東大寺に残る空海の足跡
何度見ても圧倒される。
正式には盧舎那仏(るしゃなぶつ)、もしくは毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。現在は「奈良の大仏さん」として親しまれている東大寺の大仏様を見上げるたび、いつも考える。なぜこれほどまで大きな仏様が必要だったのだろうと。
アジアの風を感じさせる南大門も、
どこかおおらかな大仏殿も、
すべてはみな、この大仏様に見合うように作られている。
南大門をくぐってからずっと感じてきた壮大なスケール感は、すべて大仏ありきで創り出されたのだということを、歩いた道のりを振り返り納得。改めて、大きさへの素朴な疑問が湧いてきた。
空海は、どんな想いでこの大仏様を見上げていたのだろう。
ときには脇侍の虚空蔵菩薩を拝みながら、求聞持法を修法した日々を思い返すこともあっただろうか。
東大寺は、もともと聖武天皇が国家鎮護のため、当時の日本各国に建立を命じた、いわゆる国分寺の一つ。なかでも一等の官大寺で、天下泰平・万民豊楽を祈願する道場であると同時に、仏教の教理を研究し、学僧を養成する学問寺としての役割も担っていた。奈良時代は、大安寺と同様に南都六宗、つまり三論宗、成実(じょうじつ)宗、法相(ほっそう)宗、倶舎(くしゃ)宗、律宗、そして華厳宗の六宗が兼学されていたという。
この6つの宗について、ごく簡単に説明を加えれば、三論・成実・法相・倶舎宗は、釈迦の説法を記録した経典より、釈迦の教えを解釈し体系化して論ずる、いわば哲学や学問の要素が強く、律宗は戒律を重視。一方華厳宗は、『華厳経』(正式には『大方広仏華厳経』の旧漢訳『六十華厳』)をよりどころにしているという。
入唐前の空海は、1宗を修めるだけでも難しいとされるこの六宗を、ときに大安寺の先輩僧侶から教えを受けつつ、ほぼ独学で頭に叩き込み、とりわけ『華厳経』に強い関心を持っていたとされている。のちに空海が著す『十住心論』では、悟りに至る過程を10段階に分けて、各段階に儒教や仏教の各派を当てており、最終ステージの第10段階は真言密教、華厳宗はその一つ下となる第9段階に置かれているのだ。
そんな『華厳経』のご本尊が、大仏様。毘盧遮那仏(盧舎那仏)はサンスクリットの「ヴァイローチャナ」の音写語で、「光明遍照(こうみょうへんじょう=この世界をあまねく照らす光)」という意味があり、「光の仏」とも表現される。
「実は盧舎那仏と大日如来は、解釈が違うだけで、もともとは一緒なんです」
東大寺執事長の上司永照さんは言う。
真言密教の教主、大日如来は、サンスクリット語で「マハーヴァイローチャナ」。「マハー」は大きいという意味で、「ヴァイローチャナ」は、華厳経では、前述の通り「光明遍照」、真言密教では「日」と訳されている。
「ヴァイローチャナはそれ自体が真理であり、太陽の光のように、我々に対して差別なく光を与えてくださる万物の源、というような存在です。ただ太陽の場合は、本当に近くにいたら焼け死んでしまうでしょうし、影を作ってしまいます。ですから、そんな物理的概念を通り越した、もっと大きな、宇宙全体を照らしている光と言えるでしょう。小さいところや遠いところ、暗いところ、どんなところにもその光は存在し、どこにも影を作らずすべてを照らしている。それがヴァイローチャナで、お釈迦さまが悟られた真理です。ヴァイローチャナは存在自体が真理ですから、華厳経では、盧舎那仏は何も語らないとされているんです」
対して、大日如来は、同じ真理そのものでありながら教えを説く。その違いがあるという。
真言密教の根本経典である『大日経』は、この大日如来の説法を編集し、理論を実践するための方法をまとめたもの。一説では、若き空海はこの『大日経』と出会い、当時日本にはいなかった密教の実践を極めた師を求め、唐を目指したと言われている。空海にとってこの大仏様は、『大日経』への興味や、のちに真言宗を開く素地を育んだ存在、とも言えるだろう。
もっとも、空海の入唐の目的は定かではない。『大日経』に関する話も、伝承である。だが、空海は、東大寺にたしかな足跡を残している。
入唐が決まった空海は、東大寺の戒壇堂で具足戒(ぐそくかい=仏教の修行者が遵守するべき戒のこと。男性修行者は250戒、女性は348戒ある)を受け、官度僧、つまり正式な僧侶となっている。
