#1 空海が祈りを深めた山を巡る
空海という一人の人間の生涯を辿るとき、個人的にもっとも興味を抱くのは、青年時代に山林修行に身を投じていたという点である。おそらくそれは、私たち夫婦が、気候や風土は異なるとはいえ、北海道の小さな森で、山を望む暮らしをしてきたこととも関係しているのだろう。
奈良県南部の金峯山(きんぷせん)は、若き空海が山林修行をしたと伝わる地。吉野川の河岸から吉野山の最高峰、青根ヶ峰を経て、山上ヶ岳までの峰々を指すというこの金峯山と呼ばれる一帯は、古来、山岳信仰の聖地であり、多くの山林修行者が祈りを深めた場所でもある。
古来、日本人にとって、山は神が天降り、鎮まる聖地だった。同時に、祖霊が鎮まる他界でもあり、容易に足を踏み入れてはならない場所だった。
一方で、山は水という恵みを里にもたらす。特に吉野山は、古代王朝のあった大和平野を潤す水源地。標高858mの青根ヶ峰からは、東西南北に4つの水流が生み出され、水分(みくまり)の山としても信仰を集めてきた。
吉野水分神社には、水の分配を司る天水分大神(あめのみくまりのおおかみ)も祀られている。
そんな山林修行の様子を、空海は、24歳のときに著した戯曲風の『三教指帰(さんごうしいき)』で、自身のモデルと思われる仮名乞児なる青年に、こんなふうに語らせている。
「あるときは金巌(きんがん)に登って、雪に逢うて坎壈(かんらん)たり」。
「金巌」、つまり金峯山に登って雪に降られ、困窮したというのだ。さらに、霜を払って野の草を食べ、雪を払って肘を枕に寝たとも書いている。
当時空海は、どんな風景の中に身を置いていたのだろう。
今は人の手があちこち入る吉野山を歩きながら、そんな想いが芽生え、大峯奥駈道を歩いたのは1年ほど前のこと。
もっとも、本来この道は女人禁制。現在も、山上ヶ岳周辺だけではあるが、女性は入れない。それもあって、今回は南奥駈と呼ばれるルートを歩いた。
道中目を引いたのは、木々の姿。
一つとして同じ樹形のない木々が、それぞれ生き様をさらけ出し、自らの立ち姿だけで、生きるとはどういうことかを、雄弁に、正直に語っていた。
あるものは折れて倒れ、
あるものは、まるで仏像を抱く光背のような形で残っている。
倒木のそばには、ひっそりと息づく小さな生命。
それぞれが定められた場所で生をまっとうする姿は、すべてが等しく美しく、静謐で濃密な空気をまとっていた。
森は、そして山は、生と死が同居する場所。
当たり前のことが、ストンと腑に落ちた。
空海は、やはり『三教指帰』の中で、食べるのはどんぐりなどの木の実や草で、10日も食べられないこともあれば、衣類も葛の蔦で織った粗末なもので、両肩を隠せないほどだったと書いている。だが、贅沢な食事や、立派な衣服を願う気持ちはない、と。
聖なる山に足を踏み入れる畏れと慎み。その想いは、空海の時代はいっそう強かったことだろう。一方で、人の手垢がつかないものを食べ、着て、心身を清浄に保ち、自然と同化しながら、自分という一つの生を全うする充足感にも満たされていたことだろう。
「志は已(すで)に奪われず」。
空海の言葉には、仏道を歩むという確固とした意思が感じられる。
では、空海は具体的にどのような修行をしていたのだろう。
そんな問いへのヒントを得るべく、吉野川の川向こうにある世尊寺(せそんじ)に向かったのは、この寺が、かつて山林修行者が集うサロンのような場所だったと耳にしたからだ。
当時比曽寺(ひそでら)と呼ばれたこの寺では、空海のような優婆塞(うばそく=出家をしていない民間の宗教者)はもちろん、興福寺や元興寺、大安寺など、奈良の大きな寺の学僧が盛んに出入りしていたという。
「月の前半の、1日から15日までは山林修行をし、16日からの後半は、奈良の大きな寺に戻って仏典を勉強する、そんな修行スタイルがあったようです」。そう教えてくれたのは、徳島県の空海ゆかりの地、太龍寺の副住職、島村泰史さん。
「たとえば薬草の勉強をしたり、ヘビを捕まえて、これが薬になるんじゃないかとか、実地勉強をしていたみたいです」。
一説では、闇夜の地光によって鉱脈の有無を占い見る方法が試されたとも言われている。金峯神社のご祭神が、鉱物を司る金山毘古神であることも、それと無縁ではないだろう。
では、なぜこの寺に多くの山林修行者が集まったのか。
それは、この寺が吉野寺と呼ばれていた飛鳥時代、法興寺(現在の飛鳥寺)や法隆寺、四天王寺と並ぶ4大寺院の1つであり、一時は護摩堂3つを含む、16もの伽藍が建ち並んでいたという、隆盛ぶりにあるだろう。
加えて、奈良時代は虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)という秘法が、この寺で盛んに行われてもいた。ご住職によれば、現在礎石のみ残る東塔跡には、もともと聖徳太子によって建てられた五重塔があり、虚空蔵菩薩が祀られていたという。
虚空蔵菩薩は、虚空蔵求聞持法を修行する際、ご本尊となる欠かせない仏様。修行中は、記憶力を高めるため、知恵の菩薩である虚空蔵菩薩の真言を100万回唱えるという。
もっとも、この仏像がいつ作られ、現在どこにあるかはわからなくなっている。東塔の五重塔も、戦国時代の文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見城に移築した際、三重塔となり、その後慶長6年(1601)に、徳川家康によって滋賀県の園城寺(おんじょうじ)に寄進された。
とはいえ、空海もこの地で求聞持法を行ったという説があるのは、おおいにうなずける話だった。
一方、空海が金峯山で山林修行をした際、拠点としていたと伝わるのが、天川村にある天河大辨財天社。
近隣の天峯山には、江戸時代まで求聞持堂があり、「お大師さんがそこで虚空蔵求聞持法をしていたと、先人から伝え聞いています」と宮司の柿坂匡孝さんは言う。
実はこの神社には、空海が護摩を焚いた後の灰と土を練って作ったとされる「灰練り弁天」が残っている。
空海は、この神社のご祭神である弁財天を日本の4大弁財天、つまり天河、竹生島、江ノ島、厳島の中で第一に挙げ、法力を与えてくださる法弁天と言い表したと伝わっている。
「お大師さんは弁天様を自分の母親のような存在で崇め祀ったと言われています。さまざまな地で満月を弁天様の光として拝み、神様とのうけい、たとえば水田だったら、次の満月までにうまく水が引けるよう努力するなどの約束を交わされたとも捉えられています。中国の唐では、水利土木技術なども学んだようですし。ですから、それぞれの地にふさわしい農業のやり方や暮らしを導いていくわけです。よく、お大師さんが杖でトントンと叩いたら、そこから水が湧き出たという伝説が残りますが、それだけ水脈に関して熟知していたということだと思います」。
まだまだ尽きない空海談義。今回はひとまず、ここで終わることにしよう。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。