撮影:串田明緒

串田和美 自由の練習帖

夢のようだった成蹊学園時代

カルチャー|2025.10.15
聞き手=草生亜紀子

 1942年東京・麹町に生まれた串田和美さんは、山形での疎開生活を経て、戦後は家族と共に今の三鷹市で新たな生活を始める。そして1949年、子どもの足で家から歩いて30分ほどの成蹊学園の小学校に入学した。これはおそらく、父・孫一さんの叔父(孫一さんの母フミさんの弟)である今村繁三氏が成蹊学園を創立した中村春二氏を支援し続けたことと関係している。成蹊学園のホームページによると、中村氏は高等師範学校附属学校尋常中学科に在学中、「生涯の親友となる今村繁三と岩崎小弥太」に出会う。そして、「当時の画一的教育や教育機会の不均等に疑問を持った中村は、今村・岩崎両氏の支援のもと」、1906年、成蹊学園の前身となる学生塾を開設した。岩崎小弥太氏は三菱財閥の4代目総帥。今村繁三氏は鉄道王と呼ばれた今村清之助の長男で、父の遺した今村銀行(のちの第一銀行)を引き継いだ。繁三氏は1919年から成蹊学園の理事を務め、35年には成蹊高等女学校(のちに成蹊学園に吸収される)の理事長を務めていた。中村春二氏は「大正自由教育の旗手」とされ、教育理念として「個性の尊重」を掲げたという。小学校から高校までを成蹊学園で過ごした串田さんは、「今振り返ると夢のようなところだった」と言う。それは、どんな学校生活だったのだろう?

1953年の成蹊学園全景。写真提供:成蹊学園

自宅敷地内を電車が走っていた「国分寺のおじさん」と成蹊学園

――串田さんが成蹊に行かれたのは、今村家と関係があるのですか?

 そうかもしれないけど、ぼくはよく知らない。行けって言われて行っただけだから。今村さんのことは「国分寺のおじさん」と呼んでいたけど、なんでも自宅の敷地内を国鉄(現JR)の電車が走っていたという話だった。今村家は兄弟が多くて、成蹊にも親戚にあたる人が結構いたようだけど、あんまり関心がなかったからよくわからない。

――小学校で観たお芝居の思い出を、以前書いていらっしゃいます。

 低学年の時にプロの劇団がやってきて、学校の講堂でそのお芝居を観た。講堂は、天井がやけに高い古い建物。そこに舞台を作って、1年生から3年生くらい、全学年は入れないから半分くらいが一緒に観たんじゃないかな。動物たちが中世っぽい衣装を着て、悪いことをしたオオカミを懲らしめるという話。冠をかぶったライオンの王様や、ずるいキツネとか、いじめられるウサギが出てきて、裁判みたいな話だったように思うけれど、筋はあまり記憶にない。テレビもない時代、扮装した人が動く姿なんてチンドン屋くらいしか見たことがなかったから、キラキラしてとてもきれいだなと感動した。

 強く印象に残っているのは、カーテンコールの時のこと。役者たちがひとりずつ前に出てきて拍手を浴びる。その列のいちばんうしろにオオカミ役の人がいた。ぼくはひとりひとりに拍手を送りながら、オオカミの様子をチラチラ見ていた。すると、オオカミはなんだか俯いている。今考えれば、ちゃんと演出されていたと思うけれど、オオカミは子どもたちに嫌われたと思っているような恥ずかしそうな感じで俯いていた。

 ぼくは「みんなオオカミのことが嫌いだろうな。でも、あの人がいちばん良かったんだよな」と心の中で思ったんです。「悪い役だけど、その人の芝居が良かったから全体が良かった。みんなにはわからないかもしれないけれど、ぼくはあの人の番がきたら絶対に拍手するぞ。みんなはしないかもしれないけれど、ぼくは拍手する」と決めた。その人の番が近づいてくると心臓がドキドキしてきた。拍手するのがぼくだけだったら恥ずかしいと思って。「なんだよ、串田」とか言われるかなと。

 でも、その人が前に出ると一斉に誰よりも大きな拍手が起きて、ぼくはびっくりした。「あー、みんな同じことを考えていたんだ」と思うと、名前も知らない他のクラスの子も含めて、いっぺんにみんなのことが好きになった。「うわあ、みんないいなー」と思って。それが、ぼくの最初の芝居の記憶です。

串田さんがお芝居を観たであろう講堂。写真提供:成蹊学園

――低学年で「この人の芝居が肝だ」なんて、よくわかりましたね。オオカミさん、際立っていたんですか?

