謎に包まれた写真家
1900年前後のパリを撮影したウジェーヌ・アジェは謎に包まれた写真家である。彼の姿は、アメリカ人写真家べレニス・アボットが写した2枚のポートレートでのみ知ることができる。70歳で亡くなる直前に撮影されたもので、1枚は真正面から、もう1枚は右横から撮影されている。黒いウールのコートを着込んだいかつい顔の大男で、背中が丸く固まっている。1898年ごろから1927年の死に至るまで、六つ切りの組み立て暗箱の写真機と三脚、ガラス乾板を毎日背負ってパリを歩き回り、あらゆる場所に入り込んで写真を撮った。機材は10キロから12キロあるものだったから、それが大男の背中を丸くしたのだろう。
私が初めてアジェの写真を見たのは、写真学校に入ったばかりの頃。学校の購買部で教材として買わされた重森弘淹著『現代の写真』においてだった。掲載された写真は幅が8センチくらいのものだったのに、その写真に引き寄せられた。ショーウィンドーのマネキンを写したもので、外の景色がガラスに反射して写り込んでいる。文庫本に印刷された小さなものなのに力のある写真で、その衝撃は今でも覚えている。アジェの写真を頭の中に叩き込みたくて、写真学科の図書館で、写真集を繰り返し、繰り返し見た。それからものすごく好きになった。しばらくして、銀座のイエナで『The World of Atget』を手に入れてからも飽きずに見た。当時注目されていたアメリカの写真家ウィリアム・クラインやロバート・フランクのような斬新さや派手さはないが、庶民の日常が映し出され、じんわり胸に響くものがあって、いいなと感じた。
汚れた路地裏、馬小屋で暮らしているくず屋の家族、ホテルの戸口に佇む娼婦、バーのカウンターと遠くに見える階段、石畳の道に立つさまざまな物売り、そして、手廻しオルガンを奏でる老人と街角の少女歌手など。それらアジェが撮影したのはパリの街角の写真なのだから自分には関係ないはずなのに、見ているうちに子どもの頃の記憶が甦った。谷中に住んでいた時、家の前に木でできたゴミ箱が置かれていた。ゴミ箱の木蓋に腰かけた私と友だちに陽光が当たっている、そんなシーンだった。アジェの写真は路地裏の狭いところを撮っているからなのか、あるいは別の理由なのか、見る者の郷愁を帯びた記憶を呼び覚ます力を持っているのだ。

アジェが生まれたのは1857年2月。フランス南西部ボルドー近くの街で、馬車の車体修理工の長男だった。アジェの写真に馬車が写り込んだものが多いのは、そのことが影響しているのかもしれない。幼くして両親を亡くし親戚に引き取られる。神学校に入学するも途中で退学して、給仕として商船に乗りアフリカや南アメリカなど遠くの国を目にする機会を得る。やがてパリに出て役者を志し、パリ国立演劇学校に入学するが兵役のため中退。だが演劇をあきらめることはなく、兵役を終えると、旅回りの劇団で役者になった。1886年、アジェが29歳の時に、生涯の伴侶となる女優のヴァランティーヌ・ドラフォスと出会う。10歳年上の女性だった。ヴァランティーヌは演劇界で名声を得ていくが、アジェは1987年に演劇活動に終止符を打つ。その理由は明らかにされていない。
1890年ごろ、役者を辞めて一人でパリに戻ったアジェは、最初は絵描きになろうとして油絵を描き始めたが、すぐに諦めて写真を始めた。私はアジェが描いた絵を見たことがある。キャンバスの真ん中に太い木の幹をドンと描いた絵だった。上手いとは言い難いけれど、その絵を見た時に、すでにアジェの作家的な目や姿勢はできあがっていたと感じられた。1892年、写真を始めたアジェは、アパートのドアに「芸術家のための資料」という看板を掲げて、風景や歴史的建造物、植物、動物といった、絵を描くための資料を撮影していく。アジェから写真を買った画家には、ユトリロやモジリアーニ、キスリング、ブラック、佐伯祐三の名前があり、藤田嗣治もアジェから買ったと、私は木村伊兵衛から聞いたことがある。ユトリロや佐伯祐三は私の好きな画家であったが、アジェの写真を見てからは、アジェのほうが好きだと思った。パリの街角や人々が絵のようにデフォルメされることがなく、ただ写し撮られている。アジェの感情移入は皆無であるのに、そこにある建物の存在感や、暮らす人々の息遣いや声までも伝わってくるような気がした。
古き良きパリのあらゆるものを記録する覚悟
生活の糧にする目論みで「芸術家のための資料」を撮り始めたアジェは、しばらくして「古き良き時代のパリの、しかし、失われていくあらゆるものを写真で記録する」という覚悟を決めた。そして実際に、パリの20区を1区ずつくまなく歩き回り、歴史的建造物、古い建物、大通り、路地裏、曲がりくねった道の敷石、壁、階段、戸口に立つ人、ショーウィンドー、マネキン、店先に並べられた魚や野菜、古道具、くず拾いの街、芸人、娼婦、馬車、家の内部などを、隅々にわたって写し撮っている。
1899年10月、アジェは終のすみかとなるモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街のアパートに引っ越した。10月16日、パリ市歴史図書館に古い写真シリーズ100枚を125フランで買い上げてもらった記録が残っている。1枚1フラン25サンチームは安い食堂の1食分。アパートの家賃は3ヶ月175フランだった。アジェはその後、生涯で撮影したおよそ8000枚のうち、合計5500枚をパリ市歴史図書館に売却している。さらに、建築歴史博物館、キャルナバレ博物館、パリ国立図書館なども原板をアジェから買い入れ、現在も所蔵している。

