#2  えちごトキめき鉄道の駅を訪ねて(前編)│〈特濃日帰り〉ひとり土木探訪記。

カルチャー|2022.12.28
写真・文=牧村あきこ

日本海の難所、克服の軌跡を探しに

 「親不知(おやしらず)」という地名を耳にされたことがあるだろうか。新潟県糸魚川市の青海(おうみ)から市振(いちぶり)あたりまでの地域を親不知と呼ぶ。荒波が押し寄せる日本海と北アルプスの北端が間近に迫る地形は、平地と呼べる部分がほとんどなく、古くから交通の難所として知られる地域でもある。
 そんな厳しい場所であっても、はるか昔から人々は道を切り開き、車の行きかう道路を造り、トンネルを掘って鉄道を通した。

 今回は、えちごトキめき鉄道の3つの駅で下車し、この交通の難所における克服の歴史跡を追う。

旅のポイント(前編)

💡親不知駅周辺の地図から、道路・鉄道の位置関係を事前に把握
💡交通量の多い国道8号は最新の注意を払って歩道を歩く
💡水際ぎりぎりの場所でせめぎ合う道路事情を観察
💡親不知漁港から第4世代の北陸自動車道を眺める
💡お昼は漁港近くの道の駅で
💡市振駅にある古いランプ小屋、堅牢なレンガ造りをチェック

本日の旅程(前編)

6:53 北の玄関口、大宮駅から出発
9:02 糸魚川駅乗り継ぎであわや乗り遅れ。車両の短さに注意!
9:13 親不知駅に到着。自由時間は3時間
9:26 道路と鉄道が交差するカオスな空間を通過
9:33 日本海の海の青さを堪能しつつ、国道8号を歩く
10:13 親不知漁港から北陸自動車道を眺める
10:44 翡翠餃子で少し早い昼食
11:50 親不知駅に戻る
12:15 市振駅に到着
12:20 明治の片鱗を残す古い駅舎の市振駅

6:53 北の玄関口、大宮駅から出発

 私は埼玉県民なので、東日本方面へ出かける場合、大宮駅から新幹線に乗ることが多い。一昔前なら北の玄関口と言えば上野駅だった。しかし、今や大宮は東北・秋田・山形・上越・北陸の実質5種類の新幹線が発着していて、新幹線のハブターミナルなのである。

9:02 糸魚川駅乗り継ぎであわや乗り遅れ。車両の短さに注意!

 北陸新幹線のはくたかに乗車し、糸魚川駅で下車する(map①)。ここでえちごトキめき鉄道に乗り換えるのだ。私の母は糸魚川の生まれである。小さい頃はちょくちょく里帰りをしていたので、私にとって田舎といえば糸魚川であり、ルーツとも呼べる場所だ。フォッサマグナだって知っている。あんまり詳しくないけれど(笑)。
※mapは記事の一番下にあります

 乗り換えには十分な時間があったのだが、ホームでの立ち位置を間違えてしまった。なんだか列車がこないなーとホームの富山寄りでぼーっと立っていたら、同じホームの新潟寄りの位置にとっくに入線していて、発車数分前に気が付くという凡ミスを。
 間に合ってよかったけど、こういうことはわりとあるので、発車ホームにいるからといって油断はできないのである。

えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン。泊(とまり)駅行きの列車が停車中

9:13 親不知駅に到着。自由時間は3時間

 糸魚川から親不知までは10分ほど。途中駅は青海(おうみ)の1つだけだ。ホームから海が見える駅として有名な青海川駅は、70kmほど新潟寄りにあるJR東日本信越本線の駅で、青海駅とはまったく別の駅である。青海駅のある青海は父の生家で、子供のころから「おうみ」と音だけ認識して育ったけれど、あらためて漢字をみると綺麗な名前だなと思う。

そんなこんなで、ほどなく親不知駅に到着(map②)。

北陸新幹線が金沢まで延伸開業した際に、並行在来線のこの区間はえちごトキめき鉄道に移管された

 ここで、親不知駅周辺の地形と道路・鉄道状況をチェックしておきたい。下の画像は親不知駅周辺の国土地理院の地図である。日本海と山が近接して、親不知駅を取り囲む平地は幅100mほどしかない。その狭い場所にぎゅうぎゅう詰めになって、山側から旧道、鉄道、国道、北陸自動車道が並行して走っている。しかもである。北陸自動車道はなんと海岸線をはみ出しているのだから驚きだ。