 いや、その人が際立っていたというよりも、「悪い役をやるって大変だな」って思ったのだと思う。今は、悪役の方がかっこいいと思うかもしれないけど、あの時は子ども心に「悪い役はみんな嫌がるんだろうな」と思ったんだろうな。

 でも、芝居体験といえば、それ以前にひとつ大きな出来事がありました。終戦直後の1945年秋、疎開先の山形で3歳の時におにぎりを持たされて観た村芝居が原体験とも言うべきもので、今の自分の演劇観に大きな影響を与えている。小さかったから芝居の内容はまったく覚えていないし、近所のお百姓のおばちゃんに連れていってもらったから、親も何を観てきたか知らない。何も記録がない。でも、サムライみたいな人が登場して、まぶしい裸電球の下で、手探りのおかしみみたいなものを見せていた。歌舞伎で言う「だんまり」みたいな無言劇だったんじゃないかな。でもお芝居以上に強く印象に残っているのが、舞台を観ているお客さんの表情とか山形弁の混じった笑い声。それがすごくおもしろいと思った。ほとんど何も覚えていないんだけれど、その匂いのようなものと共に客席の様子は鮮明に記憶に残っている。だから今でも、観客の存在を演出の中に入れたいという気持ちが自分の中にあるのだと思います。そのあと、やたらとラジオから聞こえる芝居っぽい言葉を真似していたと親から聞いた記憶があります。「貝を耳にあててな、おいおいとは麿のことかや?」みたいな訳のわからないことを言っては芝居っぽい仕草をしていたらしい(笑)。インチキな物売りの口上も大好きだった。

 あ、もうひとつ思い出した。疎開先で撮った古い写真に「はりはり」と呼ばれる張り子の犬の横に着物姿の小さな子どもが立っているのが写っていて、誰かと聞いたら、歌舞伎俳優の子どもだという。孫一さんの親父さんの萬蔵さんは銀行家として、どうやら歌舞伎界の人を贔屓にしていたらしい。後から聞くところによると、美枝子さんと結婚する前の孫一さんに梨園のお嬢さんとの縁談が持ちかけられたこともあったらしい。運命っておもしろい。もしその縁談が実っていたら、ぼくは歌舞伎の世界にいたのか、それともそもそも存在しなかったのか?

芝居はいろんな人がいて成り立っている

――以前に書かれたもので、学校の授業で「時計」のお芝居をみんなでやった時の話が印象的でした。

 小学3年生の時だったかな。時計を大事にしない子どもがいて、みんなが寝静まった夜に「1時さん」とか「6時さん」といった時間たちが時計から出てきて文句を言うみたいな内容のお芝居をやったんだけど、役に就かなかった生徒は「アトリエ」で道具を作る。アトリエは前に話した同級生の丹波君が黄色と黒の縞模様のビーナスを描いたところでもあるんだけど、小学生が図工の時間に使ったり、放課後は高校の美術部が使ったりするみんなの制作室。ぼくは「3時さん」担当で、時計を作る生徒らと一緒にアトリエで3時さんが胸につけるプラカードを作ることになった。古いボール紙に描いたから、「3の文字のまわりは白く塗った方がいいかなあ」とか工夫しているうちに、気づくと残っているのは自分ひとりになっていた。みんなはさっさと描いて帰っちゃった。

1955年ごろの小学6年生の美術の授業。おそらくアトリエ。写真提供:成蹊学園

 発表会当日、お芝居が終わってから教室で「誰々君、良かったねー」なんて感想を言い合っている時に、美術の太田先生が、「みんなよくやりましたね。でも、芝居というのは、表に見える人だけで作っているんじゃないんですね」というようなことを訥々と話し出した。「お芝居はいろんな人がいて成り立っているんですよ。串田君は芝居に出ていなかったけれど、自分が担当した3時さんが出てくると、ちょっと背伸びして心配そうに見ていました」みたいなことを言ってくれた。名前を出されてちょっと恥ずかしい気持ちになったこともあって、そのことをずっと覚えていた。確かに芝居は演じる人がいれば、観る人がいて、台本を書く人もいれば、照明を当てる人もいる。そのことを知った経験でしたね。演劇に関して言えば、これがふたつ目の経験で、次が中学の新入生歓迎会です。