同時代にパリを撮影した写真家は複数いるが、当時の写真は絵画的な形式を模倣することが主流だった。それらと比べるとアジェの写真はまったく違う。人が歩いている道の真ん中から、人の目で撮る。人の暮らしが中心で、アジェ自らが暮らしの中に入って撮る。だから絵画的写真とは明らかに違う。暮らしぶりが伝わり、人々の話し声が聞こえてくる。
写真乾板の場合、午前中の直線的な光の方がよく撮れる。アジェは毎朝、夜明けと共に起き、古びた服を着て、重い装備を担いで撮影していた。そんなアジェは下町の人たちにとって仲間という感じがあったのだろう。商店の店主やバーテンダー、街角の物売りや芸人、くず屋もくつろいだ表情で写真の中に収められている。あまり表には出てこない、パリの娼婦たちの写真も多いが、それは彼女たちに頼まれて撮ったものだという。娼婦たちの表情がやわらかいことからも、アジェには気を許していたことがわかる。アジェはパリの庶民や、さらには底辺の人たちと同じ目線を持っていた。アジェはパリを記録したといわれているけれど、単に記録するだけではなく、被写体との関係性を成立させているところもすごい。

そのものがそこにあるというリアリティ
私は、絵をやめようと思って写真学校に入ったのに、それでも絵のほうが楽しくて、写真を撮らず絵を描いていた。写真は案外おもしろいかもしれないと思ったのは、デモの写真を撮った時だった。外に出かけていけば、何かにぶち当たって撮れるという気がした。ちょうど絵もうまくいかなくて、いくら悩んでも描けるようにはならない。写真は行動すれば撮れるところが魅力だし、自分に合っているような気がしてきた。そうした中でアジェの作品を見て、こういうものなら、自分でもやっていけるかもしれないと感じられた。だから、私が写真を志すきっかけとなったのはアジェなのだ。そして私は1969年から三里塚闘争を撮影することになるのだが、闘争だけを撮っていたのでは写真家にはなれない、アジェのように人の暮らしを撮らないといい写真は撮れないのではないか、と考えるようになった。三里塚とアジェを結びつけるのは違和感があるかもしれないが、私はアジェを意識しながら三里塚を撮ったのだ。
アジェの写真にじっくり目を凝らしていくと見えてくるものがある。写されている1本の木、1つの橋が堂々とした存在感を持って迫ってくる。無意味と言えば無意味なのだが、そのものがそこにある、あったというリアリティをいかに盛り込めるかは写真家にとっては大事なところで、アジェのリアリティは実に濃厚だ。
アンドレ・ブルトンやマン・レイといったシュルレアリストたちがアジェの写真を評価したことはよく知られている。淡々と無意識に対象を切り取る視線はシュルレアリスムが目指す方向であった。しかも、アジェの写真には、ショーウインドーに別の風景が映り込んでいるといった表現的なテクニックだけでなく、深層心理を刺激する何かが潜んでいることも影響しているのではないだろうか。ブルトンがシュルレアリストたちの機関誌『シュレリアリスム革命』で、アジェの写真を数点紹介している。アジェは、写真を載せることと売ることは許可したものの、クレジットを載せることは拒否したという。また、マン・レイが持ち運びやすいカメラや感度の高い現像液を勧めても、自分は今のままでいいと断った逸話も彼らしい。

