のNHK連続テレビ小説「虎に翼」。
昭和初期の東京で、女子が初めて入学できることになった法律の専門学校・明律大学女子部に入学し、法曹界を目指す猪爪寅子(いのつめ・ともこ)が、その主人公です。
寅子のモデルとなったのが、日本初の女性弁護士となり、その後裁判官に、そして日本初の女性裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ/1914〜84)です。
別冊太陽「日本初の女性裁判所長 三淵嘉子」では、その生い立ちから学生時代、弁護士、裁判官になってからの法曹人としての人生、私生活までを、数多くの写真や資料、本人を実際に知る人々への取材などをもとに追っています。
追悼文集『追想のひと 三淵嘉子』より。
男女同権ではなかった明治憲法下
1914(大正3)年に生まれ、東京・山の手の家庭で育ったお嬢様だった嘉子は、女子のための法律専門学校に入り、弁護士、裁判官への道を自ら切り開いていきました。
彼女の人生の前半は、男女同権ではなかった明治憲法下。戦後、日本国憲法が公布・施行されて初めて、嘉子が当初に志した裁判官になるという道が女性にも開けたのです。
嘉子の文章「私の歩んだ裁判官の道」には、自身の言葉で、学生時代、弁護士、裁判官になってからの、自らの心境、彼女を取り巻いた環境が語られています。そのドラマチックな人生を知れば、朝ドラの主人公になるべくしてなった人物であったことが理解できます。
開校間もない明治大学専門部女子部法科
超難関校であった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学・高校)に学んだ嘉子は、海外赴任を経験し、先進的な考えを持つ父親に「女でも、専門の仕事を持つべきだ」と言われ、法曹界を志して、開校したばかりの明治大学専門部女子部法科に入学します。ドラマでは明律大学女子部として寅子の学ぶ学校のモデルとなっています。
本誌では、嘉子の出身校であり「虎に翼」の法律監修も務める明治大学の法学部教授・明治大学史資料センター所長の村上一博氏が、女性法律家への道が日本国内でどのように開かれてきたか、そして嘉子が学んだ明治大学専門部女子部の成立過程やその授業内容、そこで学んだ女学生たちなどについて執筆しています。
右:1929(昭和4)年の設立年における明治大学専門部女子部校舎。写真提供=明治大学史資料センター
ドラマで描かれる学生街
明治大学専門部女子部設立の時代的背景や、女子学生の年齢や出身などの構成、卒業後の進路、活躍などを知ることで、モデルとなっている明律大学女子部についての理解も深まるでしょう。
「明治大学が一九二九(昭和四)年に、法律・経済という社会科学の分野で、女性に門戸を開いたのは、女性の社会的地位の向上に理解を示した教員たちの存在があったからである。
東京帝大教授(明大でも教鞭を執っていた)で自由主義的家族法学者として知られる穂積重遠(しげとお)、明大教授で憲法学者の穂積の見解に共感していた松本重敏、男子貞操義務判決などで知られる元大審院長で明大学長であった横田秀雄がその中心であった」
(「明治大学専門部女子部 女性法律家の登竜門となった新時代の女子専門学校」村上一博より)
「虎に翼」で小林薫が演じる法学者・穂高重親のモデルは穂積重遠だろうか? など、ドラマを見る楽しみも膨らんでいきます。
さらに、女学校、明治大学専門部女子部、明治大学法学部と、嘉子が計10年もの間学生時代を過ごしたのが、お茶の水、駿河台界隈。
「虎に翼」でも、寅子たち女子学生が甘味処であんみつやみつまめを食べながらおしゃべりする場面がたびたび登場しますが、実際に嘉子も、この神田界隈で友人たちと甘味処に立ち寄るのを楽しみにしていたそうです。
当時の街並みを思い浮かべることができるマップや、戦前から続いている老舗の紹介記事などは、ドラマで寅子が歩いた学生街を想像しながら散歩するのに絶好のガイドとなっています。
女性の置かれた社会的状況を問う
昭和初期には稀有な、法律を学ぶ女子であった寅子は、女性の置かれた社会的状況にいちいち「はて?」と疑問を持ちます。そんなドラマの展開はジェンダー平等であるはずの現状への疑問を呼び起こす契機ともなります。
制作統括であるNHKの尾崎裕和氏へのインタビューでは、三淵嘉子という人物を主人公のモデルに選んだ経緯や、このドラマにかける意気込み、制作意図、見どころなどをうかがいました。
ドラマの内容を追うにつれ、モデルとなった三淵嘉子本人への興味もかきたてられます。日本の女性法曹の先達となった人物の生き方と時代背景を知ることで、「虎に翼」を見る楽しみもより深まっていくでしょう。
日本初の女性裁判所長 三淵嘉子
2024年春のNHK連続テレビ小説「虎に翼」のヒロインのモデル・三淵嘉子(1914‐84)。日本初の女性裁判所長の果敢な生涯をたどる。
詳細はこちら