 親不知駅を出て旧道を東に歩き、国道8号に合流した後は西方向にある親不知漁港まで行き、道の駅でご飯をたべて駅に戻る。往復3~4kmの距離だが、写真を撮りながら、途中で早めの昼食をとる予定なので、3時間あってもそれほどのんびりはしていられない。気合をいれてまいりますよ。

親不知駅地図。旧道(黄線)、国道8号(赤線)、北陸自動車道(緑線)

9:26 道路と鉄道が交差するカオスな空間を通過

 南側にある駅の改札口を出て、駅前の道を東に進む。小さな川を渡って左折し、北陸自動車道の真下をくぐる(map③)。子不知(こしらず)トンネルを抜けてすぐの北陸自動車道と、旧道・国道・鉄道が交差するカオスな場所であり、この場所になんとか交通路を確保しようとした苦闘の跡でもある。

一番高い場所を通るのが北陸自動車道(①)。その下をパズルのように、旧道と国道8号の合流点(②)、国道8号(③)、えちごトキめき鉄道(④)が通る

9:33 日本海の海の青さを堪能しつつ、国道8号を歩く

この付近の国道8号は、海岸線ぎりぎりのところを通っている。国道の歩道から海側を見下ろすと、消波ブロックの先に澄んだ青翠色の海が見える。

一歩進むごとに水深が深くなる親不知の海

 国道8号の歩道を富山県の方向に歩き始める。北陸自動車道が海側にゆるやかに弧を描き、橋脚は海中に立つ。この日は夏の終わりの快晴、空の青が海に映り、海の青さが橋脚の一部を青く染めていた。

写真左手に親不知の駅がある

 訪問時は、国道8号線の架け替え工事が行われていた。すでに新しい道路はできていて、古い道路の解体が行われている最中だった(日曜日なので工事はお休み)。橋桁を撤去し、足場を組んで橋脚のひとつひとつを解体撤去するのだろう。土木関係の専門家の方が、「インフラは、作るだけでなく保守と撤去もセットで考えなければいけない」とおっしゃっていた言葉を思い出す。

古い国道の橋脚は海岸線ぎりぎりに立っていたことがわかる
解体前の橋脚。すぐ後ろにはまだ橋桁が載った橋脚も見える

10:13 親不知漁港から北陸自動車道を眺める

 親不知漁港までは駅から2kmほど。普通に歩けば30分ほどの距離なのでたいしたことはないのだが、8月終わりとはいえ照り付ける太陽に汗が吹き出してくる。気温は30度にはならない予報だったが、ちょっとなめていた。暑い! 暑いぞ!

 汗だくになりながら、なんとか親不知漁港に到着(map④)。

 漁港の堤防からは海岸線を通る北陸自動車道がよく見える。1988(昭和63)年に開通した、この地の第4世代と呼ばれる日本海側の大動脈だ。

北陸自動車道の道路が下方に円弧を描いているあたりが親不知ICだろうか

 北陸自動車道が開通する前の主要道路は、1967(昭和42)年に全線2車線で開通した国道8号線(第3世代)だ。北陸自動車道が開通した後も、主要な幹線道路として活躍している。

 ちなみに、第3、第4世代があるのだから、当然第1と第2があるはずだ。

 第2世代は、親不知駅の南側を通る道で、1883(明治16)年に人力車も通れる国道として開通している。国道8号に出るまで歩いてきた道である。
 では第1世代の道はどこに? 答えは下の浮世絵の中にある。

歌川広重の「越後親しらず」。「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」収録(国立国会図書館蔵)

 浮世絵には、旅笠をかぶった人々が海岸沿いを歩く姿が描かれている。切り立つ断崖と海の間にあるわずかな海岸線が第1世代の道だった。悪天候ともなれば命がけだったに違いない。

