季節の有職ばなし
●嘉祥
旧暦の6月16日を「嘉祥(かじょう・嘉定とも)」と呼んで、お菓子を神様に供えて疫病退散を願う日としました。現代では「和菓子の日」になっています。江戸時代、宮中では七種の菓子、幕府では八種の菓子を供えて宴を催し、民間では銭16文で16個の菓子と餅を買って食べる、という風習もありました。和菓子の日としては、まず良い設定だと思います。
しかし、なぜ6月16日なのか、いまひとつ根拠が曖昧なのです。タイムリーな疫病ばなしとして「西暦848年(承和15年・嘉祥元年)の夏、疫病退散を願って〈嘉祥〉にと改元した」というお話があります。
『本朝歳時故実』(草田寸木子/江戸中期)
「六月十六日、此日かじやうといふ事あり。歌林四季物語にいはく、かじやうは嘉祥とかきて、仁明のすべらぎ、承和の比ほひに、御代のさか行ことお祈らせおわして、賀茂上の御屋しろにたてまつりて、御はらひなど、なしそめ給へり。六月十日余り六日なん、吉日なるよし、御うらの人々、かうがへ申せばとて、此日おこなはれ、年号をもあらためて、嘉祥とものせしかば、ながく此事嘉祥と、ねんがうによりてさだめられしと、当社縣主、賀茂の道幹が日記に侍る。」
平安初期の仁明天皇の御代に、6月16日に御祓いをしたことを記念して「嘉祥」に改元した、それが元であると鴨長明が『歌林四季物語』に書いている、というのです。この話は「和菓子の日」を制定した、全国和菓子協会でも採用しています。
駄菓子菓子……いや、だが、しかし。正史である『続日本後紀』には、「嘉祥」改元についてこうあります。
『続日本後紀』
「嘉祥元年(848)六月庚子《十三》。改承和十五年為嘉祥元年。下詔曰。(中略)百王之所同貴。近有大宰府献白亀。所管豊之後国大分郡擬少領膳伴公家吉。於寒川石上得之。」
九州で白い亀が捕獲されたのを記念して「嘉祥」に改元した、と。しかも改元は6月13日であって、16日ではありません。室町時代の認識は……。
『世諺問答』(一條兼良/室町後期)
「とふていわく、嘉定と申事は何のゆへぞや。答、この事はさらに本説ありがたきことにや。たゝかの銭の銘に、かぢやう通宝と侍れば、勝と云みやうぜんを、しやうくわんするよしをぞ承をよび侍りし。」
嘉祥の行事は、宋国の「嘉定通宝」にちなんだものだという説もあるとのこと。
『倭訓栞』(谷川士清/江戸中期)
「かじやう 六月十六日の儀式也。仁明帝の時より事起りて、年号の嘉祥も同じきよし、鴨長明が四季物語に見えたり。後嵯峨帝の時、嘉定通宝の銭の事いへる説も侍り。されど嘉祥は宋寧宗の年号。後嵯峨帝の踐祚よりは、わづか二十年前の事也といへり。禁中にてかつうともいへり。よて嘉通とも書り。実は納凉会成べし。」
こうなりますともはや「諸説あります」という状態です。宮中での「嘉祥」は「嘉通」「嘉定」とも呼んで、単なる納涼宴会であるとしています。では宮中の主である帝は何と仰せかと見てみましょう。
『後水尾院当時年中行事』
「六月十六日。兼日おのおの嘉定をたぶ。(中略)何にても七種とりならべて、御前に供ず。」
何か7品のアテを用意する宴会、ということのようです。
『禁中近代年中行事』(江戸時代)
「六月十六日 嘉定、女中ことばにかつうといふ。昼すいせん上ル、葛切の事なり。銀のはちに入ル。三方に銀の大ざら七寸程の銀のちよくに、しやうゆの汁入ル、銀のすくひ有。ゆのこすくひなり。御はし有 次に七かじやう むくぐわし七色、あいのかわらけ七ツに入。七色の内うづら餅有、うづらの鳥のごとし。」
女官たちは葛切りを食べたり、7つ7色のお菓子を食べております。いずれにせよ、どうして6月16日で、なぜお菓子なのか、その根拠は判りません。ただ、江戸時代に「6月16日はお菓子を食べる日」として広く知られていたことは間違いありません。