「その匂いを嗅いだらもうやめられないんだよ」

――1996年に出された著書『幕があがる』にも書いていらっしゃいますが、これまたすごい話ですよね。

 そう。中学に入学してすぐの新入生歓迎会。演劇部が昔話の『うりこ姫とあまのじゃく』という芝居を上演してくれた。

――うりこ姫は、のちに女優になる長山藍子さん。

 1学年上に長山さんがいた。かぐや姫のような着物をまとって、「きれいだなあ。やっぱり小学校とは違うなあ」と思いながら観ていた。すると、客席の後ろから「やめろー」とか「くだらねー」っていうヤジが飛んできた。「わ、中学には怖い人がいるんだ」と思っていたら、その人が舞台に上がってきて「やめろよ、こんなのくだらない」って言い始めた。それが、(のちに俳優になる)山本圭さん。今ならおかしいって気づくけど、中学生になったばかりのぼくには訳がわからない。驚いているうちに、今度は先生まで舞台に上がってきて、「君は役に就けなかったから、そんなことを言うんだ」とか言い出す。でも、よくよく見ると、先生の背丈が生徒と変わらない。言葉もちょっとセリフっぽい。最後に先生が「君がいちばんあまのじゃくだ!」と言うのがオチになっていた。そこで初めて、全部が芝居だったとわかる。びっくりしたし、そういう二重構造の芝居があることを知って、「すげーっ!」と思いましたね。それで隣に座っていた人とすぐさま演劇部の部室に行きました。

 部室に行くと、机の上に小さな缶がポンポンポンと置いてあって、「何だろう」と思って開けたら赤とか青のドーランが入っている。椿油みたいな不思議な匂いがした。それを嗅いでいたら、後ろから「その匂いを嗅いだらもうやめられないんだよ」と声をかける人がいる。振り返ると、ちょっと背の高い色白な悪魔みたいな人が立っている。それが、演劇部顧問の松田先生だった。

 この先生は普段は国語の先生なんだけど、文化祭になると顔を白塗りにして、上半身裸か何かで黒タイツを履いて、ひとりでパントマイムとかやっちゃう変わった人だった。後になって知ったのは、先生になる前に劇団民藝の研究生だったらしいということ。芝居が好きで、演劇にすごいこだわりがあった。おそらく演劇の道を諦めて学校の先生になったんだろうね。だから文化祭では生徒に混じって何か演じていたのかと思う。演劇部の顧問としてドーランの匂いを嗅ぎ続けている。いろんな思いがあったんだろうと思うと、ちょっと哀しいよね。

――松田先生にはいろんなことを教えられたんですか?

 そうでもない。自分たちで勝手にやっていた。むしろ先輩たちがいろいろ教えてくれた。長山さんは1年上だったから、時々一緒に芝居をしました。(のちに劇作家になる)斎藤憐も上の学年にいたんだけど、彼は役者じゃなくて裏方だった。山本圭とは文化祭で『3人の盗賊』という芝居を一緒にやった。鋳掛屋、キリスト、ピッコロっていう3人の盗賊がいて、鋳掛屋が東野英心(NHKの『中学生日記』などに出演していた俳優。水戸黄門を演じた東野英治郎の息子)、キリストが山本圭で、ピッコロがぼく。大きなお屋敷に盗みに入ったら、そこに3人の娘がいて、それがみんなちょっとおかしい。「よくいらっしゃいました」って歓迎する人がいたり、「あのお姉さんはおかしいから信じちゃダメ」って言ったりして、盗賊の方が翻弄される話だった。

『3人の盗賊』舞台中央が串田さん。奥に見える「キリスト」が山本圭さん
終演後の記念写真。後列右が串田さん

 とにかく、高校時代は演劇部と山岳部と美術部を掛け持ちでやっていたから、もう本当に忙しくて、勉強なんかしてる場合じゃなかった。

――よくそれだけ掛け持ちができましたね。

 授業行かないもん(笑)。落第したくないから、出席だけはきちんとする。でも、出席とったら、その後逃げる。教室が1階の時は、窓から飛び降りていた。

 当時、中村草田男(注・「降る雪や明治は遠くになりにけり」で知られる俳人。成蹊大学名誉教授)が 国語の先生だった。当時から「俳句で有名な人らしい」くらいのことは聞いていた。でも、授業は退屈だった。きれいな字でゆっくり板書するから、黒板に向かうと長いことがわかっている。それが逃げ出すチャンス。「あ、先生が黒板に向かった」と思うと、1階の教室の時は窓からぴょんと飛び降りる。第1段階は、窓の下の植え込みに隠れる。しばらくそこで静かにしていて、また先生がチョークを持って板書すると思うと、今度は広い校庭を一気に突っ走る。校庭の向こうにはアトリエがあったからその陰に隠れた。いつもそうやってサボっていた。今思えば、ちゃんと聞いておけばよかった。そうしたら、「中村草田男に習った」と自慢できたのに、もったいないことをした。