1925年、その後のアジェにとってかけがえのない存在となる人物がアパートを訪ねてきた。アメリカの写真家ベレニス・アボットだ。当時パリでマン・レイの助手をしていた彼女は、マン・レイからアジェの写真を見せられて衝撃を受け、アジェに会いにやってきたのである。訪問を重ねるうちに、アジェはアボットに対して少しずつ心を開いていったのだろう。1927年、アボットは自らのスタジオでアジェのポートレートを撮影した。それが冒頭で紹介した2枚である。いつもボロボロの服を着ていたアジェが、その日はパリッとしたコートを着て現れたのでアボットは驚いた。
その撮影の数日後にアジェは亡くなってしまう。40年間連れ添ったヴァランティーヌが先立ってから1年後のことだった。アボットは原板とプリントの散逸を恐れて、約2000枚の原板と1万枚のプリントを購入。アメリカに持ち帰って粘り強くアジェの紹介につとめる。1968年にニューヨーク近代美術館に収めることに成功。そして1981年から5年の間に、ニューヨーク近代美術館は4回シリーズで回顧展を開催。アジェの評価は不動のものとなった。現在のアジェの名声はアボットの功績が大きい。
アジェのオリジナルプリントの力強さ
私が初めてアジェのオリジナルプリントを見たのは1977年のことだ。日本で最初に写真のコマーシャル・フォトギャラリー「ツァイト・フォト・サロン」を開く直前の石原悦郎さんから、「アジェのオリジナルプリントをパリから持ってきたから見にこないか」と誘われたのだ。石原さんが持ってきたのは、パリの有名な現像師ピエール・ガスマンによるプリント130点と、アボットがプリントした数10点、アジェ自らがプリントしたものもあった。ガスマン版は、パリ市歴史博物館が所有する約5000枚のガラス乾板から焼きつけられたものだった。アジェのオリジナルプリントは、とてもきれいで力強さを感じるものだった。
石原さんは、ツァイト・フォト・サロンの開設記念展(1978年4月20日〜5月5日)においてアジェを含むヨーロッパの写真家を紹介。これに合わせるように『アサヒカメラ』1978年4月増大号で「アッジェ再発見」の特集が組まれ、石原さんが提供した40点を掲載。翌1979年3月には、石原さんの協力で写真集『アッジェのパリ』が朝日新聞社から刊行された。この写真集には、ガスマンと共に私が書いたアジェ論が載っている。このために苦労して資料を集めて勉強をしたが、今改めて見ると、ガスマンと私という顔合わせに冷や汗がでる。石原さんは、アジェを紹介することで一躍有名になったけれど、オリジナルプリントを買う習慣がまだ根付いていなかった日本において、アジェのプリントを売るのは難しかったようだ。

カークランドシグネチャー(右頁)
私は、「アサヒカメラ」で1974年から3年半にわたって「村へ」「そして村へ」を連載した。連載の後半くらいから「ふつうの日常を撮る」という意識になってきた。価値のないものを、写真を撮ることで何らかの価値を見出すのが写真の良さ、と私は考えるのだ。アジェはその先駆者だ。
のちに「アサヒカメラ」1994年5月増刊号で「誰も知らなかった中国の写真家たち」という特集が組まれた。その中で中国の写真家たちが「ふつうの人たちのふつうの暮らしをとりたい」と言っているのを読んで、心が震えた。そして、彼らが理想としているテーマは、アジェが基本としていたものだと思い当たった。アジェの時代にふつうの暮らしを撮るということは画期的なことで、これは私にとって大きな発見だった。
木村伊兵衛も日常を撮った。庶民の預金では買えなかったライカを手に入れたのも、下町の日常を撮りたかったからだ。ふだんのままの秋田の農村を撮り、パリの街角を撮った。1974年に刊行された写真集『パリ』で、木村さんはアジェについて語っている。
「パリでねらったのは,庶民を撮ることですよね。だから,シャンゼリゼーやオペラ通りなどは通りいっぺんという感じで,宿屋の近くの汚ねぇところばかり歩いていました。メニールモンタンとかサン・ドニ辺ですね。パリでは,カルチエ=ブレッソンとかブラッサイとかロベール・ドアノーとかの写真家に会いましたけれど,このドアノーというのももっぱら庶民をねらって撮ってましたね。要するにアジェと同じふうなことをやってる。アジェてのは,ありゃもう名人ですよ。何であんないい写真をいっぱい撮ったのかわかりませんよ。不思議な人です。それで,アジェとドアノーに何か先手を越されたような気もして口惜しいわけですよ」
特別な修業をしたわけではないのに、アジェは撮り始めた時からいい写真を撮り、優れた写真家だった。すでにすごい眼を持っていたのだ。
マン・レイは、「写真は芸術ではない」と言っている。私も写真は芸術ではないと考えているが、それでもアジェの写真を見ると、アジェは芸術家だと言わざるをえない。それまで誰も注目しなかった「日常を撮る」ことを選び、古き良き時代のパリを記録するため、無名のままお金に関係なく信念を貫いた。ゴッホ以上の芸術家だと私は思う。