御所の菓子御用を勤める虎屋は、今も『嘉祥菓子』7ヶ盛を販売しており、幕末に御所に納めていた菓子をもとにしているとのこと。それぞれの菓銘は、武蔵野・源氏籬(げんじませ)・桔梗餅・伊賀餅・味噌松風・浅路飴・豊岡の里です。(『嘉祥菓子』7ヶ盛は6月16日で販売終了)
●夏越祓と茅の輪くぐり
6月30日、各地の神社では「夏越の祓(なごしのはらえ)」が行われます。境内には「茅の輪」が設けられ、その輪をくぐることで半年間の罪穢れを祓うとされる行事です。このとき、歌を唱えながら輪をくぐります。
『公事根源』(一條兼良・室町後期)
「六月 大祓 卅日。けふは家々に輪をこゆる事有。
みな月の なごしのはらへする人は
ちとせのいのち のぶといふなり
此歌をとなふるとぞ申つたへ侍る。然るに法性寺関白記には、
思ふ事 みなつきねとてあさの葉を
きりにきりても はらへつる哉
此うたを詠ずべしとみえたり。」
これによると複数の歌が唱えられたようですが、一般的には『拾遺和歌集』(1006年頃)で「よみ人知らず」とされる
「水無月の 夏越の祓する人は
千歳の命 のぶといふなり」
がポピュラーなものとされます。この「茅の輪」というものは何かと言えば、いわゆる「蘇民将来」伝説によるもの。旅のスサノオノミコトが、宿を貸してくれ、粟飯でもてなしてくれた蘇民将来に 「お前の子孫が疫病にかからないようにしよう。疫病が流行したら、お前の子孫は腰に茅の輪をつければ、疫病にはかかるまい」 と約束したのです。
『釈日本紀』(卜部兼方/鎌倉末期)
「備後国風土記曰。疫隅国社。昔、北海坐志武塔神、南海神之女子乎与波比爾出。坐爾日暮、彼所蘇民将来二人在伎。兄蘇民将来甚貧窮。弟将来富饒、屋倉一百在伎。爰武塔神、借宿処。惜而不借。兄蘇民将来借奉。即以粟柄為座、以粟飯等饗奉。爰畢出坐。後爾経年。率八柱子還来天詔久。我将奉之為報答、曰汝子孫其家爾在哉止問給。蘇民将来答申久、巳女子与斯婦侍止申。即詔久、以茅輪令着於腰上。随詔令着。即夜爾、蘇民与女子二人乎置天、皆悉、許呂志保呂保志天伎。即詔久。吾者、速須佐雄能神也。後世爾疫気在者。汝蘇民将来之子孫止云天、以茅輪着腰在人者、将免止詔伎。」
これがなぜ夏越の祓の行事になったのかは不明ですが、夏は疫病のシーズンですからね。平安時代にはそうなっています。
『執政所抄』(藤原忠実政所/平安後期)
「六月 晦日御祓事
御禊身 八足供物<居茅輪立小幣。供瓜茄子桃> 麻布 綿 折敷供物
茅人形 解縄 散米 居坏 折敷一枚居之、在栗栖野高坏。
菅祓三所御料、各置折敷居高坏<三所御料同前>。已上旬出納為例勤仕之。」
腰に付けるサイズであった「茅の輪」が、いつからくぐるような大きなサイズになったのでしょうか。少なくとも室町時代中期には、輪をくぐる大きさになっています。天皇はじめ女官や殿上人たちが輪をくぐっています。
『薩戒記』(中山定親)
「応永卅三(1426)年六月卅日壬辰。(中略)次庁官於中門廊南切妻献御輪。資親取之。自同間進入。事了被返出資親取之。於本所返賜庁官。此後内内於御前男女入輪。」
『建内記』(万里小路時房)
「永享十一年(1439)六月卅日丙午、天晴。今日之祓如例。依晦也。(中略)今夜六月祓。私儀如例。菅貫<同菅曹、云菅貫云菅曹。以菅(少々藁交之)造之。以紙巻其上也>居蓋送陰陽師許<在貞朝臣、父在方卿籠居、仍送子許、如去年也>。(中略)次越輪<輪トハ菅貫事也。曹ハ持左手、祓持右手。越(天)後ニ打払テ気ヲ吹懸也>。三度如此。(中略)重服ノ者は祓ヲ不持、只越菅貫許也。」