 成蹊は自由な学校だったけど、よく生徒を落第させた。でも、みんな平気だった。ぼくは勉強しなかったけど、1学年下の弟と同級生になるのは恥ずかしいと思ったから、ギリギリだったけど落第は免れるよう頑張った。でも上級生だった人が隣に座っていても下級生になっても、大して気にしなくて大らかだった。夢みたいな学校だったね、今思うと。

 書道部のキャプテンっていうのがいて、すごくきちんとしてる。詰襟の制服も前を開けたりしないで、きちんと着て、帽子もちゃんとかぶっている。優等生みたいに難しい中国の漢字とか書いてる。でも、字ばっかり書いてるから落第しちゃった。落第する人は、勉強ができないというより、何かに没頭してる人というイメージがあった。その没頭していることが意味のあることかないことかなんて、大人になるまでわからない。そういうことを大らかに許容する空気があの学校にはあった。だから、ちょっと変わった人がいっぱいいた。生徒のくせにいつもパイプを咥えて自転車に乗ってる人がいる。弁論部の人で、先生に注意されると「タバコを吸ってるわけじゃない。パイプを咥えたらいけないって規則があるんですか?」なんて反論して先生を黙らせちゃう。でも、本当は刻みタバコの缶も持ってるし、見えないところでタバコは吸っていたんじゃないかと思うけど。

 他にも、ひとりで制服反対運動をしていた人が、「ぼくらは権力の犬だ」とか言って、自分の首に輪をつけて校門に鎖で繋がっていたり、絵の具入れに拳銃を隠し持ってくる生徒がいたり。この人は落第に抵抗して、馬術部の部室に空気銃を持って立て篭もったあげく、雪に覆われたサッカーグラウンドを、空気銃を手に馬に乗って走り回った。そして先生が「やめなさーい」って逃げ回るのを、みんなで校舎の窓からゲラゲラ笑いながら見ていたとか、お芝居みたいな光景が繰り広げられた。今から思うと信じられないけど、事件にもならないし、もちろん新聞沙汰にもならなかった。春になったらちゃんと1学年落ちて、ぼくらと席を並べていた。

――今、そんなことがあったら大騒ぎですね。

1960年6月15日

――串田さんの高校生活を語る上で欠かせないと思うのが1960年の安保闘争です。日米新安全保障条約締結に反対する人々が国会内に突入し、機動隊と右翼団体とデモ隊が入り乱れて大混乱となる中、東大生の樺美智子(かんばみちこ)さんが圧死した当日の6月15日、高校3年生の串田さんは現場にいたんですよね。どういう経緯だったんですか?

 新安保条約は戦後日本の運命を左右するとても重大な問題だと思ったから、高校生なりに友達と議論して、自分たちの意見をガリ版で刷って学校中に配ったりしていた。敗戦から15年で、どうして再び戦争にかかわる条約を結ぶのか? 意見を言わないといけないと思った。その時の仲間が親友の田山高澄君。山登りをすることを知って仲良くなって、何度も一緒に山に登った友達です。

親友の田山君と
山行には孫一さん〈右端〉が合流することもあった

 その時に書いた「安保に関するぼくらの考え」という文章を、何十年も経ってから友達が持ってきてくれました。

〈軍備がどうのこうのという問題をもっと始めから考えてみよう。軍備軍備というが、軍備とは戦争の道具だということを知らない者はいないはずだ。僕は、戦争は嫌だ。あんなばかなことを絶対にしたくない。誰でもそうだろう。それならその戦争の道具をなぜそろえようとするのだ。戦争がおきたら助けてやるとか、そのかわりお前も戦争の手伝いをしろとか、なぜいまごろそんな話し合いをやるのだ。今の世界はあまりにも子供だ。いくらなんでも赤ん坊過ぎる。まだ子供がケンカをするように戦争のことを考えている。もうそんな話はたくさんのはずだ。軍備という意味のないくだらないものにお金をかけることになるような、国と国との子供じみたいがみ合いをもっと大きくするような、そんな約束を今の日本はしようとしている。そういう僕ら自身に何ひとつプラスにもならない約束を、みんながそう叫んでいることを、日本の総理大臣はどういう形で進めようとしているか、皆知っているだろう。もう話にならない。あの男をどうしたらいいのだろう。こんなにみんなが騒いでいるのに平気でいられるあの男に、自分たちと同じことを考えているものがこれだけいるということを知らせようとするのを、全然平気な顔をしているあの男に、自分たちはどうしたらいいのかわからなくなってしまう。あまりにも酷いとわかっていることを、あらゆる手段を使っても退けることができないとき、人間はどういうことを始めるだろう。いろいろ考えて、僕は安保に反対ですし、岸は絶対にやめてほしいのです。〉

