見る力
猫は「見る」達人。
たとえ何気なく歩いていても、
何か気になると感じたら、足を止めてまずは見る。
ときには、何分も目を離さず、じっと動かないことも。
人を見るときも、
上っ面の言葉にだまされない。
自分の見抜く力と感覚だけで、
安全か危険かを判断する。
もっとも、ひとたび安全と判断したら、
思う存分、したいように過ごす。
人の目なんて気にしない。
人は人、自分は自分。
だから思いっきり、のびのびと。
自分を生かす能力は、猫の方が上のようだ。
今月の言葉
「やっぱり自分を出すより手はないのです。
何故なら自分は生まれかわれない限り自分の中に居るのだから」
──熊谷守一(参照:別冊太陽スペシャル『気ままに絵のみち 熊谷守一』)
長い髭をたくわえた独特の風貌と無欲な人柄から、「画壇の仙人」などと呼ばれた熊谷守一。明治・大正・昭和と3つの時代にわたったその97年の生涯は、周囲の環境が流動的な中で常に自分自身を見つめ、画業では紆余曲折がありながらも、自分というフィルターを通してさまざまな事象を鋭く観察し、表現し続けた、まさに「自分」を生き抜いた時間だったと言える。
主なモチーフは、草花や鳥、猫、虫などの小さないのちたち。ときに月や太陽などを描くこともあった。キャンバスではなく、板に直接赤鉛筆で輪郭線を描き、その線を消さないように鮮やかな色を丹念に塗り上げる、いわゆる「モリカズ様式」が特徴で、油彩画の6割以上が4号寸法(約24×33㎝)の小さい作品だという。
もっとも、そんな独自の画風が確立されたのは、70歳を超えてから。絵で食べていけるようになったのも50代後半からで、しかもその突破口となったのは、油彩画ではなく日本画だった。迷いのない簡潔な画風は、長年対象を見る目を磨き続け、自身の心境やものの見方の変化に即して試行錯誤を繰り返した結果、行き着いた表現なのだろう。
守一は、明治13年(1880)に、現在の岐阜県中津川市付知(つけち)町の裕福な家に生まれた。だが、3歳のときに父の事業の後継者となるため、生母から離され、父が岐阜で経営する製紙工場の隣にある別宅で、第2夫人や異母兄弟と暮らすようになった。複雑な家庭環境や、父の仕事を手伝う中で見えてきたのは、周囲の大人たちの思惑や妬み。守一が終生人と争うことを避け、自分自身と向き合うようになったのは、そんな幼少時代の環境が影響していると思われる。
17歳で上京したのも、男子の教育は東京でという父の方針によるものだった。だが、守一は絵の道に進むことを決意。父を説得し、まず日本画の画塾で学んだ後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)西洋画科に入学した。在学中は、洋行帰りの黒田清輝などからアカデミックな教育を受け、西洋の画法を身につける一方、同級生の青木繁らと交流し、自分なりの表現をつかむために研鑽を積んだ。だが、父が莫大な借金を残して急死し、守一は窮乏生活を強いられることに。加えて、美術学校を首席で卒業したものの、売るための絵を描かなかったことから、一時は農商務省が組織した樺太調査隊に同行し、異境の地の地形や海産物などをスケッチする記録係の仕事をしたり、生まれ故郷の付知に戻って、厳寒期に山で伐採された大木を、丸太に乗って下流まで運ぶ肉体労働に就くなど、厳しい自然の中で暮らした時期もあった。
やがて、大正4年(1915)、35歳で再び上京。折しも、旧態依然たる文展に反発した洋画家たちが二科展を結成した翌年のことで、守一は友人たちの勧めで、二科美術展覧会に作品を出品し、ほどなく二科会員にも推挙された。その後、二科技塾(のちの二科美術研究所)の講師となり、生徒とともに人物のデッサンや、スケッチ旅行に出かけて風景画を描くなど、油彩画で自分らしい表現を試み続けたが、やはり売るための絵は描けず、生活は苦しいまま。結婚し、子どもも次々と生まれたが、5人のうち3人を病気で亡くしている。
日本画を描き始めたのは、そんな守一の暮らしぶりを見かねて、友人たちが日本画なら気楽に描けるのではと勧めたことがきっかけだった。人生初の個展も日本画で行っている。
76歳で軽い脳卒中の発作を起こし、外出を控えるようになってからは、多くの時間を自宅の庭で過ごした。ときにはムシロを敷いて寝転びながら、誰もが見過ごしてしまうような、蟻などの小さないのちを見つめていたという。「絵と言うものの私の考えはものの見方」──。自身がそう書いているように、守一にとって描くことは、単に絵筆を動かすことではなく、小さないのちの目に見えない部分まで観察し、心を通わせ、どう捉えたかを表現する行為だったのだろう。守一もまた、猫と同じく「見る」達人だったと言える。
今週もお疲れ様でした。
おまけの1枚。
(人の目なんか気にしない……が、一応は見る)
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。