 第1世代から第4世代までの道路が一望できる空撮写真を見たことがある。古からの交通の難所だからこその新旧共存で、それだけ特別な場所ということなのだろう。

10:44 翡翠餃子で少し早い昼食

 親不知漁港の隣には、道の駅「親不知ピアパーク」がある。日曜だがお昼には早い時間なので食堂はガラガラだ。翡翠餃子の定食があったので、美味しくいただいた。
 ちなみに、糸魚川市は翡翠の産地として有名だ。小さいころに祖母が、「庭の大石を割ったら中に翡翠があるかもしれん」という言葉を真に受けて、なんとか中が見られないかと思っていたことが懐かしい。

あちこち向いている翡翠餃子。もちろん翡翠が入ってるわけじゃない。わかめとかほうれん草などを皮に練りこんで翡翠色にしているのだろうか

11:50 親不知駅に戻る

 腹ごしらえを終えて、第2世代の旧道を歩き親不知駅まで戻ってきた。

 親不知駅は1912(大正元)年に開業し、駅舎はおそらく当時のものを修繕して使っていると思われる。2021年の1日の平均乗車人員は10人。海辺にある静かな無人駅だ。

ホームから駅舎を撮影。屋根にある金属の輪(緑丸)は、雪下ろし時の命綱を結ぶための金具だ

12:15 市振駅に到着

 親不知駅から列車に乗り、一つ隣の市振駅へ。市振は、えちごトキめき鉄道とあいの風とやま鉄道が乗り入れる境界の駅である(map⑤)。もともとは同じ北陸本線だったので、違う鉄道会社といってもなんだかピンとこないのだが、これも時代の流れなので仕方ない。

市振駅もホームから海が見える
市振漁港の白と赤の防波堤灯台が見える。灯台の色は港の奥に向かって左が白、右が赤と決まっている

 市振駅に来た目的は、ホームの脇にあるレンガ造りの倉庫を見るためだ(map⑥)。市振駅の駅舎が竣工したのは、駅として開業する4年前の1908(明治41)年で、これはその時に設置された古いもの。照明用のランプや燃料などの保管庫として利用されたため、ランプ小屋とも呼ばれている。屋根は新しく葺(ふ)き替えられているように見える。
 各地に残るランプ小屋を見るたびに、「三びきのこぶた」の絵本を思い出す。狼に壊されることのない堅牢な造りの建物なのだ。

ホームから見えるランプ小屋。ホーム側に出入り口の扉がある
道路側から撮影。レンガは明治~昭和初期の建物によく見られる長短レンガを一段おきに積み上げるイギリス積み

12:20 明治の片鱗を残す古い駅舎の市振駅

 親不知駅と同じく市振駅も1912(大正元)年に開業した。実は駅舎自体はその4年前、1908(明治41)年に建てられている。この当時、北陸本線を富山から糸魚川方面に延伸するにあたり、通行難所の親不知子不知の断崖絶壁が15kmも続くため、回避するためのトンネル工事が必要だった。市振駅の駅舎はトンネル工事の基地としての役割もあったのだ。

長い庇(ひさし)やそれを支える木造の柱、壁の下半分に板が貼られている腰壁など、この時代の駅舎の特徴がよく表れている
駅舎の中からホーム越しに水平線と海が見える

 市振駅で50分ほどのんびりしたあと、今度は逆方向の列車に乗って筒石駅に向かうことにする。地下トンネルの中にある衝撃の駅の全貌は次回をお楽しみに!

後編に続く

*掲載情報は探訪時のものです。列車の時刻などはダイヤ改正などにより変更されている場合があります。

牧村あきこ

高度経済成長期のさなか、東京都大田区に生まれる。フォトライター。千葉大学薬学部卒。ソフト開発を経てIT系ライターとして活動し、日経BP社IT系雑誌の連載ほか書籍執筆多数。2008年より新たなステージへ舵を切り、現在は古いインフラ系の土木撮影を中心に情報発信をしている。ビジネス系webメディアのJBpressに不定期で寄稿するほか、webサイト「Discover Doboku日本の土木再発見」に土木ウォッチャーとして第2・4土曜日に記事を配信。ひとり旅にフォーカスしたサイト「探検ウォークしてみない?」を運営中。https://soloppo.com/

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