 なんだよ、こんな時からこんなこと考えてたのかよ! と自分の進歩のなさに、ちょっと恥ずかしい気がする一方で、ブレてないなっていう誇らしいような気分も味わいました。子どもの考えだし、文章も拙いけれど、自分の頭で一生懸命考えていたことはわかる。

 6月15日の朝は、田山君と他にも数人、校庭にプラカードを持って集まって、授業を受けているみんなに向かって「授業をボイコットして、国会に行こう!」と呼びかけた。すると、世界史の上木先生が校舎から校庭に降りてきた。「これは教室に連れ戻されるな」と構えていたら、ぼくらの話を聞いてくれて、「よし、私も一緒に行こう」と言って、そのまま吉祥寺の駅に向かって歩き始めた。今から思えば、先生は止めるのと一緒に行くのと、降りてきた時には決めかねていたんじゃないかな。ぼくらが拙いなりに「今、行かなきゃいけないんです」と説得するのを聞いて、本気だとわかってくれたんじゃないかな。危ないことがあったらいけないから守る意味もあったのかもしれないけど。ともあれ、こっちはちょっと背伸びして政治運動をした気分だったのに、先生が一緒に来ることになって、保護者がいるみたいな気分にもなっちゃった。

 でも現場に着いたら、想像していたよりもはるかに激しい動きになった。国会議事堂前駅から出て、どんどん押されて、結局門をこじ開けて国会の敷地内に入った。一緒に行った仲間たちとガッチリ腕を組んでいないと離れ離れになるような大混雑で、腕を組んでいたのに、最終的にはみんなバラバラになってしまった。先生もいなくなった。催涙弾は飛んできて涙は止まらないし、かなり危ない状況だった。「こんな状態で意見表明なんかできるわけない」と思っていたところで、高校の先輩で早稲田に入っていた斎藤憐に出会いました。「お前も来てたのか!」。そこで「今、東大の女子学生が殺されたというニュースが入った」というのも聞かされた。この先どうなるんだろう? 自分も殺されちゃうかもしれないとか、いろんなことを考えた。とにかく頑張ってしばらくその場にいて、そこから先の記憶はあんまりない。

濱谷浩撮影 《怒りと悲しみの記録、1960 年 6 月 15 日》

 結局、岸信介内閣が強行採決した新安保条約は、その4日後の19日に自然成立。残ったのは、すごい挫折感。こんなに多くの人が反対しているのに、何の意見も聞かないのかと。でも、ぼくはその翌日にまた国会に行った。今度はひとりで。子どもだったから、まだ反対できるだろうと思ったのかもしれない。成立しようと何だろうと意見は表明したいと思った。でも、国会前には誰もいないし、まるで何もなかったような静寂に包まれていた。ただ、掃除をしている人がいるだけ。そのあっけらかんとした情景にショックを受けた。「なんで?」無性に悔しかった。

 そのあと70年安保もあったし、政治活動とまったく無縁ではいられないんだけど、どこか距離を置いたのは、あの翌日の光景の印象が強かったからだと思う。でも、高校の時のあの経験は、どこかで芝居の題材にしなきゃいけないと思う気持ちはある。演劇をやっている人でも、あの当時のことを振り返っている人はたくさんいるから、ぼくが言わなくても……と思ったりもするし、そうじゃない形で何かできないのかなとは思い続けています。

(次回は初めての自主上演のお話の予定です)

串田和美
俳優・演出家。日本大学芸術学部演劇学科中退後、俳優座養成所を卒業し文学座に入団。1966年、六本木の「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」を本拠地とする劇団・自由劇場を結成。1975年オンシアター自由劇場に劇団名を改め、「上海バンスキング」「もっと泣いてよフラッパー」「クスコ」などの大ヒット作を生み出す。1985年、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督に就任。コクーン歌舞伎も成功させる。2000年日本大学芸術学部演劇学科特任教授に就任。2003年まつもと市民芸術館芸術監督に就任。2023年、演劇創造カンパニーであるフライングシアター自由劇場を新たに立ち上げて活躍中。2025年10月、吉祥寺シアターで「西に黄色のラプソディ」を上演する。1942年東京生まれ。父は哲学者で詩人の串田孫一。紫綬褒章、芸術選奨文部科学大臣賞、旭日小綬章など受章・受賞多数。

聞き手:草生亜紀子 
ライター・翻訳者。近著は『逃げても、逃げてもシェイクスピア――翻訳家・松岡和子の仕事』(新潮社)

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