太陽の地図帖『よしながふみ『大奥』を旅する』からの引用を交え、SF時代劇『大奥』の作品世界を紹介する。
和宮親子(ちかこ)内親王は、孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母。幕末の、幕府と朝廷の公武一和を目指す融和政策により、14代将軍・家茂の正室として江戸に降嫁した。
『大奥』では、13代将軍・家定と14代将軍・家茂は女将軍である。和宮は孝明天皇の弟なのだが、実際に大奥にやってきたのは、男装した替え玉の姉という設定になっている。和宮の姉は、生まれた時から片手がなく、日陰の身として育てられ、江戸行きを厭う弟の身代わりとなったのだ。
和宮は3代将軍・家光の再来
作者のよしながふみは、和宮についてこのように語っている。
――胤篤が最後の有功で、和宮が家光の再来なんですね、二人は恋愛関係にはなりませんが。和宮も、家光と同じく日陰の身で育ち、ひねています。今度は、出会ったのは女の子だったんだけど、自分を受け入れてくれて。和宮が面白いのは、家光と違って男装していることに大したストレスがないんです。のちに女性の着物も着るようになりますが、「私はいつだって私です」なんです。どちらもできる、選択可能という自由さは、幕末になり、ちょっと違う風が吹いてきた、というところで。新しい時代が来ているんですね。
(P70「天璋院と和宮」よしながふみが語る創作秘話より)
では、実際の和宮はどのような人物だったのか。
唱えられる「替え玉」説
実際、和宮には数多くの謎が存在し、「左手がない説」や「替え玉説」も根強く唱えられている。
有吉佐和子の歴史小説『和宮様御留』は、家茂に嫁したのは和宮の替え玉で、しかも一人ではなく二人もいたという仮説に拠っている。「あとがき」によれば、東京に住む旧名主の一婦人が有吉を訪ねてきて、「和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代わりに立ったのは私の大伯母でした」と話したのが、きっかけとなったという。
「欠損した左手」の謎
和宮は、徳川将軍家の菩提寺である増上寺に埋葬されている。昭和30年代、歴代将軍と正室・側室の墓所が改葬され、その際、学術調査が実施された。
和宮もその対象となり、身長143.4㎝ほどの小柄な女性であったことが判明している。筋肉量が少なく(重い物を持つことがなく、運動もあまりしていなかったのではないか)、内股であり(幼い頃から内股で歩く教育をされていたのだろう)、「貴族形質」を有しているともされた。
遺骨の調査を行なった人類学者の鈴木尚は、その著書に「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ不思議にも左手首から先の手骨は遂に発見されなかった」(『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会)と記している。また、和宮が箱根で暴漢に遭い、そこで自害したという趣旨の投書が調査団にあり、その時、左手首を切り落とされたという説もある。さらに、和宮の肖像画に左手が描かれていない、和宮の彫像が手を隠したようなデザインになっていることなどもあり、和宮は生まれつき左手がなかったか、何らかの理由で左手首を欠損していたのではないかとの推測がなされるようになったのではないだろうか。
家茂への愛を貫いた和宮
和宮と家茂の結婚は、幕末の悲劇を象徴する政略結婚とされるが、その政治的な思惑とは別に、二人の仲は睦まじかったという。
実際に、二人の関係を象徴するエピソードがいくつも残されている。
――和宮は、家茂の最後の上洛の際、御土産に西陣織を望んだが、家茂は大阪で死去し、その織物だけが和宮の手元に届いた。『大奥』にも描かれているように、和宮は織物を抱き、泣き伏したという。さらに家茂を想い、つぎの歌を詠んだとされる。「空蟬の唐織ごろも何かせむ 綾もにしきも君ありてこそ」。のちに和宮はこの織物を増上寺におさめ、家茂の供養のために袈裟に仕立てられたとされ、「空蟬の袈裟」とも呼ばれた。(*1)
(P74-75 野本禎司「政略結婚を超えて。書簡を交わし合った家茂と和宮」より)
さらに、『大奥』では、家茂上洛の際に和宮がお百度詣を行うシーンが描かれるが、これも史実として記録されている(*2)ほか、二人が交わした書簡には、家茂が和宮の頭にできた「おでき」を心配したり、和宮が家茂からの贈り物を雛の節句の際に飾ったなど仲睦まじいやり取りが残されている(*3)。
(*1)永島今四郎・太田贇雄編『新装版 定本江戸城大奥』(新人物往来社)
(*2)「静寛院宮御側日記」(宮内庁書陵部所蔵、日本史籍協会編『静寛院宮御日記』一・二[東京大学出版会]所収)。なお、『大奥』では最後の上洛の際に行なっている。
(*3)個人蔵(德川宗家文書)。德川記念財団編『徳川家茂とその時代――若き将軍の生涯』(德川記念財団)所収
家茂の没後、和宮は出家し、「静寛院」と称した。やがて訪れる幕府崩壊の危機に際しては、当初こそ対立した天璋院(13代将軍の正室)とともに立ち向かい、徳川家存続に尽力した。江戸城開城後は京都に戻ったが、再び東京に戻り、31歳の若さで死去した。
和宮は「家茂の側に葬ってほしい」という遺言を残しており、家茂の隣に葬られている。