「嘉吉元年(1441)六月廿九日。今夜六月祓如例。(中略)仍菅貫等如例、調遣之処、相副祓返渡之。越輪令祓之儀如常。」
『二水記』(鷲尾隆康)
「永正十四年(1517)六月卅日。於議定所、主上女中男等入輪如常。」
江戸時代も続けられました。宮中での輪くぐり作法は詳細に書き残されています。
『後水尾院当時年中行事』(後水尾天皇/江戸初期)
「六月晦日。(中略)御蔵みな月の輪を調進す。内侍所の刀自、取伝へて台はん所の台はんの上に置。御引なほし召れて、朝かれひの御座につかしめ給ふ。上臈一人、例のひとへ絹をいたきて御前に進む。着座の後、かけ帯はかりをかく。中臈のひとへ絹を着て台はんの本によりて、輪をとり、麻の葉さしたる竹をぬきて麻の葉はかりを輪にとり添て御前にもて参る。上臈とりて御座の上に置。麻の葉を右の手にとらせまします。上臈、輪のはしをもたく先、左の御足をふみ入給ふ。次に御右。
みな月の 名こしのはらへする人ハ
千とせのいのち のふと云也
と云歌を、御口の中に唱給ふ。此等も俗にならふ事にや。されと後成恩寺関白の公事根源抄にも此事書れたれハ、いかさま昔より世俗に有ける事と見えたり。上臈もたけたる輪をおろし奉る。輪二ツを越て御後ろさまに出しおはします。此定に三度のらせましまし歟。御手にもたせ給たる麻の葉をおかる。上臈、輪に取そへて撤す。次に入御。其後たいはんの上なる輪を女嬬とりて、御前にもて参る。女御なとあれは、御三間にて典侍いれ参らす。其外の女中は御しもいる人もいらぬ人も、ひとへ絹を着す。服者、月のさはりの人なとハいらす。次第にいりはてゝ後、輪を東のすのこに差出して簾みなたる。六位の蔵人、便宜の所より参りて、輪のもとに候す。内々の男衆、次第に進み出。蔵人、輪をもたけて入。
事をハりて蔵人退く。輪をハ又とり入て下々へくたす。釆女、女官、女嬬、御内々局々の官女に至るまて皆入終りぬ。」
天皇は輪をくぐらずに、床に置いた輪に「まず左の御足をふみ入給ふ。次に御右。」と、左右の足を交互に入れるだけのようです。また茅の輪は「菅貫(すがぬき)」とも呼ばれました。
『堀河院御時百首和歌』(平安後期)
「八百万 神もなごしになりぬらん
けふすがぬきの 御祓しつれば
(藤原朝臣仲実)
千年まで 人なからめや六月の
みたび菅ぬき いのる御祓に
(阿闍梨隆源)」
『倭訓栞』(谷川士清・江戸中期)
「すがぬき 菅貫と書り。茅輪をいふ。輪二丈六尺、囲八寸。藁をもて造り、茅を心とし、紙をもて纏たる者也。内侍所の調進は茅のみを用といへり。」
ということで、「菅貫」で調べてみますと……。
『拾玉集』(慈円/鎌倉初期)
「夏はつる 今日の禊の菅貫を
こしてや秋の 風は立つらん」
鎌倉時代には「菅貫を越えて」とあります
『玉葉』(九條兼実)
「元暦二年(1185)六月卅日辛巳。六月祓如例。(中略)女房又有月障、然而解解縄、撫大麻無憚。於管貫者、有月障之人不為之。以衣裳代之。」
生理中の女房は菅貫には及ばず、衣裳をもってこれに代える、とあります。「月の障り」があるので本人が輪をくぐらず、衣類を輪にくぐらせる、とも読み取れます。後水尾天皇も「月のさはりの人などは入らず」と言っていますし。……としますと、平安末期にはすでにくぐるタイプの大きな輪であったと考えられます。
次回配信日は、6月27日です。
八條忠基
綺陽装束研究所主宰。古典文献の読解研究に努めるとともに、敷居が高いと思われがちな「有職故実」の知識を広め、ひろく現代人の生活に活用するための研究・普及活動を続けている。全国の大学・図書館・神社等での講演多数。主な著書に『素晴らしい装束の世界』『有職装束大全』『有職文様図鑑』『宮廷のデザイン』、監修に『和装の描き方』など。日本風俗史学会会員。