さらに、唐からの帰国後16年が経った弘仁13年(822)には、嵯峨天皇の勅命により、密教の正統な後継者となるための儀式を行う灌頂道場が創設され、空海は真言密教の修法を行うようになるのだ。官大寺である東大寺に灌頂堂が建立されるのは、国家的に真言宗が認められた証。以後、この場所は真言密教の南都での拠点となり、東大寺は前述の六宗に真言宗、さらに天台宗も加えた八宗兼学の寺となるのだ。
現在真言院と呼ばれるこの塔頭は、南大門をくぐってほどなく現れる。
「お大師さんは、弘仁元年の810年に東大寺の第14代別当(寺務を統括する長官に相当する僧侶)になったと伝わっていて、そのとき真言院ができたとされています。場所は今より少し南の東大寺ミュージアムのあるところで、大仏殿から見て南に位置することから、当時は南院と呼ばれていました。ただ灌頂堂は、建立当時のまま、場所も建物も変わっていないと聞いています。おそらくこの灌頂堂が建てられる前後に、南院がこちらに移設されたのではないかと思います」
東大寺真言院ご住職の上野周真さんは言う。
真言院では、毎年4月21日、つまり空海が入定(永遠の瞑想に入ること)した日に、大師堂で御影供が行われる。その日は東大寺の僧侶だけでなく、高野山真言宗の管長や僧侶も、法要に参列するという。
「高野山からは毎年8名ほどの方が来られます。昭和55年(1980)に大仏殿の昭和の大修理が終わった頃から、高野山の方々とご縁ができて、参列されるようになったと聞いています。逆に、高野山で毎年旧暦3月21日に行われる旧正御影供には、東大寺の管長や真言院の住職などが参列することになっていて、私も毎年高野山に行っています。東大寺は現在華厳宗のお寺ですが、明治以降は上野家が代々真言院とお大師さんをお守りしてきたので、ご縁を感じますし、思い入れも強いです」
御影供の当日は、穏やかな快晴に恵まれた。
境内の藤も満開。
国際色豊かな人々が参道を行き交うにぎわいとは別世界の、静かで厳かな空気の中、法要が始まった。
この日、主に唱えられたのは、密教経典の一つである『理趣経』。
『大日経』や『金剛頂経』という密教の根本経典と並んで、重要な経典とされている『理趣経』は、真言宗では法事や葬儀、大法要はもちろん、日常の勤行でも読誦されるという常用経典。東大寺でも、御影供のほかに、公慶上人や重源上人などの月命日の法要や、本坊で行われる本山葬で理趣経が唱えられるという。
「華厳宗としての法要の形はないので、法儀がきちんと形としてある真言宗の影響は、東大寺の場合、大きいと思います。ただ明治時代に一寺一宗と定められるまでは、三論宗と華厳宗が力を持っていて、別当を務めるのも三論宗の僧が多かったようです」と上司さん。
真言宗の影響は随所にみられる。たとえば正式な僧侶になるための密教の修行である四度加行(しどけぎょう)は、真言宗醍醐寺派総本山の醍醐寺の次第によって行われるという。4段階で進められるこの四度加行の最後には、護摩の法も修法され、境内にある二月堂では、十一面観音を本尊とする護摩祈祷も毎日行われている。
さらに、大仏様の前の須弥壇に置かれているのは、空海が唐から持ち帰り、以来密教の法要で必ず用いられている法具類。
「東大寺では、真言宗のように、法要の最後に必ず『南無大師遍照金剛』と唱えることはしませんが、空海さんはいつもおられる、私はそんな気がするんです。人間ですが、人間ということにすると納得がいかないというか……。この大仏殿という空間をボワーッと包んでいる空気があって、それが強いエネルギーを持ってうねりながら動いている。大仏殿よりもっと大きな、宇宙的な存在というのでしょうか。密教、そして空海さんに対して、私はそんなイメージを持っています」
上司さんの言葉が、心の中でゆっくり広がっていく。
さらに、話題は毎年行われる修二会(しゅにえ。通称お水取り)へ。この法会にも、空海にまつわる伝承があるという。詳しくは次回でご紹介しよう。
堀内昭彦
写真家。ヨーロッパの風景から日本文化まで幅広く撮影。現在は祈りの場、祈りの道をテーマに撮影中。別冊太陽では『日本書紀』『弘法大師の世界』などの写真を担当。著書に『ショパンの世界へ』(世界文化社)、『おとなの奈良 絶景を旅する』(淡交社)など。写真集に『アイヌの祈り』(求龍堂)がある。
堀内みさ
文筆家。主に日本文化や音楽のジャンルで執筆。近年はさまざまな神社仏閣をめぐり、祭祀や法要、奉納される楽や舞などを取材中。愛猫と暮らす。著書に 『カムイの世界』(新潮社)、『おとなの奈良 心を澄ます旅』(淡交社)、『ショパン紀行』(東京書籍)、『ブラームス「音楽の森へ」』(世界文化社)など。